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このままでは司法の殺人だー名張毒ぶどう酒事件の映画「約束」主演の仲代達矢さん

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
獄中の奥西勝さんを演じる仲代達矢さん (C)東海テレビ放送

村の寄り合いの席でぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡した「名張毒ぶどう酒事件」が発生して、来月で52年。同じ村の住人だった奥西勝さんは、この半世紀以上にわたる長い年月の大半を、殺人犯として監獄の中で過ごしてきた。逮捕当時35歳だった奥西さんも、今や87歳。すっかり体調を崩し、八王子医療刑務所の病床で、ひたすら再審開始だけを待ちながら、日々、生きのびる戦いを続けている。そんな奥西の獄中からの訴えと、息子の無実を信じながら逝った母の思いを描いた映画『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』が公開された。

事件の取材を長年続けている斉藤潤一・東海テレビニュース編集長が監督。同テレビ局が集めた事件以来のニュースやインタビューの映像をふんだんに使いながら、獄中の奥西さんや母タツノさんの生活ぶりや支援者との心の交流をドラマ化した。公開初日の2月16日には、奥西さんを演じた仲代達矢さんと、母タツノさん役の樹木希林さんが上演前に舞台挨拶を行った。

役者人生がすでに60年という仲代さん。劇映画は160本出演してきたが、ドキュメンタリー映画は初めて、実在の人を演じるのも初めて、という。しかも、最近はやりの再現ドラマについては、「下手な役者が熱演し過ぎて本当のものが見えなくなる」と否定的だった。無名塾の門下生にも、「再現ドラマには出るな」と言っていたほど。しかし、斉藤監督が手がけたドキュメンタリーのナレーションを務めたことから、この事件との関わりが生まれ、様々な資料を読み込んで、この事件が冤罪であることを確信して、出演を決めた。

舞台挨拶をする仲代さん
舞台挨拶をする仲代さん

「引き受けた以上、演じることを忘れ、そこに存在することだけを考えた。自分が奥西さんの立場に追い込まれたらどうなるか、と。ドキュメンタリーと劇映画がつながっているので、事実を邪魔しないように努めた」

仲代さんは、舞台挨拶の中できっぱりとこう言った。

「奥西さんが亡くなるまで、(再審開始の)決定が出なければ、司法が殺人者になるんだと思います」

樹木さんも、「真実の人(母タツノさんの生前の映像)が出ているところに、ニセモノがそれをまねてやることはとても恥ずかしい」と当初は出演に消極的だった。それを斉藤監督の粘り強い説得に負けて受諾。やはり資料を読み込ほか、奥西さんの妹に会う中で、「この家族が(半世紀以上)どんな思いで生きてきたのか…」と考えながら、役作りをした。

実際、この作品はお手軽な「再現ドラマ」とはまったく異質。それは斉藤監督の深い取材に基づいた脚本と、仲代と樹木さんの鬼気迫る演技による。絶対に生きて冤罪を晴らしてやるという奥西さんの強い信念と、村から追われ孤独な生活を続けながらもひたすら息子を信じ続ける母の思いが、この2人の名優の体を借りて、見る者の胸に迫ってくる。

それだけではない。今の日本には、奥西さんだけでなく、様々冤罪に苦しむ人たちがいる。その家族がいる。冤罪以外でも、拉致事件などのように、国内外の権威による理不尽な動きによって、わが子を奪われ、悲しみ苦しむ親がいる。仲代さんと樹木さんの演技は、奥西勝さんとタツノさんの身に降りかかった悲劇を、今に再現するだけでなく、国家という途方もなく大きな力によって押しつぶされた人の悲しみ、それに抗う人の懸命の思いに相通じる何かを伝えているように思う。

そこが、単なる再現ドラマではない、1つの作品としての普遍性、そして映画としての面白さをもたらした力の源泉なのだろう。

奥西さんは、一審の津地裁では無罪となったが、名古屋高裁で逆転有罪となり、死刑が言い渡された。それが最高裁で確定して以降、獄中から裁判のやり直しを求めてきた。第5次再審請求審からは弁護団がつき、本格的な再審請求が始まった。現在の第7次請求は、2002年4月に申し立てが行われ、まもなく11年になろうとしている。2005年4月に名古屋高裁刑事1部(小出○一裁判長 ○はかねへんに享)が再審開始決定を出したにも関わらず、名古屋高裁刑事2部(門野博裁判長)が検察の異議申し立てを認めて再審開始を取り消し(2006年12月)た。その後、最高裁第3小法廷(堀籠幸男裁判長)が取り消し決定を破棄して名古屋高裁に差し戻し(2010年4月)、名古屋高裁刑事2部(下山保男裁判長)が改めて再審開始取り消し決定(2012年5月)を経て、現在再び最高裁で審理が行われている。

奥西さん犯人説のストーリーに合わせた無理な捜査などの問題は、一審ですでに明らかになっており、逆転死刑とされた時に奥西さんの歯型と一致するなどとして有力な証拠とされたぶどう酒の王冠の傷の証明力も、再審請求の過程で失われた。犯行に使われたとされる農薬の種類が奥西さんの「自白」と異なるなど、有罪判決の重要な部分はことごとく、弁護団の新証拠によって粉砕されてきた。それでも、裁判所は「自白」にこだわり、再審の実現を先送りしてきた。その姿は、あたかも奥西さんがこのまま獄中死するのを待っているかのようだ。

そんな裁判所に対して、奥西さんは無実を訴え続ける。裏切られても、裏切られても、彼には司法に訴え続けるしか道はない。歩き方や仕草に老いをにじませ、この年月の長さを表現する仲代さんの演技が秀逸。その「死んでたまるか」の一言には、全てを奪われ、冤を雪ぐことのみに命をかけた者の執念が凝縮している。「こんな不正義が許されていいはずがない」という素朴な正義感に灯をともす。

苦手な文字を綴り、お題目を唱え、息子の無実が晴れること日を待ち続ける母タツノさん。樹木さんの声、顔、姿を借りて蘇る、切々たる思いに、「こんな悲劇をそのままにできない」という人情が呼び覚まされる。

仲代さんは、格別の演技をするのではなく、とにかく自分がそれぞれの場面に存在すること、そして自分が奥西さんだったらどうだろうか、ということを考えたという。死刑囚でも、生きている限り日々の生活がある。仲代さんは、奥西さんが拘置所で正月の料理を出される場面は、思い切り喜んで見せた。その時、樹木さん演じる母は、寂しく小豆を炊き、たった1人でぜんざいを食べた。どちらも1人の「食べる」場面だが、この違いはどこから来るのだろうか。

そんなことを考え始めると、すでに見た映画なのに、もう一度見たくなってきた。いろんなことを考えるきっかけが詰まった作品。多くの人の目に触れて、この事件のこと、冤罪に苦しむ人たちのことなどを考えるきっかけになったらいいな、と思う。

左から斉藤監督、仲代さん、樹木さん(東京・渋谷のユーロスペースで)
左から斉藤監督、仲代さん、樹木さん(東京・渋谷のユーロスペースで)

(今後の公開予定など、詳細は映画の公式サイトをご覧下さい)

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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