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誕生日に想う錦織圭のルーツ――「ケイ・ニシコリは凄く日本人っぽい」という海外記者の視点

内田暁フリーランスライター
ツアーファイナルズの準決勝に入場する錦織

「ケイはアメリカに10年以上も住んでいるのに、凄く日本人っぽいよね」 

アメリカのスポーツ総合誌『スポーツ・イラストレイテッド』でテニス記事を執筆するコトニー・グエンにそう指摘されたのは、11月の“ツアーファイナルズ”でのことだった。人種の坩堝サンフランシスコで育ったベトナム系アメリカ人の彼女は、アジアの文化にも造詣が深い。その彼女が、13歳からフロリダのIMGアカデミーを拠点とするアジア人選手の一挙手一投足に、色濃い“日本人らしさ”を感じていたと言う。

グエン氏いわく、錦織は髪型やファッションが日本人っぽく「まるで漫画『テニスの王子様』から抜け出してきたみたい」。人前での所作も礼儀正しく、話せばシャイで照れたような笑みを浮かべる。好きな食べ物を聞けば、列挙するのは日本食ばかり。そして何より彼女の印象に強く残っているのが、錦織がミッキーマウス柄のiPhoneケースを使っていたことだったという。

「アメリカ人では20代前半の男性トップアスリートが、ミッキーマウスの携帯ケースを所持することはまずないわね。少なくても、人前でそれを見せはしないわ」

それが彼女の見解だ。もちろんアメリカ人アスリートだって、ミッキーマウスのスマートフォンカバーを持ちたいと思うこともあるだろう。ただ、アメリカの一般大衆が男性アスリートに求める“男らしさ”やある種のマチズモが、それを拒む風潮があるという。そんなアメリカ的価値観に縛られることなく、どこまでも自然体に振る舞う錦織の姿に、グエン氏は驚きと共に好意的な「日本人っぽさ」を見いだしていた。

そして、だからこそ……と彼女は言う。「そんな風にシャイで日本人っぽい彼が、いつどの時点で“俺は世界一を目指すんだ!”という強い野心を持ちえたのか知りたいのだ」と。「いつかじっくりインタビューする機会があれば、ぜひそのことを聞き出したいわ」。

好奇心を掻きたてられたように、そしてどこか嬉しそうに彼女は言った。

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そのような思いを抱いていた米国人ジャーナリストは、グエン氏だけではなかったようだ。アメリカ最大の全国紙『USAトゥデイ』の記者であり、ATPが選出する今季の“メディア・アワード”受賞者でもあるダグラス・ロブソンは、ツアーファイナルズの会見で錦織に次のように問うた。

「日本には、目上を敬う“センパイ・カルチャー”があると聞く。あなたは年齢やランキングが上の選手たちと対戦する時、そのようなメンタリティに邪魔されることはないのか?」

質問が終わらぬ内にその意図を悟った錦織は、聞くそばから頬に苦笑いの溝を刻んで、こう答える。

「実はそこが、プロになった頃に最も苦労した点だった……。最初の頃は、全ての選手に敬意を払い過ぎてしまった。特に初めてロジャー(フェデラー)と対戦した時、僕はただプレーをするだけで、勝つという気持ちを全く持てなかった」。

強いメンタルを持つことが、アジア人にとり最も難しい点だ――そうも錦織は加えた。その精神面の壁を取り除くことこそが、今季コーチに就いたマイケル・チャンから「耳が痛くなるほど」言い聞かされた薫陶でもある。

「やはりマイケルは、ケイにとって最適のコーチだったんだろうね。マイケルはアジア的なカルチャーも理解できるし、アメリカ的なメンタリティも持っている。その双方をつなげるブリッジになったんじゃないかな」

抱いていた謎を解く鍵が得られたのか、ロブソン記者はそう言い深くうなずいた。

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テニスは、究極の個人競技と言われる。ひとたびコートに足を踏み入れれば、どこまでも一人で様々な局面を打破し、自己表現しながら戦い抜かなくてはならない。しかしだからこそ、彼・彼女たちのコート上の孤独な姿には、その選手が育ってきた境遇が、触れてきた文化が、あるいは関わってきた人びとの想いや夢が、切ないまでに投影される。ゆえに選手のプレースタイルや心の揺らぎに、国民性や国の特性を見いだす者も少なくない。

2008年の全米オープンで錦織が当時4位のダビド・フェレールを破った際、『ニューヨークタイムズ』紙は彼の繊細なプレーを「絹のように舞う」と形容した。あるいは今年1月の全豪オープンでラファエル・ナダルと熱戦を演じた翌日、地元紙のコラムニストは、錦織の創造性を折り紙に例え「一枚の紙が、巧緻な工芸品に変化するようだ」と称えた。“絹”も“折り紙”も日本的なイメージの象徴だろうが、同時に“錦織”という美しい名を連想させるところも興味深い。そういえば錦織家のルーツは、「錦織部の渡来人らしい」と、父親の清志さんから伺ったことがある。

錦織の生い立ちやプレーのルーツに想いを馳せた時、学生時代に国際文化研究会に属し、若いころから海外志向の強かった父・清志さんの影響を思わない訳にはいかない。そもそも、アルファベット一文字で表現できる“K=圭”の名にも「外国でも覚えてもらいやすいように」との父の願いが込められている。錦織一家が暮らす松江市は、日本海と宍道湖に挟まれる“水の都”であり、海のすぐ向こうには異国がある。もしかしたら水の都は、海外が身近な街なのかもしれない。

もっとも、清志さんが子供たちに最初にテニスを教えた地は、島根県で唯一海に面していない市・雲南であった。清志さんの生家があるこの街で親子はテニスに汗を流し、練習後には祖父母の家に遊びに行くのが、かつての錦織家の週末の光景だ。

そのように雲南市で磨かれた原石は、直ぐにまばゆい光を放ち、その才能に相応しい器を求めるように練習の場も広く整った環境へと変わっていく。最初はラインもネットも無い公園だったが、ほどなくするとテニスコートへ。やがて“器”は松江市のインドアコートへと移り、ついには太平洋を越えて米国のフロリダ半島にまで至った。錦織少年が、13歳の時のことである。

その渡米から4年半後――。第二の故郷とも言えるフロリダで、錦織は自らの名を世界に轟かせる。世界ランキング200位台の無名の18歳が、デルレイビーチ国際で予選から頂点にまで駆け上がり、センセーショナルなATPツアータイトルを手にしたのだ。その知らせを聞いた時、雲南市の祖父は一言「圭はもう、家を継いではくれんのだな……」とつぶやいたという。祖父母の家の表札には、自分たちに加えて息子夫婦の名、さらには孫の圭と、その姉の名も刻まれていた。

世界のトッププレーヤーへと成長した今、錦織はフロリダのアカデミーに渡った当時の心境を「テニスに打ち込める環境を楽しく思うと同時に、強くなるために来たので、義務や責任感も感じていた」と振り返る。アメリカはあくまで彼にとり、自己を高めるために必要な環境ということだろうか。「あの子はどこかで、アメリカ的な考えや価値観に染まる必要なんてない。むしろ、そうなるものかと思っていたところもあるかもしれませんね」。母の恵理さんは、愛息の心境をそうおもんばかった。

錦織はいつも一時帰省を終えてアメリカに戻る時、例え両親や家族が見送りにきていようとも、ゲートに向かい歩き始めたら最後、決して後ろを振り返らなかったという。自らが歩む道に連綿と連なる両親や友人、関係者たちの想いや愛情を背に感じながら、彼は顧みることなく、前のみを見て進んでいった。

テニスは、究極の個人競技である。ひとたびコートに立てば国籍の枠に捕らわれることはなく、国を代表して戦う訳でもない。それでも彼・彼女たちは、自身の背に折り重なる歴史を織り成すようにプレーをし、触れてきた文化や国民性を錦のように浮かび上がらせる。ならば選手たちの姿に、同じ性質を持つ者たちが共感するのも当然だろう。

錦織圭は、異国のジャーナリストたちも驚くほどに、日本人らしさを体現しながらコートで戦う。そのような彼と同時代を生きる、我々はとてつもなく幸運だ。

フリーランスライター

編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスのライターに。ロサンゼルス在住時代に、テニスや総合格闘技、アメリカンフットボール等の取材を開始。2008年に帰国後はテニスを中心に取材し、テニス専門誌『スマッシュ』や、『スポーツナビ』『スポルティーバ』等のネット媒体に寄稿。その他、科学情報の取材/執筆も行う。近著に、錦織圭の幼少期から2015年全米OPまでの足跡をつづった『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)や、アスリートのパフォーマンスを神経科学(脳科学)の見地から分析する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。

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