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【世界ALSデー】FC岐阜・恩田聖敬社長が語る「ALSとサッカー、家族とこれから」

秋元祥治やろまい代表取締役/武蔵野大学EMC教授/オカビズ
「おもいっきりの変顔」のリクエストに答える恩田氏と、筆者

今日、6月21日は世界ALSデー。体の筋力が動かなくなっていく難病「ALS」(筋萎縮性側索硬化症)、今年1月末に難病ALSに罹患したことを公開したJリーグチーム「FC岐阜」の恩田社長へのインタビューを通じて、ALSの実態の一端と、そしてALSを患いながら一方で、夢に向かってチャレンジを続ける恩田聖敬さんの姿を伝えたいと思います。

インタビュー風景
インタビュー風景

ALSになられて、今の率直な思いを聞かせてください

率直にこういった病気になったことは、本当に大変なことですけども、どうしようもできないことはどうしようもできないので。その中で自分がよくなっていくために自分でできることをやってきて、今の自分がある。自分の力で病気を治すことはできないですが、病気と付き合いながら自分らしく生きるってことは決してできないことではないと思っていますし、本当にありがたいことに、公表してから、いろんな方から「がんばれ」「応援してるよ」と声をかけてもらえてます。こういう立場であるからこそ、周りの声もいただけると思うので、自分がやれる限りは社長を続けて恩返しをしていきたいなと思います。

異変を感じられたところから、病気だとわかるまでのエピソードは?

体に違和感を覚えたのは、2013年の年末年始にかけてです。実家に帰ってたんですけども、甥っ子と遊んでいてジャンケンをしたら右手のチョキで、人差し指、中指が開きらないということがあったり、夜、食事をしていて若干、箸が持ちにくかったりということが始まりでした。

「脳の血管でもつまったのか」と思ったので、年始すぐ千葉に戻って病院に行ってMRIとかとりました。脳には異常がなくて、原因がわからなかったのですが、神経が若干痛んでいる可能性があるので薬を飲んで様子を見ましょうということになりました。そういう話をしている間に岐阜にくる話が出て、2月に来ました。そこからはもう、ばたばたしていたので、あまり状況に改善もみられなかったんですが、劇的に悪くなることもなかったので、そのまま仕事をしていて、4月に社長になりました。

社長就任会見の恩田氏
社長就任会見の恩田氏

異変を感じながらの、社長就任だったのですね

うちのチームドクターにも相談したら、神経内科でちゃんと検査してもらったほうがいいって話になって。社長になって、もう自分だけの体じゃないので健康配慮もしなければと思って、5月に無理やり時間をとって岐阜大学で3日ぐらい検査入院しました。それで1週間後くらいに検査結果が出て、ALSの疑いがある、と。

診断結果をうけて、どうされましたか?

その時点では右手の単なる違和感でしかなかったので、「将来的に体中が動かなくなる」と言われてもあまり実感はわきませんでした。ちょうど岐大の診断を受けた日が初めて知事と監督と後援会の星野会長と4人で食事をする日で、そんなことを考えている暇がなかった。診断は聞きながら、現実としてはとらえきらない感じでした。

当然セカンドオピニオンが必要ということで、8月に名古屋大学で検査を受けて、その時点では右手はかなり悪化していて、左手にも若干症状が出る感じでした。

診断結果をうけて、これからのことはどう考えたのですか

セカンドオピニオンでも、同じ診断を受けまして。妻が横にいたというのもありますが、そのとき未来を初めて考えました。その瞬間は動けているけど、本当にしゃべれなくなって、動けなくなって。自分が夫としても親としても、何かをしてあげられることができるのかなあと。

ALSの患者さんも呼吸ができなくなった時点で、人工呼吸器をつけずに死を選ぶ方もいて、そういうことももちろん考えました。何もできなくなって、幸せなのかなあと。そういうことを初めて感じました。

でも妻が「生きたいってあなたが思えれば、一緒に生きられる」と言ってくれました。そこからはどうやって生きていくか、コミュニケーションができなくなるならどうやって自分の声を残していくか、やっていかなければと思いました。

ちょうどおととい(取材時の)、声の録音のソフトがあるので、合計で7時間くらいかけて録音させてもらいました。2か月後くらいにできあがるんですが、パソコンにテキストを打ち込むと私の声で再現されるというシステムです。こういうものも今つくってもらっているので、発信できなくなっても対応できるようになるかなと思っています。

インタビューに答える恩田氏
インタビューに答える恩田氏

妻や子ども、家族のことはいかがですか

子どもは、6歳と3歳で、4月から小学校と幼稚園ですね。

妻は、「この病気自体で死ぬわけではないし、余命を宣告されたわけではないので、一緒に生きていこうと思えば生きられる」とパニックにならずに、最初の診断のときから言ってくれました。それは本当にありがたかったですね。子供はまだ、手足の調子が悪いとしか話していません。でも着替えを手伝ってくれたり、お風呂で体を洗ってくれたり、いろいろ助けてくれるので、優しい子になってくれればいいなと思いますね。

家族や友人と過ごす時間を大事にするため、退任は考えませんでしたか?

究極的には私のわがままでしかないと思います。自分が今、したいこと、生きているという実感を持っていられることと考えたときに、仕事という選択肢がありました。自分は社会人になってから仕事を通して成長してきました。藤沢さん(藤澤 信義氏・Jトラスト代表取締役、恩田氏の元上司)との出会いがあって、いろんなことを勉強させてもらって、人間力、生きていく力は仕事で培われたと思っています。本当に今の仕事は、その仕事の中でも天職です。

お客さんを楽しませて、ありがとうと言ってもらえて。それを自分の故郷、岐阜でできるっていうのは、望んだって普通できないことだと思います。そんなポジションをせっかくいただいてやらせてもらっている限り、やりたい。

もちろん、療養に専念して治るのであれば、そういう選択肢もあります。でも、それ以上に自分がしたいことをして、自分自身が前を向いて生きている姿を家族にも見せて、ちゃんと自分がお金を稼いで家族を守っていくってことが今の自分にできる最良のことだと思ったし、それが一番、生きている実感を得ることかなあと思いました。

FC岐阜になぜ、そこまで入れ込めるのですか?

岐阜に来て、いろんな方との出会いがありました。星野会長をはじめ、古田知事、細江市長、それ以外にも本当にいろんな方とご縁をいただいてお話しをする中で、FC岐阜に対して皆さんが思いを持ってくださっているということや、個人に対しても 格別の配慮をいただいて、いろんなことを学べる場になっていることがあります。

そして何よりサポーターの皆さん。サッカーを応援する人たちの熱気が、自分の想像を超える大きさ、熱さを持っていました。これが岐阜県全体に波及していけば、岐阜といえばFC岐阜と呼べるような胸を張れるものができるかもしれないと思いました。

自分の野心とか野望とかとは違うけども、好きな岐阜県が何かで活気づく姿を見れればいいなあと。想像以上に自分は岐阜が好きなんだなあと改めて実感しました。

いっしょに盛り上げたいんだけど、いまの岐阜にはそれがないというみんなの思いも感じました。

試合終了後に、勝利のハイタッチの応じる恩田氏
試合終了後に、勝利のハイタッチの応じる恩田氏

FC岐阜に関わって「楽しい」感じる瞬間は?

まず、スタジアムでサポーターの皆さんをお出迎えするときですね。本当に皆さん、楽しみな喜んだお顔で入っていかれて、これから楽しいことが起きるぞと思いながら入っていかれる姿を見たときに、実感します。

最近であれば、スポンサーさまと契約の更新などでお会いした時に、「よくなったね」「もっとこうなっていくといいね」とクラブの夢だけではなくて、スポンサーの皆様にとってもFC岐阜はこうなってほしいという、夢というと大げさだけど、ビジョンが少しずつ共有されてきているのかなと感じるときは、いいなあと思いますね。

恩田さんにとっても、ラモス体制にとっても真価が問われる2年目ですが

私がこうした状況でもあるので、私がどう、というよりも、クラブとしてどうと変わっていかなければならない。去年はたしかに私が広告塔だった部分もありましたが、私が目立つ必要はないので。私の思いであったり、岐阜県に対しての思いというのをちゃんと皆さんに伝えていって、FC岐阜というチームがよくなってきたと言ってもらえる必要があると思います。

社内の組織体制や、外部に対してのアプローチも精度を高めていかなければいけないと思いますし、当然、チームとしては結果を求められる部分もある。今年のJ2は厳しいチーム並んでいますので、簡単に行くとは思っていないですが、結果は負けたとしても、試合を観ていた方が「よくやった」と言ってくれるような動きを選手がしているかどうか。そういう部分まで皆さん、ご覧になっていると思いますので。ちゃんとしたものが伝わるというのが、2年目としてのパフォーマンスではなく、根ざしたものが、クラブとしてチームとしてにじみ出てくるような。そういう体制、地盤を固めるというのが2年目として大事だと思っています。

恩田さんはいつまで社長を続ける、続けたい、思いは?

私がやっていて、ひずみが生じてくることがあれば、それは発生した時点で社長をやっていてはいけないと思います。自分自身が判断するタイミングや、周りから「もうこれは限界だ」と言われるときがあるとしたら、それはもうあらがえないと思いますね。

当然、取締役は選任されているだけのものです。私がやりたいという意志ではなくて、株主さん含めて周りが選任してくれるかどうかが基本中の基本で、私が、ほかの方がやるよりもうまくいくと皆さんが思うからやれるわけなので、そこに疑義が生じてこればしがみつくつもりはないです。それが生じないために、どうしたらいいかだと思います。もちろん、意志としてはやれるところまではやりたいです。心配をかけない体制や、自分自身の未来をどう作っていくかというのが、つながるかと思います。

社長継続へご家族、後援会、支援者の方の反応は?

前向きな反応しかなかったです。私がどうしてもやりたいと伝えたら、後援会長も監督もみんな、ぜひやってと言ってくださいました。皆さんからも、私がやり続けるためには、右腕となる人や、身の回りの世話をする人をつけるべきだとか、具体的な組織のアドバイスもいただいています。そういった意見もいただく中で、今、組み立てをしているところです。私のわがままにならないように、とは思いますが、そうした皆さんの思いはすごく感じますし、ものすごくありがたいですね。

恩田氏
恩田氏

ALS発症を1月末のタイミングで公表されたわけは

(発症がわかった)8月は当然、シーズン中でした。夏の時点ではチームの調子も悪くなくて、11~13位くらいにいるなかで、10位以内を目指していましたし、イベントもいろいろとやって喜んでもらっていて、チームの周りからの評価が決して低くない状況でした。

そこで個人の話を出してもいいことはないなと思いました。8月、9月くらいの時点では、右手はだいぶ悪化していましたが、左手はまだ普通に使えていたので、皆さんに悟られることもなく、「右手がちょっと痺れて」と言うくらいでした。まわりからみて明らかにおかしいという状況ではなかったので、ばれずにやれるなという思いもあった。

シーズンが終わるころ、11月くらいになると、かなり左手も進行していたし、足も進行している部分があって、まわりから体調が非常に悪そうだと心配ももらっていました。自分自身も思い通りにできないことが増えてきたし、これはもう黙っていると余計心配をかけるなと思いました。そこで12月に、まず藤沢さん、星野会長にお話しして、公表のタイミングは自分に預けてほしいと言っていました。

チーム編成もありましたし、新体制発表など含めて、キリのいいタイミングがキャンプに入る、シーズン直前の時期でした。選手もたぶん動揺するだろうけど、とはいえキャンプに行ってしまえば練習に集中できるので、そういうことを考えてあのタイミングがベストかと思いました。

8月に病気がわかってからの半年間は誰にも伝えなかったのですか

家族と、最初に検査入院をすすめてくれたチームドクター、トレーナーには言いました。

でもずっとみんなには黙った状態で、週に3回、5月からリハビリもしていました。

スタッフのが知ったのも、発表の直前ですね。前日や前々日くらいです。

スタジアムで、恩田氏
スタジアムで、恩田氏

周りには言わない、言えないという半年間の葛藤やご心境は?

みんなもおかしいなとは当然思っていたはずなんです。ペットボトル一つ開けられない状態でしたし、アウェイの試合に車で行ってもシートベルトを自分でつけられない状態でした。でも深い事情は言わずにやってもらわなければいけなかったので、みんな黙って手伝ってくれましたけども、そういう意味ではつらい部分もありました。言ってしまえば、お互い楽になれる部分はあったと思います。

フロントでも時々みんなでサッカーをするんですけれども、5月、6月ごろは一緒に入ってやっていたんですが、11月になってくると足が動かないので、入れなかったり、試合前の準備もテントを立てたり、バナーを貼ったりもやっていたんですが、できなくなりました。でも、なんでできないかというのもちゃんと言えなかった。現場で一緒にやるというのは自分の信条でしたし、武器でもあると思っていたので、それを失ったのはつらい部分もありました。

病気発表後、反響はいかがでした?

大きなメロンなどはいただきました(笑) あとは、お手紙はかなりいただきましたね。

ファンの方が独自にメッセージを取りまとめてくれるのもあって、それは20人くらいからもらいましたし、手紙も20通くらいは来ましたね。あとは、会社のインフォメーションメールに激励の言葉が来ることもありました。

ヤフーニュースに出で、全国津々浦々、海外からも、高校の友達、大学の友達、前職の同期など3~4日間で、100通くらい来たと思いますね。

でも「どう声をかけたら」と思ってた部分もみんなあったみたいで。なかなかメールも電話もためらってしまう人も多かったですね。意外と電話すると、「元気やないか」と。特に大学の同期は、妻もみんな知ってるので、妻に連絡があることもありました。

恩田さん、食べ物の好物は?

お寿司です。あとは、筋肉が衰えるんでタンパク質が大事ってこともあるんですけど、お肉は好きです。今夜も星野会長と選手とステーキを食べに行くんです。決起集会です。お肉は送られてきたら嬉しいです(笑)

病気をきっかけにFC岐阜に注目が集まるなか、恩田さんが伝えたいことは何ですか

皆さん、私のことをもし心配してくれるんであれば、ぜひFC岐阜の試合を見に来てほしいと思います。私自身が病気になっても賭けているものはFC岐阜なのです。間違いなく可能性のあるクラブだと私は思っています。これを一人でも多くの方に知ってもらって、このチームの価値を高めていって、皆さんに広めてほしいというのが本当に切なる思いです。

別に病気を利用しようという話では一切ないですが、私は病気になる前も皆さんにFC岐阜を応援してほしいと言っていて、それは今も変わりません。私の思いというのをだまされたと思って、試合を見に来てほしい。そうすれば会場で感じ取ってもらえるものがあるはずだと思います。

静かな迫力…なぜ、やっぱりFC岐阜をそこまでやるのですか

私は、岐阜県に生まれたことはすごくよかったなと思っています。それぐらい岐阜が好きです。自分の妻も岐阜県出身ですし、自分の親や妻の親も岐阜県出身で、自分の子供にも岐阜の血が流れています。その自分の子供たちに、親としては、岐阜県を好きであってほしい。岐阜に何かしら恩返しをしたいと思うような子供たちになってほしいなと。それが一人の親としての子供に対しての思いです。そういうふうに子供が思ってくれれば、必ず未来の岐阜はよくなるはずなんです。子供が未来を作りますから。そういうふうに思える可能性があるものがFC岐阜だと、私は思っています。

子供たちに夢を、という企業理念を掲げています。子供たちが夢を持つということは、そのままその地域の未来が明るくなること、前向きになることだと思います。

きれいな言葉すぎて難しい部分もありますが、やっぱり、「ここに生まれてよかった」「ここにいて楽しい」と子供が思ってくれれば、私がこれから生きていくうえでもっともっと楽しいかなと思っています。

まさに、「岐阜を元気に岐阜を一つに」というのを掲げていますが、スポーツってすごいと思うんです。くしくも昨年、西濃運輸さんが都市対抗野球で優勝しました。決勝戦を東京ドームで観たんですが、企業の社長さん、市長さん、一従業員が立場、老若男女、上司部下関係なくみんなで応援して、みんなで喜んで、達成感を分かち合う、ああいう姿を見たときに、岐阜県全体で岐阜も大垣も東濃も中濃も飛騨も、FC岐阜を盛り上げて、J1昇格が成し遂げられれば、一つになれるんじゃないかと思います。岐阜県を一つにできるものが現状ではないと思うんですね。

それはもう、いろいろな地域性であったり、歴史があったり、インフラだったり、いろんな事情があるのは、私も一年やってきてわかってきました。そりゃあ、東濃は普通だったら名古屋のほう向いています。西濃もそうです。 

でも、FC岐阜がもっともっと輝くチームになれば、東濃からも飛騨からも岐阜県のチームとして見てもらえることができると思うんです。それは昨年、私が42市町村の首長さん回ってお話ししたり、うちのホームタウンにも随分まわったりしたなかで、白川村からも来てくれている姿を見ているので、可能性という意味では絶対このチームはあるはずなんです。

J1だけではなくて、アジアチャンピオンズリーグとか、今はまだ到底言えないですが、そういうチームになっていってくれたとしたら、本当にFCがあるだけで岐阜県は盛り上がると思います。

そういう夢やビジョンの一方、乗り越えるべき課題は何でしょう

ビジョンという部分では、みんなもっともっと良くしたいというのは当然ですし、それを思ってやってくれているとは思うんですが、個人の思いと全体のビジョンというものを組織でどう実現するか。言ってみれば普通の中小企業でしかないので、大きなところに行くためには、今の名だたる上場企業も最初は町工場から始まったり、5人から始まったりだと思うので、その到達点に行くために何を積み上げっていったらいいかというところです。

積み上げているものがないんですね、現状うちのクラブには。毎年毎年、なんとか頑張って乗り切ってきてますので、ノウハウも残ってないですし。なので、積み上がっていかないというのがあった。

正直、昨年も走り続けただけなので、もちろん、何かしらの印象は残せましたが、実績として裏打ちされたものがあるかというと、まだまだ全然足りないと思うんですね。やっぱり、積み上げていく作業をしなければいかない。J1に行くにはJ1に適したチーム、スタッフにならないといけない。ただそれは、一足飛びにはできないので、一歩一歩をやるしかない。その一歩一歩をみんなに実感してもらいながら、ちゃんと上に上がっている、前に進んでるというのをどうみんなに感じてもらって、土台をつくるかというところが、足りないところで、やらなければいけないところだと思います。

では、これから着手すべきポイントは?

会社の大前提としては、黒字にしなければいけない。昨年は、赤字の決算になる見込みですが、やはり経常的な黒字で運営するというのは企業の大前提。黒字でない企業と言うのは、社会に必要とされていない企業なので。これがまず2015年の絶対にやらなければいけないテーマです。これは、おかげさまでスポンサー営業も昨年からプラス1億円計上されている状況もあるので、見えてきてはいます。

それと、もう一つは組織ですね。個人個人の集合体ではなく、「組織にする」ことをやらなければいけない。以前までは、いろいろなところからの派遣が多くて、プロパーがほとんどいない状況でしたが、昨年はいわゆる緊急雇用の社員だったり、かなり増えてきまして、今では8人くらいはプロパーになっている。2年後、3年後にいなくなってしまう人ではなくて、この会社に居続けて一緒にやってくれて、一緒に未来を描ける人たちと組織をつくっていくことは大事だと思っています。

(新年度に向けて)やるべきところはやっています。でもチーム側の運営費や人件費を大きく削るかというとそうではない。魅力的なチームを作るというのは、すべての面において優先させるべきところなので。そこに関しては2015年水準を最大限維持しながら、トップラインをさらにあげて黒字にするという方向性をとっています。緊縮財政というよりは売り上げ増大の方向にかじを切ってやっています。

恩田氏と筆者
恩田氏と筆者

恩田さんは、ALSになられたことはどう生かしたいと率直に思われますか

客観的に見れば面白いソースだと思いますね(笑) 自分で言うのもあれですが。公表するのならば、クラブのためにならなければ意味がないので、そういう計算は当然私もします。利用はしたい、というのが本音です。

ただ、クラブとして正面切ってやるのはやらしいし、私も同情してほしいわけではなくて、FC岐阜を見てほしいだけなので。

病気前と病気後で日々は何か変わりましたか?

残業はあまりしなくなりました。自分で車が運転できないので、朝夕、妻に送り迎えしてもらっています。今、一番問題なのが、トイレなんです。ファスナーが下せないので、お昼に妻に来てもらって、トイレ休憩と食事を手伝ってもらっています。介護ではないですが、サポートを受けながら生活しています。公表した時期と、自分でできることが減っていくスピードが一致していたので、今はこういう状況です。

ALSで痛いこと、ありますね。止まっていて痛いことはないんですけど、朝起きると指が固まっているんですね。それを伸ばすのがめっちゃ痛い。可動域がどんどん限定されていくので、それを伸ばすんですけど、そのときは痛いですね。こんな痛いなんて聞いてないぞと。

あとは、首とか肩こりとか今めっちゃひどいです。首が重たいんですよ、筋肉がなくなるので。腕も慢性的に重いしだるいです。

マッサージとか行きますよ、まああまり行ったところで変わらないんですが…。右手も途中までしか上がらない。筋肉がなくなっていっているので。神経の命令ができないから、動かなくて、筋繊維自体が衰えて、動かなくなる。

けれど、触覚とかはは変わらないです。

視覚も聴覚も触覚も頭脳もこれまで通り変わらないが、体は動かない?

やっぱり残酷な病気だと思いますよ。わかっているけど、何もできなくなるわけなので。でもわからなくなってしまうのなら、生きようと思わない。やっぱり自分がしゃべれなくなっても、そこにいるのが妻だとわかるし子供だとわかるから、生きる意味があると思うんです。そうじゃないなら、介護する側もしんどいと思う。

私は自分自身の武器っていうのは、行動力と、こういう頭で産んでもらったことだと思っています。頭が生きていれば、コミュニケーションの方法だけ確保しておけば、戦えると思っています。残酷だけど、頭が変わらないというのが逆に救いではあります。

おもいっきりの変顔を、恩田さんにリオクエスト
おもいっきりの変顔を、恩田さんにリオクエスト

インタビューの最後に、「おもいっきりの変顔」をリクエスト。表情筋も思うに任せぬ様になる中で、思いっきりで最高の変顔を見えてくださいました。【変顔】ですが、これはこだわりました。楽しくて嬉しくなる顔、そして症状が進めば二度と見ることのできない笑顔であり変顔。同世代の友人であり、尊敬するこの方の変顔は見ると、同時に嬉しくなった後、なんとも言えない悲しさとの涙がでるのです。

世界ALSデーとなる今日にあわせ、FC岐阜の恩田社長のインタビュー(3月に実施)を見返しながら掲載しました。すでに症状は進行し、車いすでの日々となる一方で、精力的に社長としてのしごとを重ねる恩田氏。

ALSという難病の中で、これを機に集まる注目があるとすれば、同情でなく恩田氏が見る夢を一緒にみて、一緒に取り組んでほしいという情熱、思い。

こんな日には、ALSに思いをはせ、そしてFC岐阜の取り組みに応援を寄せる。

詳しくALSに関心を持った方は、情報提供サイト ALS Live today for tomorrowなどを御覧ください。

FC岐阜は、長良川スタジアムをホームグラウンドに試合が続きます。

FC岐阜公式サイトを参照し、ぜひ応援を。

ではでは。

やろまい代表取締役/武蔵野大学EMC教授/オカビズ

01年より、人材をテーマにした地域活性に取り組むG-netを創業し03年法人化。現在理事。13年オカビズセンター長に就任。開設9年で約3300社・2万2千件超の来訪相談が押し寄せ、相談は1ヶ月待ちに。お金をかけずに売上がアップすると評判で「行列のできる中小企業相談所」と呼ばれている。2022年より武蔵野大学アントレプレナーシップ学部教授に就任。内閣府・女性のチャレンジ支援賞、ものづくり日本大賞優秀賞、ニッポン新事業創出大賞・支援部門特別賞ほか。内閣府「地域活性化伝道師」等、公職も。著作「20代に伝えたい50のこと」、KBS京都「KyobizX」・ZIP-FM「ハイモニ」コーナーレギュラーも。

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