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強者が制するこの世界に、弱きものが生きる場はあるのか。

渥美志保映画ライター
窪塚洋介、浅野忠信を両脇に、マーティン・スコセッシ監督。(写真:アフロ)

さて今回はマーティン・スコセッシ監督の『沈黙 サイレンス』をご紹介します。この作品、ハリウッド映画にありがちな「勘違い」が全然ないし、原作は遠藤周作で、キャストもほとんど日本人という、ほぼ日本映画といってもいい作品です。

17世紀の日本、長崎を舞台に描く、キリシタン弾圧のお話なんですが、キリスト教の話かというとそればかりでもなく、いろんなことを考えさせる映画なんですが、某頭のよさそうな有名サイトで外国人の方書いているリビューを見て、何トンチンカンなこと言ってんだよと思い、同時に、ああ西洋の人にはわかんないかもねと思い直し、書いてみた次第です…ということで、まずはこちらから!

まずは物語。

1630年代後半。島原の乱を経てますます強まる徳川幕府のキリスト教弾圧の中、ローマのキリスト教教会に、「日本での布教の中心的人物、フェレイラ神父が拷問の末に信仰を棄てた」という知らせが届きます。その威信に関わる由々しき事態に、教会はことの真偽を確かめるべく、二人の若い神父を日本へ送り出します。主人公はその一方のロドリゴです。

ふたりはマカオで見つけた日本人、キチジローの手引きで長崎の漁村にたどり着き、その村の隠れキリシタンたちに匿われながら日々を送ります。でもやがてここにも領主・井上筑後守(イッセー尾形)の手が伸び、村人たちが「神父を匿っているのだろう」と拷問された末に殺されるという事態に。これ以上迷惑はかけられないと村を出たふたりはバラバラに逃げることにするのですが、ロドリゴはキチジローの密告ですぐにとらえられ、いかにも日本的な、じわじわと陰湿なやり方で「棄教」を迫られてゆくのです~。

リーアム・ニーソン演じるフェレイラ神父。雲仙の温泉での拷問が…
リーアム・ニーソン演じるフェレイラ神父。雲仙の温泉での拷問が…

実はこの映画を見て、すごく大きな違和感を覚えたシーンがありました。それはようやく再会したフェレイラ神父がロドリゴに、日本での布教がどれほど不毛かを語る場面です。総意を書くと、こんな感じ。

「日本はなにも育たない沼地だ。彼らにとってのデウス(God)は太陽であり、我々の神を自分たちの理解で屈折させ信仰している。日本人には人間を超えた存在を考える能力を持たない」

「それの何が悪いの?沼地?力がない?は?」と、私、ややカチーンときました。

私は完全な無宗教ですが、それは神秘的なものを全く信じていない、という意味ではありません。戦後昭和生まれくらいの世代ならば誰でも、「悪いことをすると、おてんとう様(お日様)が見ている」と言われたことが1度くらいはあると思いますが、日本はそもそも自然信仰の国で、自然のすべてに八百万の神が宿るという概念は、日本人にとっては「唯一絶対の神」よりもずっと受け入れやすい、理屈とは異なる身に沁みついた考え方です。自然の中に聖なる力を見出す「パワースポット」なんて、その最たるものですよね。

この場面には、そうした日本人の思想を、当時の西洋人がものすごーく下に見ていることが描かれています。つまり「うちの宗教がNo.1で、それを正しく理解できないところは“不毛な沼地”」と言っているわけで、実のところ現代社会にもごろごろ転がっている、いかにも欧米的なその傲慢さに気づいた私は、とんでもなくヒドい拷問に苦しめられる神父さんたちを全面的に肯定することができなくなってしまったんですね……。

でもってこんなふうに仕込まれた違和感は、もちろん監督の意図通りです。会見ではこんなことをおっしゃっていました。

「先日(試写を行った)ローマのイエズス会で、とあるアジア人神父からこう言われました。“彼らへの拷問はもちろん暴力だが、西洋の宣教師たちの「これこそが普遍的な真実なのだ」という教えも、ある種の暴力だったのではないか”。この“暴力”に対するには、彼らの傲慢さを打ち砕くしかなく、ゆえにリーダーである神父たちを屈服させるという方法をとったのではないかと、その人はおっしゃっていました。

こうしたことでロドリゴのキリスト教への認識は打ち砕かれ、彼は一度空っぽになってしまいます。そして改めて「自分は仕える人になるのだ」と自らを変えてゆき、それによってロドリゴは真のキリスト教者になってゆくのです。これは(原作の)遠藤周作さんが『イエスの生涯』の前書きにも書いているのですが、“地震、雷、火事、おやじ”というように絶対権威的なものを恐れる日本人に、権威的なアプローチでキリストの教えを説くのは違うのではないかと」

ロドリゴは「スパイダーマン」ことアンドリュー・ガーフィルド。右は蓑つけた塚本晋也
ロドリゴは「スパイダーマン」ことアンドリュー・ガーフィルド。右は蓑つけた塚本晋也

そうして見たときに、浮かび上がってゆくのがロドリゴとキチジローの関係です。

キチジローはロドリゴを日本に案内した男なのですが、ちょっと脅されればすぐに仲間を裏切ってしまう最低男です。映画だと窪塚洋介が演じているので見られるのですが、小説でのキチジローに対するロドリゴの言いっぷりは、「この口臭や体の臭気から一刻も早く逃れたい」とか「汚物と垢にまみれた酔っ払い」とか「媚びるような下卑た笑い」とか「私と同じキリスト教徒であるはずがない」とかもうさんざんで、ありていに言えば大嫌いなんです。

もちろんそれはキチジローの身から出た錆ですが、本当に不思議なのは、キチジローがどんなに裏切っても悪びれず、どんなに蔑まれ嫌われてもロドリゴに「告解を聞いてくれ、許してくれ」とまとわりつき、どうやら信仰も全然揺らいでいないことです。この男、ダメすぎて何かにすがることしかできないんですね。

これについても、監督はこんな風に言っています。

「作品の中でキチジローが言う“この世界において、弱きものが生きる場はあるのか”という言葉がまさにその通りで、この作品が描くのは、弱きをはじかずに受け入れ抱擁するということだと思うんです。強くなれる人もいれば、そうなれない人もいる、それが人間の価値ではありません。映画がそうした議論の良いきっかけになればいいなと思います。全員が大きく強くなる必要はないし、それが文明を維持するための方法とは思いません。

今を生きる若者たちは、強者が制覇していく歴史しか見ていません。それはとても危ないことだと思います。世界はそういうからくりでできていると思ってしまうから。それではいけない。弱者をつまはじきにせず、人として知ろうとすることです。これは個人と個人の関係から始まることだと思います。

新約聖書の中にある“イエスキリストは、常に卑しい人たちのそばにいた”というのは大好きな一節です。彼の近くには権力者ではなく、取り立て屋や売春婦しかいなかった。汚らわしきを受け入れ、そういう人たちの中に聖なる可能性を見出していたのです」

キチジロー役の窪塚洋介。狂気やズレを演じさせたらピカイチな人
キチジロー役の窪塚洋介。狂気やズレを演じさせたらピカイチな人

強者は言うまでもなく権威と共通するものです。ロドリゴは棄教に追い込まれることで初めて、自分がキチジローと同じ「弱者」であることに気づいてゆき、「弾圧の時代でなければ、自分もいいキリシタンとしてパライソ(天国)にいくことができた」というキチジローの言葉は、その時ロドリゴの心に我がこととして沁みてくる。ラストに描かれるロドリゴとキチジローの関係は胸に詰まるほど迫ってくると思います。

さて最後にもうひとつ。

監督来日の会見には「隠れキリシタン」の方がゲストとしていらっしゃっていて、「もう隠れていないから“隠れキリシタン”じゃないのでは?」と思ったのですが、これがまたある種のオチでもあります。1873年の禁教令で、彼らは堂々とカトリックになることもできたのですが、その多くが入信しなかったと言います。それは、明治に布教に来たカトリックの宣教師たちが、彼らが必死に守ってきた信仰を否定した、認めなかったという理由が大きかったようです。確かに彼らの信仰はカトリックとはかけ離れたものになっていたかもしれませんが、こうした歴史に対する敬意やねぎらいがみじんもない、権威の上から目線がここにもあり、なんだかなあ、という気持ちになります。

通訳を演じる浅野忠信。サラーっと残酷なことやるタイプ
通訳を演じる浅野忠信。サラーっと残酷なことやるタイプ

弾圧する井上筑後守を演じたイッセー尾形が絶賛されていますが、通訳を演じた浅野忠信も、窪塚洋介も、拷問されて波をかぶりまくる塚本晋也も震えるほどいい!!ここを原点にみんなハリウッドでキャスティングされちゃうんじゃないか!っていうくらい、素晴らしい演技を見せていますので、ちょっと長い映画ですが、ぜひご覧になってくださいね~。

『沈黙 サイレンス』

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映画ライター

TVドラマ脚本家を経てライターへ。映画、ドラマ、書籍を中心にカルチャー、社会全般のインタビュー、ライティング、コラムなどを手がける。mi-molle、ELLE Japon、Ginger、コスモポリタン日本版、現代ビジネス、デイリー新潮、女性の広場など、紙媒体、web媒体に幅広く執筆。特に韓国の映画、ドラマに多く取材し、釜山国際映画祭には20年以上足を運ぶ。韓国ドラマのポッドキャスト『ハマる韓ドラ』、著書に『大人もハマる韓国ドラマ 推しの50本』。お仕事の依頼は、フェイスブックまでご連絡下さい。

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