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ウィンブルドン2回戦、錦織圭のセンターコート初勝利の一戦を、対戦相手のJ・ベネトーの視点から見てみる

内田暁フリーランスライター
(写真:Rex Features/アフロ)

ウィンブルドンのセンターコートに立ち、錦織圭と相対する34歳のベテランの、世界ランキングは547位であった――。

今大会「街のクラブコーチがウィンブルドンセンターコートに立ち、ロジャー・フェデラーと戦うシンデレラストーリー」の主人公として英国中の人びとの心を打ち、“ウィンブルドンの奇跡”とまで呼ばれたマーカス・ウィリスのランキングが772位。

もっとも、この日センターコートに立ったジュリアン・ベネトーのケースは、ウィリスのそれとは大きく異なる。ウィンブルドン本選出場は12回目。最高ランキングは、1年半前に達した25位。10年近くにおよびトップ50に定着しているベネトーは、むしろツアー界でも、最も安定した戦績を残してきた選手だ。

しかしそんな彼のキャリアには、一つのパラドックスがある。

シングルスでの、ツアー優勝が1つもないのである。

実力が無い訳では、決してない。何しろ決勝進出は、実に10を数えているのだから……。

くしくも、というべきだろうか。十度目の正直に挑んだ2014年9月のマレーシアオープン決勝の、対戦相手は錦織圭。この時の錦織は全米オープン準優勝の大仕事を成し遂げた直後で、身心の疲労とプレッシャーに全身を縛られながらの戦いだった。しかし対するベネトーも、初優勝への強すぎる思いからか、重要な場面でミスが出る。最終スコアは6-7,4-6。6度目のタイトルを掲げる24歳の横で、32歳は寂しげに、10個目の準優勝カップを手にしていた。

それでもベネトーの、2014年最終ランキングはキャリア最高の25位。30歳を越えて最良のシーズンを過ごしたが、試練は、その僅か数カ月後に訪れる。両足の付け根を襲う、耐えがたい痛み。診察の結果は“スポーツヘルニア”であり、両足ともに手術を要した。そのため約10カ月間、ツアーから離脱する。

さらには復帰し間もない今年2月のマルセイユ大会では、ふくらはぎを負傷し2カ月の休養を強いられた。今季、ツアー大会本選での勝利は、ウィンブルドンまではなし。そんな彼が、プロテクトランキングを用いて出場したウィンブルドンで、初戦を突破し2回戦へ。しかも戦いの舞台は、雨によるスケジュール変更を経て、期せずしてセンターコートとなったのだ。これを「奇跡」と言っては当然、元25位の実力者に失礼だ。だが34歳の彼が得た、“僥倖”なのは間違いない。

その舞台でベネトーは、自分の持てる力を全て披露すべく、圧巻の集中力で試合に入っていた。錦織が警戒していたバックの強打にネットプレーもブレンドし、第1セットはベネトーが奪い去った。

しかし第2セットに入ると、開始直後から飛ばしたツケが、徐々に顕在化しはじめる。

「第2セット……いや、第1セットの終盤から、既に疲れを感じていた。フィジカルが、まだ十分ではなかった」

肉体的疲労のため増え始めたミスを、世界の6位は見逃してはくれない。ストローク戦で押され出したベネトーに、巻き返す力は残っていなかった。

試合後の彼は、明らかに落胆していた。しかし同時に、明るい側面にも目を向ける。

「ウィンブルドンのセンターコートで、圭のような素晴らしい選手と良いプレーが出来たんだ。これは今の僕にとって、確実に良い予兆だ」。

自身のキャリアが終焉に近付いていることは、心のどこかでは自覚している。それでも、1年近くに及ぶ手術とリハビリの間も彼は、引退のことは一度も考えなかったと言う。そのモチベーションの最大の源泉が、シングルス優勝への渇望。

「難しくなっているのは分かっているが、もう一度ファイナルに行きたい。それが僕がコートにまだ立つ、大きな原動力なんだ」。

さらに34歳になり、若い頃と比べ様々な面で自分の変化を感じるようになった今、彼は、新たなパラドックスを抱え始めているようだ。

「今の僕は若い頃に比べ経験があるから、大会に来てもリラックスできている。それに一番大きいのは、試合が終わった後のこと。試合を振り返り、色々と冷静に分析できるようになった」

それなのに、奇妙なんだよ……と、無精ひげに覆われた、修道士のような生真面目な表情を崩さず、彼は続ける。

「試合に負けた後に、敗戦を忘れて次に気持ちを切り替えるのが、とても難しくなったんだ。どんどん、難しくなる。どんどん、敗戦の悔いを忘れられなくなっていく。特に、セットポイントやマッチポイントを逃した惜しい試合は、なおさらなんだ」

果たしてこの日の試合でも彼は、第2セットの第8ゲームで、ゲームポイントを手にしながら錦織にパッシングショットを決められた、あのネットアプローチを悔やんだだろうか?

あるいは第3セット第6ゲームのゲームポイントでおかした、バックハンドのミスを引きずっただろうか?

新たなパラドックスと付き合いながら、昔から抱える最大のパラドックスを解くために、彼は再び、コートへと戻っていく。

フリーランスライター

編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスのライターに。ロサンゼルス在住時代に、テニスや総合格闘技、アメリカンフットボール等の取材を開始。2008年に帰国後はテニスを中心に取材し、テニス専門誌『スマッシュ』や、『スポーツナビ』『スポルティーバ』等のネット媒体に寄稿。その他、科学情報の取材/執筆も行う。近著に、錦織圭の幼少期から2015年全米OPまでの足跡をつづった『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)や、アスリートのパフォーマンスを神経科学(脳科学)の見地から分析する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。

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