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目指しているのは『ゴジラ』みたいに、一瞬たりとも安心できない映画

渥美志保映画ライター

今回は『ダゲレオタイプの女』の黒沢清監督のインタビューをお届けします。

作品は「ダゲレオタイプ」と呼ばれる世界最古の写真撮影法をモチーフにしたもの。銀板に薬剤によって像を焼き付けていく「銀板写真」なのですが、露光に時間がかかるためにシャッタースピードがすごく遅く、その間、被写体は動いてはいけないんですね。20分、30分と動けないから体への負担が大きく、苦痛を伴う撮影は時に命懸けです。そうした「ダゲレオタイプ」撮影によって「瞬間」を「永遠」にすることに固執するあまり常軌を逸してゆく写真家と、その犠牲として生きてきた娘マリー、そして写真家のアシスタントになりマリーと恋に落ちるジャンの運命を、「黒沢印」のホラーとして描いてゆきます。

「ダゲレオタイプ」って本当に独特なのですが、その概念には黒沢監督が映画に込める思いにも通じるものだたようです。自身の映画を「アート映画」でなくあくまで「娯楽映画」と語る黒沢監督の、ゆったりとインテリジェントでどこかトボけた愛嬌のあるトークの独特の心地よさを感じていただけるといいな~。ということで、まずはこちらをどうぞ!

黒沢監督=ホラーという、ご自身の作風を決定づけた作品があれば教えてください。

割と僕たちの世代にとっては、映画って最初から怖いものでしたよ。その代表的なものが『ゴジラ』です。おそらく僕が生まれて初めて映画館で見たのは『モスラ』か、イギリス映画の『怪獣ゴルゴ』、つまりは怪獣映画です。当時は小さい子供でもみんな怪獣映画を見ていました。暗い映画館でスクリーンがバーッと明るくなると、だいたい怖い音楽が流れて怖いことが始まる。人が200~300人は死んでいるだろう大災害が起こり、町が壊され、人があたふたと逃げまどうのに、恐ろしいものはそれでも襲ってくる――みたいなものを、ちょっと安全な観客席からドキドキしながら見たのが映画の原体験です。

それから僕もいろんな映画を学んでいくわけですが、これぞ映画!と思ったのは『バック・トゥ・ザ・フューチャー(BTF)』。コミカルでハッピーですが、要所要所では、「どうなっちゃうんだ、お父さん、大丈夫かよ」というハラハラドキドキはあって、それはホラーでなくとも共通するものだと思います。どこかで安心して見ていられない、ドキドキしながら2時間見ちゃったみたいな「娯楽映画」を、僕は目指していますね。

確かに黒沢監督の映画って、なんでもないシーンがめちゃめちゃ怖いですよね。

そう言っていただけるとありがたい。そうなるように試行錯誤して、あの手この手を繰り出しているわけです。もちろん本当に贅沢にお金をかけて、何も考えなくても「すげーな」って見続けられる映画は、ひとつの理想形として羨ましいですが、莫大なお金がかかります。こちらは予算的な制約がありますから、そんな瞬間は1本の中で2~3回、合計しても1分もない感じ。そういう映画でも観客の興味や期待を途切れさせないでつなげていくために、まずはなんでももないところにカメラを向けて、長年培ってきたコツと呼吸で作っていくわけです。娯楽映画の作り方の基本ですね。

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今回「ダゲレオタイプ」という独特の写真撮影法をモチーフにしていますが、これに惹かれた理由を教えてください。

ずいぶん前に恵比寿の写真美術館で「ダゲレオタイプ写真展」というのを見に行った時に始まるんですが、その時に見た1枚に、ものすごく奇妙な表情、苦痛とも快楽ともつかない表情の少女が写っていたんです。どうしてこんな顔になるのかなと思っていたら、解説があって、実は少女は装置で10分間固定されていましたと、その装置も一緒に展示されていたんです。それは実際にはいくつもの瞬間を重ねた表情で、実際にそこにあった表情ではないんです。そうした写真を撮るためにこんな固定器具まで作り出すとは――それが映画のネタになるなと思った瞬間ですね。

一方で、僕が作っている映画も、ほとんど似たようなことやっているな、というのも痛切に感じました。今や全部デジタルでやっていますが、リハーサルして、装置こそつけませんが女優さんに「ここに立って、ちょっとでもずれると光当たらないから」って、OKってなるまで1カットに1時間くらいかけて、スタッフと俳優と全力投球で、ただ適当にシャッター押しただけじゃ撮れない何かを、丹精込めて作って映像として定着させようとしている。まあひょっとすると幻想のようなものを信じてやっているのが僕の仕事なんだなと。

でもね、映像はそれくらい貴重なものだと思っている僕に、リハーサルの時からずっと回しといたらいいんじゃないですか?っていう若い人が時々いるんです。デジタルだからって。うるせー、ずっと回すんじゃねえ、「スタート!」から「カット!」まで、その間だけ回すんだって。古臭いけどそれが僕のやり方ですね。回しときゃ映りますよなんてね、ちょっとがっくりします。

例えばこの作品で、そうした映像が撮れたな思える場面はありますか?

ささやかながらうまくいったな思ったのは、後半、ケガをしたマリーを病院に運ぶ途中、主人公のジャンが川のほとりで見失ったマリーを捜し、ハッと見ると暗闇の中から彼女がスーッと出てくる瞬間ですね。あれは別に特別なことは何もしてない、暗い中で彼女を立たせて、ゆっくり光を当てていっただけなんです。それまで暗闇だったところに、ゆっくりと朧げな彼女が浮かび上がってくる、いないと思っていた彼女がこんなところにいる、でも存在の仕方が前とは違うような気がする、っていう表現に……なってないかなーって(笑)。全部手動のすごいシンプルなやり方なんですけどね。

ダゲレオタイプの銀板(本物じゃないけども)の生々しい表情に注目
ダゲレオタイプの銀板(本物じゃないけども)の生々しい表情に注目

ダゲレオタイプ写真は、実際にはその人が死んでいても、残された写真はあまりに生々しく永遠に残っている。人間の実在があやふやになっていくような気がします。

そうした感覚はこの映画で狙ったものですし、実際に、ダゲレオタイプが発明された19世紀当時も、みんなそう思っていたようですよ。それまでの肖像画とは違う、ある瞬間の生々しい姿をそのまま保存できるのはすごいことであると同時に、とっても怖いことだったようで、当時の記録には、何枚かダゲレオタイプで撮られると、自分が自分でなくなっていくようだ、永遠に残る写真にすべて吸い取られ、消えていくような恐怖を覚えるという、言葉も残されています。

しかしあながちそれは嘘ではない気もします。いまや映像すらもが簡単に手に入るので誰もそんな大したものだとは思っていないでしょうが、死後も残っていくものですからね。僕は古い世代なので、映像に対してもう少し神聖なものを感じているんですよ。簡単に撮れるし、好きなだけ見れますみたいなものは、僕が考えている映像とは違う何かなんだろうなと思います。

今回フランスでの撮影ですが、フランスだからやりやすかった部分もあったようですね。もう少し具体的に教えてくれますか?

今の話の流れと若干通じるんですが、映画を作ることに関して、周りの町の人たちも、本当に協力的で、監督がやりたいことを実現することに、本当に熱心でした。

とはいえ、すごいお金があるということではないのですが、例えば「ここで撮りましょう」とすると、日本だと「ここ」をどう撮ろうかという話になるんですが、フランスだとまず美術の人が、「壁何色にしましょうか」って。他人の家なんですよ。でも「聞いてみたら“赤く塗っていい”っていうかもしれないじゃないですか」っていう。向こうの人は結構壁の色を塗り替えたりするので、「それも面白いね」って、本当に塗り替えてくれちゃったりする。「なんならこのドア外して壊しちゃおうか」「いや、他人の家のドアを壊すのは…」「だって、このドア、そろそろ邪魔だって思ってるかもしれないじゃないですか」って。

街中でも、許可さえとれば撮りたい放題です。結構交通量の多い場所でも、許可が出れば時間を決めて道路封鎖してくれるんです。「映画撮影中です。迂回してください」っていうと、仕方ないねって、みんな飲み込んでくれる。日本だと「すみません、ご面倒おかけしますが少しだけお待ち下さい」「なんだよ」「ちょっと今撮影していて」って、常に人々の邪魔にならないようにやるんですが、向こうはみんな「映画撮影なら仕方ないね」って。映画に対するリスペクト、協力しましょうっていう態勢が日本と全然違います。

軽く移住したくなっちゃいますね。

そうですねえ(笑)

ある意味日本の古典的ホラーに通じる、ジャンとマリーの結末
ある意味日本の古典的ホラーに通じる、ジャンとマリーの結末

最後に。ご自身の作品を「娯楽作品」と何度もおっしゃっていますが、ややもすれば黒沢作品はアート作品として語られることが多いですよね。その理由は日本映画でいう「娯楽作品」のレンジの狭さにあるのではないでしょうか。実際に原作もの以外の作品が映画化されにくいという現状もあると聞いています。そういう現状に関して、黒沢監督が思うところを教えてください。

いまおっしゃったテーマは、非常に大きなテーマとしてのしかかっていますね。

やはり僕の中に昔からある理想的な映画は、ドキドキしたり、胸にジーンと染み入ったり、かと思えば「なるほどそういうことなのか」という社会への視点、人間観察など、全部がそろった幅広い映画、それを何と呼ぶかといえばやはり「娯楽映画」なんですね。日本にもかつてそういう映画がいくらでもあったんです。例を挙げれば小津安二郎です。わかりやすい内容で、誰が見ても感銘を受け、ものすごく個性的で、見ようによっちゃアートでもあります。『BTF』も、スティーブン・スピルバーグもそうです。作家性は強いけれど、作家的なだけではない。作家の上に映画があるのが理想の「娯楽映画」なんです。

僕はそれを目指しているのに、力不足のせいか、ともすると「作家映画」と呼ばれてしまう、そのことに反発して「違う、娯楽映画だ」と言っちゃうんです。僕は自分の表現がしたいわけではなく、映画の表現がしたくて映画を作ってるから。

そうした幅の広い表現は、やはりあらゆるパートの人が全力を出した総合力でしか生まれるません。脚本や俳優はもちろん、美術や照明や音響やカメラワークすべてが一体となってお客さんの心を打つような、そういうものが映画表現の基本ですから、時にはセリフは一言もなく、俳優がほとんど映ってないようなショットでも、素晴らしい瞬間はあるはずなんです。

いろんな事情で、人気俳優が出ていればいい、セリフで説明すればいい、そうしたやり方もあることはあるんですが、そこにあまりに偏ってしまうと、映画は狭い範囲でしか表現ができないものになってしまう。それは映画が細っていく一番の原因になると思います。予算も時間もなくても総合力で作り上げてゆくこと。それが一番重要なことだと思っています。

『ダゲレオタイプの女』公開中

(C)FILM-IN-EVOLUTION- LES PRODUCTIONS BALTHAZAR- FRAKAS PRODUCTIONS- LFDLPA Japan Film Partners- ARTE France Cinema

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黒沢清

1955年7月19日兵庫県生まれ。大学時代から8ミリ映画を撮り始め、『スウィートホーム』(88)で一般商業映画デビューの後、『CURE キュア』(97)で世界的な注目を集める。その後も『回路』(00・カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞受賞)、『アカルイミライ』(02・カンヌ国際映画祭ある視点部門審査員賞)、『ドッペルゲンガー』(02)、『LOFT ロフト』(05)、『叫』(06・ヴェネチア国際映画祭招待作)と国内外から高い評価を受ける。連続ドラマ「贖罪」(11/WOWOW)で、第69回ヴェネチア国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門にテレビドラマとして異例の出品を果たしたほか、第37回トロント国際映画祭や第17回釜山国際映画祭など多くの国際映画祭でも上映された。近作に『岸辺の旅』(14・カンヌ国際映画祭ある視点部門監督賞)、『クリーピー 偽りの隣人』(16・ベルリン国際映画祭に正式出品)などがある。

映画ライター

TVドラマ脚本家を経てライターへ。映画、ドラマ、書籍を中心にカルチャー、社会全般のインタビュー、ライティング、コラムなどを手がける。mi-molle、ELLE Japon、Ginger、コスモポリタン日本版、現代ビジネス、デイリー新潮、女性の広場など、紙媒体、web媒体に幅広く執筆。特に韓国の映画、ドラマに多く取材し、釜山国際映画祭には20年以上足を運ぶ。韓国ドラマのポッドキャスト『ハマる韓ドラ』、著書に『大人もハマる韓国ドラマ 推しの50本』。お仕事の依頼は、フェイスブックまでご連絡下さい。

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