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最高裁裁判官の国民審査をどうする?

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

いよいよ総選挙。この投票日に、私たちは政治家や政党とは別に、もう一つの選択をしなければならない。

最高裁裁判官の国民審査だ。国民が、司法に対して意思表示できる、唯一の公的制度。今回の国民審査で、対象になっている裁判官は10人いる。

国民審査対象の裁判官
国民審査対象の裁判官

しかし、この10人の名前を見せられて、どういう考えの人なのか、どのような実績を持っている人なのか判断できる人がどれだけいるだろう。最高裁国民審査公報というものが各家庭には配られているはずだ。しかし、そこに書かれている「最高裁において関与した主要な裁判」を読んでも、判決の意義や裁判官の判断について評価できるのは、法律の専門家くらいではないか。

過去の選挙の際、衆院選の候補者や政党のことだけ考えて投票所に足を運んだら、国民審査の投票用紙を渡されて戸惑った、という経験をした人は少なくないだろう。そこに列挙された名前を見ても訳が分からず、何も書かずに投票箱に放り込んだ、という人は、かなりいるはずだ。

用紙を渡す選挙管理委員会のスタッフから、「分からなかったら、そのまま何も書かずに(投票箱に)入れて下さい」と”指導”を受けたという話もずいぶん聞いた。とんでもないことだ。

国民審査は辞めさせたい裁判官に×をつける方式なので、何も書かなければ、事実上、信任票を入れたことになってしまう。何も書かずに投票するよう促すのは、公務員が今の裁判官たちを信任するように誘導しているに等しい。

しかし、総務省選挙課は「そういう事実は把握してない。あれば選管を通じて報告や相談があるはず」とそっけない。そして、「『分からない』という人が(投票所に)来ることは前提にしていない。審査公報をしっかり読んで来ていただくことになっている」と言ってはばからない。あたかも「分からない」人が例外的であり、当然やるべきことをやっていないかのような反応だ。

「分からない」国民がいけないのか?

この総務省の対応は、現実を見ていないと言わざるをえない。

制度の意味や基本的なルールすら、国民に十分伝わっているとは言えない。

たとえば、投票用紙につけられるのは×印だけ。○や△、その他の文字を記入すれば、その用紙は無効となり、何人かの裁判官に×をつけてもカウントされなくなる。そのことを私がツイッターで注意喚起をしたところ、「知らなかった」「初めて聞いた」という反応がいくつもきた。

そんな中、選管スタッフの誘導もあり、「分からない」まま何も記載せずに投票した人の票は、事実上の信任票となる。こういう仕組みだから、戦後この制度ができて以降、国民審査によって罷免された裁判官はいない。

この制度は、罷免するかどうかの意見を求めるという点では、地方自治体の首長の解職請求(リコール)で行われる住民投票に近いと言われる。けれども、住民投票では通常、活発な投票運動が行われ、住民は争点を十分に知る事ができる。ところが、最高裁裁判官の国民審査にはそれがない。国民は、まったく情報が不足している中で、判断を迫られるのだ。

この状況について、憲法についての著作もある弁護士の伊藤真さん(伊藤塾塾長)は、次のように指摘する。

「仕事ぶりをしっかりと広報する(判決の個別意見で説得することも合わせて) ことも含めて裁判官の仕事ですから、伝えきれていない人は×にされても仕方がありません。自らの権力行使について、しっかりと説明することはどんな仕事であろうが、公務員の責務です。特に裁判官の仕事は主権者国民からの信頼を得て、初めてその権力行使が正当化されます。国民審査に服する最高裁判事はより一層、しっかりと自らの仕事ぶりを国民に説明する義務があります」

であれば、今回審査の対象となっている10人には、全員×がふさわしいのではないか。

国民から遠い最高裁

しかも、解職請求の住民投票の場合は、解職に賛成にしろ、反対にしろ、それぞれの意思を持って投票所に行き、賛成か反対かの意思表示を明確にする。「分からない」のと「罷免に反対」とは全然違う。なのに、国民審査では一緒くたにカウントされてしまう。これは、やはりおかしい。

国民の側からすれば、信任できる人に○をつける信任投票の方がいい。そうなれば裁判官たちも国民の理解を得るために、業績や自分の考え、姿勢などを分かりやすく説明しようと務めるだろう。今は、審査される側にとって都合のいい制度の上にあぐらをかいて、最高裁は裁判官の業績を積極的に伝えようという努力もせず、投票方法を改める動きもない状態が続いている。

「分からない」状態に置かれた国民が抗議の声を挙げることもなく、このように形骸化した制度が放置されてきたのは、最高裁という役所やその裁判官という存在が、国民一人ひとりからはあまりに遠い存在だからだろう。

アメリカでは、連邦最高裁の裁判官を任命するには上院の同意が必要。公聴会を開き、妊娠中絶など政治的な立場で意見が対立するような話題も取り上げられる。そんな時には激しい議論が開かれ、大きく報道されるので、国民はどういう考えの人が新たに最高裁の裁判官になるのか知る機会がある。

それに対し、日本の最高裁の裁判官は、内閣が決め、国会の同意は必要ない。なので就任時も新聞でひっそりと一段見出しのベタ記事で報じられる程度。ネットのニュースでもほとんど伝えられてないのではないか。これでは、大半の国民は交代があったことにも気づかない。

裁判所が「冤罪の構図」を作っている

感覚的に「遠い存在」ではあっても、最高裁は私たち国民の権利を制限したり、保護したりする役目を担っている。最高裁が判例によって判断を示せば、全国の裁判所が一斉にそれに従うほど、その権限は強い。刑事事件では冤罪を防ぐ最後の砦としての役割が期待されている。裁判員裁判では、国民も刑事裁判のプロセスに関わることになるが、その判断結果についても最終的には最高裁判所が是非を決める。

しかし、最高裁は本当に人権の砦としての役割を果たしているのだろうか。

たとえば、刑事事件の自白調書の取り扱い。無理な取り調べや「認めれば早く出られる」といった利益誘導、「認めなければ実刑になるぞ」といった威迫などが行われ、被疑者がやってもいな事件について虚偽の自白に追い込まれて、後に問題になることがある。足利事件布川事件など、再審で無罪が確定した冤罪事件でも、虚偽自白があった。遠隔操作ウィルスに感染したパソコンから脅迫メールが送られた事件で、間違って逮捕された4人のうち、2人が「自白」していたことは記憶に新しい。

再審無罪となった布川事件の杉山さんと桜井さん
再審無罪となった布川事件の杉山さんと桜井さん

では、なぜ警察や検察が、無理をしても被疑者の自白をとりたがるのか。それは、調書さえ出来ていれば、たとえ裁判所で被告人が否認したとしても、多くの場合、裁判所はすんなり自白調書を証拠採用し、有罪判決の材料とするからだ。つまり、冤罪の構図を裁判所が作っているのだ。法廷で自白調書の任意性や信用性が争われた際、最高裁が検察に客観的に任意性を証明することを求める判断をしていれば、捜査機関は取り調べのプロセスを録音・録画せざるを得ず、可視化はとっくに実現していただろう。虚偽自白が招いた冤罪がいくつあっても動こうとしない最高裁は、果たすべき役割を果たしていないのではないか。

裁判官はどんなひどい誤判をしても、誰も何の責任も問われないどころか、最高裁は何の検証すら行おうとしない。今年、再審無罪が確定した東電OL殺害事件では、東京高裁と最高裁がひどい誤判をした。一審の東京地裁は、被告人のゴビンダ・プラサド・マイナリさんを犯人と断定するにはいくつもの疑問があるとして、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従って無罪とした。なのに東京高裁は、その疑問が解明していないのに、検察側の主張を認めて逆転有罪とし、最高裁はそれを追認した。再審で新たに証拠提出されたDNA鑑定は、東京地裁の判断が正しかったことをより明確にしたが、それがなくても無罪判決は十分に書けたのだ。本来、最高裁が音頭を取って、なぜ誤判をしたのか、外部の目も入れてしっかり検証しようという動きがあるべきだろう。だが、そういう話は寡聞にして聞かない。

ちなみに、この事件で逆転有罪判決を出した裁判官のうち2人は今も現役で、それぞれ東京高裁、東京地裁の裁判長を務めている。こんなに酷い誤判をした裁判官が、何の検証も受けず、教訓を学ぶことがないまま、人を裁き続けているのだ。

何らかの意思表示をしよう

南側から見た最高裁は、まるで砦のよう。国民審査は、ここに国民の声を吹き込む機会だ
南側から見た最高裁は、まるで砦のよう。国民審査は、ここに国民の声を吹き込む機会だ

そのような状況の中、今回の国民審査にあたって、私たちはどういう対応をとればいいのだろうか。

一つには、どうしたらいいか分からない場合は、無記入ではなく、×をつける、という選択がある。先に伊藤弁護士が説明したように、本来私たちに分かりやすく説明すべき裁判官たちが、その義務を果たしていないから「分からない」。なので、そういう裁判官達、今回で言えば10人全員に×をつける。一般国民が司法に対して物申せる唯一の機会が国民審査であることを踏まえれば、「冤罪の構図」をそのままにしている最高裁の姿勢に対する異議申し立てとして、裁判官全員に×をつける、という選択も大いに意味があるだろう。

これに対し、「よく知らない人に×をつけるのはいかがか」という声もある。しかし、よく知らない人に私たちの人権に関する判断を預けるというのは、もっと怖いことではないのか。

国政選挙での一票の格差を訴えている弁護士などの「一人一票国民会議」も、1人が等しい一票を有することについて、最高裁の消極的な姿勢を指摘して、全裁判官にXをつけることを推奨している

もちろん、個々の裁判官の姿勢や実績をよく分かっていて、評価できる人がいるのなら、その人は信任、すなわち無印とすればよい。いくつ×をつけ、いくつ無印とするかはそれぞれの判断だ。10人全員とも信任したいという人は、何の印もつけなければよい。できる限り情報を集めて判断したいという人のためには、こうしたサイトもある。

また、×をつけるのにどうしても抵抗があるという人は、投票用紙の受け取りを拒否し、国民審査のみを棄権することもできる。それも、「分からない状態のまま投票したくない」という一つの意思表示だと思う。

とにかく、これまでのように「分からないから」と漫然と無記入の用紙を投じることはやめよう。これでは、国民審査のあり方を変えようという動きすら生まれない。今回こそは、何らかの形で、ぜひ意味ある意思表示をしたいものだ。

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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