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【オウム裁判】生と死の狭間で~重たい証言

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

オウム真理教の元信者平田信被告の公判で、長期の懲役刑を受けている元信者の受刑囚が相次いで証言した。いずれも、教団が地下鉄サリン事件の直前に、強制捜査の矛先をそらそうとして行った2つの自作自演事件についての証人だ。

第6回公判に出廷した山形明受刑囚(48)は、教団施設に火炎瓶を投げ込んだ事件で平田と共に見張り役を行ったほか、VXを使った殺人・同未遂事件3件で実行役となり、懲役20年の判決を受けた。以前は陸上自衛隊に勤務しており、教団はその軍事に関する知識を、武装化に利用しようとしていた。

また第7回には、地下鉄サリン事件の運転役だった他、スパイと疑われた現役信者Tさんに対するリンチ殺害などで無期懲役となった杉本繁郎受刑囚が証言を行った。平田と一緒に行った事件はなかったが、自作自演事件が地下鉄サリン事件の準備と併行して起きており、平田も途中までは杉本と同じくサリン事件の運転役に予定されていたことから、検察側が証人申請していた。

「証言はしたくなかった」

2人とも、彼らが裁判を受けていた当時に比べて、かなり痩せた。ただ、山形のはきはきとした口調や、杉本の静かな語り口は、以前と変わらない。いずれも同じ黒地のジャージ上下を着ていたが、おそらくこれは刑務所か証言のために一時的に移管されている東京拘置所の貸与品だろう。

山形は、教団の非合法活動の現場を仕切っていた幹部の1人、井上嘉浩死刑囚からの指示を受け、平田と共に見張りをした状況などを証言。杉本も、山梨県上九一色村(当時)の教団施設から、林泰男死刑囚の指示で、平田らと2台の車に分乗して、井上が非合法活動の拠点に使っていた東京・杉並のアジトに来て、地下鉄サリン事件の準備の課程で見聞きしたことを、検察・弁護側双方から聞かれるままに語った。2人とも、一生懸命記憶を掘り起こし、できる限り具体的な証言をしようと努めているのは伝わってきた。

ただ、この2人、いずれも当初は証人出廷を渋ったらしい。

その理由を、山形は次のように語った。

やはり拒否はできない…

「私が証言することで、罪が重くなるんじゃないか。彼(平田)は大事な友達なので、そういうことは避けたかった。私はVX事件でたくさんの裁判に証人として出た。井上君の控訴審でも証言した。井上君は一審は無期懲役だったのに、控訴審で死刑になった。もしかして、私がしゃべったことが何らかの影響を与えたんじゃないか、と悩んで辛い思いがあった」

井上が無期から死刑になったのは、地下鉄サリン事件での彼の役割についての評価が厳しくなったのだが、山形は自分の証言のためではと悩む。

それでも、今日証言することにしたのは?

検察官からそう問われて、山形はこう答えた。

「平田君の後、高橋克也君も逮捕された。彼はVX事件の共犯。この事件では、お亡くなりになられた人がいる。遺族の方の心情を考えると、やはり証言を拒否することはできない。今日も、話すことで責任を果たしたいと思った」

かつての仲間の死刑判決を巡って苦しんだことで、彼は人の「死」をより実感し、自分が遺族にもたらした苦しみや哀しみに思いを巡らしたのかもしれない。

証言することの責任

杉本の場合は、それに加えて検察に対する不信感がある。

一連のオウム裁判が行われていた頃、Tさん殺害事件の共犯者Yが、杉本について、教団内で昇進したくて事件に関わり、Tさんへの拷問を楽しんでいたかのような主張を行っていた。Yは杉本の公判で検察側証人として、その主張に沿った証言を行った。一方の杉本も、Yの裁判に検察側証人として呼ばれ、記憶に従った証言をした。検察は、Y公判の論告では、杉本証言を「信用性が高い」とし、Yは「殊更に自己の罪責を軽減し、共犯者らにその罪責を押し付けようとする態度が歴然としており、基本的にその供述の信用性が低い」と断罪した。ところが、同じ検察が、杉本の公判では、Yについて「経験を元にして行った証言は信用性が高いというべきである」と高い評価をし、それに基づいて杉本を厳しく非難したのだ。

私も当時、両公判を見て、検察のあまりのご都合主義に唖然とした覚えがある。事件の真相をできる限り解明し、それに基づいてそれぞれの被告人の責任を問うのではなく、被告人を激しく非難するためには、法廷ごとに真相を変えてもよい、というのでは、とてもフェアな対応とは言えない。

自らの証言の信憑性を否定された杉本は、教祖の裁判に検察側証人となるよう求められた時に悩んだ。そして、これを最後に、検察側証人となるのは辞めよう、と思った。彼は言う。

「私は、一緒に裁判を受けた豊田亨さん、広瀬健一さん(いずれも地下鉄サリン事件の実行役で死刑囚)を入れると8人の死刑判決に、証言することで、関わってきました。検察が私の証言の信憑性を否定するのは、検察の評価ですからかまいません。でも、私は自分の証言が、死刑判決に多少とも影響したことの責任を感じています。生と死を分ける証言に対して、検察の論告(の評価の仕方)はあまりに軽い……」

生と死の境

地下鉄サリン事件の外に2つの殺人事件に関わった杉本自身にも、死刑が求刑されることは考えられた。

無期懲役が求刑されて死を免れた後、彼は最終意見陳述で、同じ法廷で死刑を求刑された豊田、広瀬に向かって、こんなことを語っている。

「教団にいる時には、お二人とはあまり親しくおつきあいをしていませんでしたが、(一緒に裁判を受けているうちに)いつの間にか一番古い友人であるような気持ちになっています。この間の求刑の時に、私だけが無期懲役と言われ、今日は顔を合わせるのもつらい気持ちです。

地下鉄サリン事件の実行役になるか運転手役になるかなど、麻原の一言で決まっただけで、私も実行役に選ばれたなら、豊田さん、広瀬さんと同じように最後まで実行したと思います。たまたま麻原が誰を指名したかによって、死刑が求刑されたり、無期懲役が求刑されたりするのでは、いたたまれない気持ちです。本当になんと申し上げたよいやら、言葉が見つかりません」

この言葉は、オウム事件の特質を言い当てている。事件で重要な役割を果たしたかどうかは、結局は教祖の割り振り次第。検察は、地下鉄サリン事件の実行役には基本的に死刑を求め、運転役には無期懲役を求刑したが、このように画一的に生と死が振り分けられることに対する違和感は、私も感じていた。当事者の杉本としては、まさに「いたたまれない気持ち」だったのだろう。

杉本は、今もなお生死の狭間にいて、自分が関わった事件についての責任だけでなく、仲間の死に関わった重荷も背負っているように見える。自分が証言をした者の刑が執行される時には、なお一層、その荷は重く、その背にのしかかるのだろう。そして彼は、おそらく生涯、その重荷から解放されることはない。

原点に戻る

結局彼は、平田の裁判を担当する検察官団の一人から説得を受け、証言に応じることにした。検事にじっくり話を聞いてもらい、その説明を受けて、平田の裁判では正義が守られる、という信頼を持てたようだ。そして、彼は「原点に戻ろうと思った」という。

逮捕された後、接見してくれた弁護士から、「死刑が求刑される可能性が高い事件だ」と教えられた。取り調べの検事からは「責任をとって、償いをしてもらいたい」と告げられた。けれども、自分は何もできない無力さを感じた。悩んだ末に、唯一できるのは、事実を供述することで、償いができるとしたら命を差し出すしかない、と思い至った。そして、それまで捜査機関が知らなかったTさん事件ともう一件の殺人事件を自ら自白したのだった。ちなみに、裁判所の判決でも、この2件は杉本の自首が認定されている。

命を投げ出す覚悟ですべてを語ること―これが、教団と決別した彼の「原点」だった。

杉本は、証言を終えると、法廷を出る際に、平田の目を見て、ごくわずかにうなづいた。私には、平田のほおが少し紅潮しているように見えた。教団にいた頃には仲がよかったという二人。杉本の重い気持ちは、平田にも伝わったのではないか。

それを見ていた私も、ずっしりとした重しを飲み込んだような気持ちで法廷を後にした。

被害者・遺族のみならず、懸命に信仰した者を、今も苦しめ続ける。

これが、オウムなのだ……。

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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