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地域の中で生きるボランティア犬「もか」~人と動物の新たな関係を考える

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

「触ってもいいの?」ーー最初は遠慮がちに犬を触る子どもたち。「わあ、あったか~い」とうれしそうな声が挙がる。犬は、ゆったり横たわって、女の子にお腹をなでられながら、鼻先に出された男の子の手をぺろりと舐めた。犬の名前は、「もか」こと吉増もか吉。和歌山市保健所が市内の小学校で行っている動物愛護教室「わうくらす(Wakayama Animal Welfare Class)」常連のボランティア犬だ。

子供達に囲まれている「もか」
子供達に囲まれている「もか」

犬とのふれあいで命を考える授業

「わうくらす」では、実際に犬と触れあいながら、犬との接し方や生き物を飼う責任を学んだり、命について考える連続授業を行う。同保健所が2007年度から始めた。当初は4校で25回実施された授業は評判がよく、順調に実施校が増えて、今年度は15校64回行われる予定。保健所職員が先生となり、市内のボランティアが愛犬を連れて参加する。すべて、日本動物病院福祉協会が実施しているCAPP活動(Companion Animal Partnership Program=人と動物のふれあい活動)に適性ありと認められ、人間が大好きでしつけがゆきとどいた犬ばかりだ。もかは、和歌山県と和歌山市が行う試験に2つとも合格した後、昨年9月から参加している。

「わうくらす」の先生は渡邊喬獣医師。身を乗り出す子供達に犬の心音を聞かせる
「わうくらす」の先生は渡邊喬獣医師。身を乗り出す子供達に犬の心音を聞かせる

この日の授業のテーマは「命を感じる」。初めに「命」について子供たちに思うところを語らせた後、10人くらいのグループに分かれる。1グループにつき犬が1頭。聴診器で自分や友だちや犬の心音を聞いたり、犬に触れてその温かさを感じたり…。子どもたちから「だっこしたい」という声が出てくると、一人ひとりに抱かせたりもする。吉増家には2人の小学生がいるからか、もかは子どもが大好き。出番が来る前も、子どもたちと接する間も、特に緊張する様子もなく、見るからにリラックスしている。子どもたちも、前回の「わうくらす」で初めての犬と仲良くなる接し方を学んでいるせいか、おっとりしたもかの様子に安心したからか、誰も怖がってはいない。

もかは、「わうくらす」以外にも、高齢者施設を訪問してお年寄りと接する活動にも参加。10月のボランティア出動回数は、21日にも及んだ。いささかお疲れでは…と思いきや、飼い主の吉益江梨子さんは、こう言う。

「もかは、人間が大好きで、どこへ行ってもリラックスしてます。老人ホームなどではほとんど寝ちゃってます。芸ができるわけではなく、ただ静かに人に寄り添っている、そんな犬なんです」

命はとりとめたものの

保護されて翌日の「もか」。表情がなく、遊ばない
保護されて翌日の「もか」。表情がなく、遊ばない

しかし、吉増さんのところに来た時には、人に対して無関心の、愛想のない犬だった。紀州犬の血が混じるもかは、実は野良犬の子。吉増さんが保護するきっかけは、2011年6月22日午前8時半頃、同居している義母の友人からの電話。野良犬の雌が生んだ子犬が3匹、家の前のどぶ川にいる、とのことだった。母犬が戻ってこず、置き去りにされている、という。小さい頃から動物好きで、結婚前は動物病院に勤務していた吉増さんは、すぐにバスタオル、餌、段ボールなどを車に積み込んで現地に向かった。天気予報は翌日から雨。今日中に保護しないとどぶ川が増水してしまうかもしれない、と心配だった。

3匹とも保護するつもりだったが、元気のいい2匹は逃げた。弱った1匹だけが、若干の抵抗をしながらも、用意した段ボール箱に収まった。生後2ヶ月ほどの子犬は、ノミとダニだらけ。ノミが飛び跳ねて段ボールにぶつかる音がひっきりなしに聞こえた。耳の中はダニで真っ黒。目のふちにもびっしりで、まるで太いアイラインを引いたようだった。

これでは、動物病院に連れていくこともできない。駆除薬を使った。このまま24時間すれば虫は退治できる。しかし、子犬の様子に、それまで待てない、と吉増さんは思った。歯茎や目の縁は、血の気を失って真っ白だった。無数のマダニに血を吸われ、すっかり貧血状態になっていたのだった。皮膚にへばり付いているマダニを一匹一匹ピンセットで引きはがした。その間、子犬は鳴き声を上げることもなく、ただ横たわっていた。

診察の結果、マダニのためにバベシア症という血液の病気にかかっていることが分かった。子犬の場合、死に至ることも珍しくない。すぐに、治療が行われた。連日の通院で、なんとか症状を押さえ込むことができた。駆除薬が効くまで24時間待っていたら、命が危なかったたかもしれない。

長女の発案で、もか吉と名付けられた。一命はとりとめたものの、体はがりがりにやせ、顔には何の表情もなかった。子犬らしく遊ぶ仕草も見せず、しっぽをふることもない。しかも、拒食。いろいろなドッグ・フード試してみたが、なかなか食べない。ところが散歩に出ると、道にはりついたカエルの死骸や田んぼの縁についているタニシの卵に狂喜した。こういうものを食べて、今まで生きのびてきたのだろう、と吉増さんは切なくなった。

幼稚園の初日。やはり無表情
幼稚園の初日。やはり無表情

他の犬と交われば、少しは元気になるかもしれない。そんな気持ちで、動物病院に併設されている「犬の幼稚園」に入れた。他の犬やトレーナーと遊びながら、社会化を図ったり、エネルギーを発散したりするのが主な目的の施設だ。

効果はてきめんだった。他の犬やトレーナーと遊ぶうちに、表情が生き生きし、動きにも躍動感が出てきた。幼稚園では、病院で飼われている「まっちゃん」こと「まつお」がもかの兄貴分のように、面倒をみてくれた。他の犬に飛び乗られた時には、まっちゃんが助けに駆けつけてくれた。今でも、もかはまっちゃんが大好き。「わうくらす」のボランティアに行った時も、会場にまっちゃんが現れると、もかはちぎれそうなほどしっぽを振る。

幼稚園に行くようになって2週間。おもちゃで遊ぶようになってきた
幼稚園に行くようになって2週間。おもちゃで遊ぶようになってきた

もかは幼稚園が大好きになった。吉増さんが朝、当時(人間の)幼稚園に通っていた長男に、「幼稚園に行くよ~」と声をかけると、自分のことかと勘違いしたのか、もかが階段を駆け下りて、「早く、早く」とせかすのだった。

家でも、おもちゃで遊ぶなど、子犬らしい愛らしさを見せるようになり、子どもたちとも仲良くなった。ところが、吉増さんの夫には、どうしても慣れない。一緒の部屋に5分もいると、ストレスが高じて吐いてしまう。散歩に出ても、男の人や畑仕事の格好をしている人を怖がった。どうやら野良時代に、そうした人たちに石を投げられたりしていじめられたトラウマのようだった。

幼稚園1ヶ月。こんな愛らしい表情を見せるようになった「もか」
幼稚園1ヶ月。こんな愛らしい表情を見せるようになった「もか」

幼稚園のトレーナーのアドバイスで、夫は帰ってきても犬とは目をあわさず、「ただいま」と一声だけかけて、好きなおやつをぽとりと落としていく。それを毎日続けてようやく夫に馴染むのに、1年かかった。

一難去ってまた一難

食事の方は、食欲も出て、ドッグフードをよく食べるようになってきた。ホッとしたのもつかの間、新たな試練が待っていた。食べると吐くようになった。ひどいかゆみに襲われ、舐めているうちに毛がはげてしまう。食物アレルギーだった。検査をすると、アレルギー反応がないのは、米などわずかな食品のみ。吉増さんは、毎日毎日、もかのために芋がゆを炊いた。子どもが床に落としたえびせんを一つ食べただけで、夜中に転げ回ってかゆがったこともある。温かい家の中より、かゆみが少なくなるのではないかと、吉増さんは夜泣きの赤ちゃんをあやすように、真冬の夜中にもかを抱いてベランダにいて、翌朝一番に病院に駆け込んだ。

食事を制限していた栄養不足のためにストレスに弱くなっていたのか、痙攣を起こしたこともあり、腎臓結石になり、そのために食事を変えるとまたアレルギーが…。一難去ってまた一難。大病ではないものの、病院通いからはなかなか解放されない。それでも、食事を工夫したり、サプリメントを使ったり、薬浴に通ったり、服を着せたりと、吉増さんの努力でほとんどの日々は快適に過ごしている。

見出された適性

そんなもかのボランティア犬としての特性を発見したのは、犬の幼稚園でトレーナーを務め、CAPP和歌山チームリーダーの石田千晴さん。

CAPP和歌山チームリーダーの石田千晴さん
CAPP和歌山チームリーダーの石田千晴さん

「もかちゃんは、幼稚園に来て、すごく変わりました。今では、ちょっと不仲になった犬たちの仲介役にもなってくれます。しかも、人が大好きになっていきました。男の人が苦手なのも克服しました。初めての人にも、自然に馴染んで、甘えるのも上手。性格が穏やかで安定している。すごく安心な子なんです。ただ、どんな犬でも負荷をかけすぎるとよくない。その点は、犬の様子をよく見ていて無理をさせない飼い主さんnなので、理想のペアだと思いました」

初めは、高齢者施設へ。お年寄りの多くは座っていて動きがゆっくりなので、犬も安心していられる。なので、ここから始めてみたらどうか、という石田さんの判断だった。昨年春に、見習いとして参加。もかは、初めての場所でも、ゆったりとして、お腹を出して寝たりしていた。上々のデビューだった。

特に芸をするわけでもない。ただなでらられたり、その場で寝たりしているだけ。なのに、もかは不思議とその場の空気を和ませた。認知症が進み表情が乏しくなったり、不機嫌なことが多いお年寄りが、もかを見て笑顔になったり、抱いてご機嫌になったりするのだった。

ある時、100歳の女性が、もかを見て「昔、こんなん(犬を)飼うてた」と懐かしそうに語った。すでに家族や施設の職員と会話をすることがまったくなくなっていた女性だった。誰もが、女性の肉声を聞くのは久々。この日のもかは、着物風の服を着ていた。女性は帯を触り、再び「昔、こんなん着てたわ~」と。たまたま面会に来ていた親族は、その様子に驚き、喜んだ。

数日後、女性は亡くなった。親族は誰も女性が犬を飼っていたことは知らなかったが、後で調べてみたら、女性が幼い頃の家族写真に、もかに似た白い犬が写っていた、という。もかの存在が、お年寄りの心に90年も前の記憶を蘇らせたのだろう。女性は、最期の時を愛犬の思い出と共に過ごすことができたのかもしれない。

地域の中で

見守り活動中の「もか」
見守り活動中の「もか」

もかは、盲聾者が集うサロンにも招かれた。「わうくらす」の縁で、保健所が開く犬猫譲渡会にももかと共に参加。こうした様々なボランティア活動で、吉増さんの毎日は忙しくなった。加えて、小学校の登校時間に、子どもたちを見守る活動も始めた。一番交通量が多い場所に立っていてくれていたボランティアが入院したと聞いて、吉増さんが手を上げたのだ。それから毎朝、もかと一緒に集団登校の子どもたちを見守った。子どもたちに、もかは大人気。集団登校が苦手でいつも遅刻気味の子どもが、もか会いたさに、遅れずに来るようになった。

その後、他にも見守りに加わる人が増えて、吉増さんの出番は週2日になったが、もかは子どもの見守り犬として、地域に知られるようになっていた。もかとの活動を通じて、吉増さんの地域の人たちとのコミュニケーションは格段に広がった。買い物に行っても、お店の人から声をかけられる。子どもの授業参観に行けば、それまでつきあいのなかったお母さんから、「もかちゃんのこと、子どもから聞いてます」とあいさつされた。

PTAの新聞にも「もかコーナー」が作られることになり、もかには「編集長」の称号が与えられた。吉増さんも広報会議にも出席し、学校にもしばしば足を運ぶ。車の中にもかを残していると、校長先生が「もかちゃんも中にどうぞ」と校内に入れてくれた。それからというもの、もかも毎回編集会議に出席。ただし、発言することはなく、いつも寝てばかりなの「編集長」なのだが…。

家を留守にすることが多くなった吉増さんだが、その分は義母がカバーしてくれる。もともと、それほど動物好きではなかった義母が、「わうくらす」を見学に来て、「もかが一番賢かった」とほめてくれた。どうやら、外でも盛んにもかの自慢をしているらしい。何かとおばあちゃんに頼ってばかりだった子どもたちも、もかのお出かけの支度を手伝うなど、進んで手を貸してくれるようになった。

吉増さんともか
吉増さんともか

吉増さんは言う。

「普通の専業主婦だった私が、こんなに地域や行政と関わるようになりました。この子は私の世界をうんと広げてくれた。もかが来てくれて、一番癒されたのは私。確かに犬がいると、旅行に行く時には預けていかなければならないなど、いろいろ制約はあるけれど、それ以上のものを、もかからもらっています。子どもたちは『旅行に行くなら、もかも一緒に行ける所で』と言っていますし。そんな風に言ってくれるのがうれしい。家族も、もかを通じて成長しました」

再びトレーナーの石田さん。

「どこへ行っても、もかちゃん自身が、その場をまったりと楽しんでいる。こうやって地域の人たちと共生することで、理解者も増え、犬自身の幸せにもつながります。たとえば災害時。もかちゃんなら避難所でも地元の人が迎えてくれるでしょう。万が一追い出されそうになったら、子どもたちがもかを守ってくれますよ」

番犬や愛玩のためだけの存在ではない。盲導犬のようにもっぱら働く犬でもない。地域の中で共生するという、人と動物の新たな関係が、ここに築かれている。

(子犬の頃と見守り活動中のもかの写真は吉増さん提供)

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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