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朝日問題を新聞の役割を考える契機に

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

朝日新聞が、激しい非難を浴びている。誤報そのものの重大さに加え、訂正も読者への謝罪も遅れ、池上彰さんのコラム掲載を取りやめるなど、同社の対応は何から何まで拙かった。厳しい批判は当然だろう。

今回の問題の端緒となった朝日新聞の慰安婦問題検証記事
今回の問題の端緒となった朝日新聞の慰安婦問題検証記事

同社は、原発事故調査委員会による吉田昌郎・元福島第一原発所長の聞き取り調書(吉田調書)についての誤報は同社第三者機関「報道と人権委員会」に、慰安婦問題に関しては別に第三者委員会を立ち上げて検証すると発表した。

問題の原因はつながっているのでは?

だが、2つの問題を切り離して別々に検証するというのはいかがか。時期もテーマも別の記事だが、原因は共通しているように思える。慰安婦問題に関しては「戦争責任及び戦後責任の追及」、吉田調書については「反原発」という、朝日にとっての「正義」が、報道の背景に見える。記事作成に関わる人がみな、事実を「正義」の眼鏡を通して見ていたのではないか。そのうえ、「正義」を担う自信とプライド、それに間違いを認められると「正義」そのものが傷ついたり後退したりするという懸念もあって、間違いを素直に認められずにいたのではないか。同紙にとっての「正義」は、「戦争責任及び戦後責任の追及」と「反原発」だけではないだろう。この2つのテーマで、問題の根が共通するとすれば、他のジャンルにおける「正義」が関わる報道でも、同じような間違いをしたり、する可能性がある、ということになりはしないか。

しかも、この2つのジャンルにおいても、問題が指摘されているのは、誤報を認めた慰安婦の強制連行証言と吉田調書を巡る報道だけではない。慰安婦問題については、官民挙げての償い事業を展開したアジア女性基金を、ことさらに「民間基金」と報じるなど、朝日新聞などの日本メディアの報道が、同事業を正しく伝えなかったとも指摘されている。また、原発に関する長期連載「プロメテウスの罠」は、新聞協会賞も受賞した看板企画だが、科学的知見や事実を無視して、過剰に低線量被ばくの影響を煽ったり、福島の危険性を印象づけている、といった批判がかねてからある。

朝日新聞が本当に問題の原因を究明し、それを克服しようとするなら、こういう看板企画も俎上に上げて、きっちり検証をし、その結果を糧として欲しい。

朝日だけでいいのか

ただ、「正義」の眼鏡ゆえに報道が歪んだり、誤報を招いたりするのは、何も朝日新聞だけではない。間違いを指摘されても、なかなか正さない、謝罪しないのも、朝日に限ったことではない。いちいち固有名詞は挙げないが、今、激しく朝日叩きをしている新聞や雑誌で、すねに傷を持たないメディアはほとんどないだろう。

今回、池上コラムの不掲載に関して、朝日の記者たちは実名で批判の声を挙げた。朝日叩きをしているメディアの中には、そうした社内言論の自由が見られないところもある。朝日批判を行うのはいいが、同時に、自らを振り返る謙虚さが必要だ。

ところが、そうした自省がないどころか、調子に乗って「廃刊しろ」「不買運動を起こせ」と煽る言説を垂れ流すメディアもある。間違いを訂正したら潰されるなら、メディアはますます間違いを正しにくくなってしまうのではないか。

販売店に置かれた朝日批判のパンフ
販売店に置かれた朝日批判のパンフ

新聞の中にも、朝日批判を連日紙面で展開しそれをチラシにしてばらまいていたり、パンフレットを作ったところがある。朝日批判の本まで作り、新たな購読者にはプレゼントするそうだ。そういう新聞は、営業戦略のために、朝日叩きの紙面作りをしているように見える。

新聞が、さらにはジャーナリズムが信頼されるためには、いかにあるべきか、という根源的な問題が投げかけられているのに、読者争奪戦というこんな醜い争いを演じていては、新聞に嫌気が差す読者もいるだろう。

進む人々の新聞離れ

はっきり言って、そんなことをしている場合か、と思う。

このところ、新聞を取らない、読まない人が増えている。日本新聞協会の調査では、新聞の発行部数は年々減っている。1世帯当たりの購読部数(世帯普及率)は、2008年には1を切った。昨年は世帯普及率0・86にまで落ち込んだ。職場などで購読している分も含まれるだろうから、純粋に新聞を取っている家庭となると、さらに数字は下がるはずだ。人口減に伴って、部数が下がるのは仕方がないとしても、世帯普及率の減少は、新聞を読む習慣のない人が増えていることを意味しているので、新聞業界にとっては深刻だ。

新聞離れは、大都会の若い世代に顕著な傾向だと思っていたが、必ずしもそうではない。地方でも、読者減は深刻。昨年の県別世帯普及率を低い順に見ると、鹿児島0.56、沖縄0.62、熊本0.65、高知0.68、長崎0.72、宮城0.72となっている。

新聞好きな私は、この数字を見ると、もう心配で心配でたまらなくなる。新聞だけではない。日本雑誌協会が公表している印刷部数の過去と現在を比べると、軒並み発行部数を減らしている。しかも、読者の高齢化が著しい。最近の週刊誌が、やたらと「高齢者の性」を特集するのは、その現れだ。このまま推移すれば、次々に消滅していくことになる。これもまた、自分の仕事の場がなくなるということも含めて、心配で心配でしようがない。

新聞がなくなったらどうなる?

そうなったとしても、全然平気、という人はいるだろう。昨今は、インターネットがあるから、新聞なんて潰れてもいい、雑誌などいらないよ、と。だが、ネットで流れるニュースは、主に新聞や通信社の配信だ。週刊誌のスクープがネットで流れることも多くなった。新聞が次々に潰れ、あるいは経営状態が悪化して、記者を抱えきれなくなったら、どうなるだろうか。

個人で動き、マスメディアの流儀に縛られないフリーランスならではの報道は大事だが、組織されないフリーランスが、新聞がカバーしている情報の量と質をすべて請け負えるわけではない。ネットメディアでは、フリーランスの記者がレポートしたり、様々な分野の専門家が分析を行ったりもしていて、貴重な情報も多いが、マスメディアの報道が、そのきっかけや分析の参考になっていることも実にしばしばある。

インフラ老朽化の全国的実態調査など、広域にまたがる取材のように、組織ジャーナリズムだからこそ、迅速に展開できる領域もある。過去の裁判例や裁判員のコメントなど、長年にわたって素材を蓄積する点においても、組織ジャーナリズムの強みが発揮されることが多い。

また、フリーランス記者の中にも、新聞や雑誌の記者として、基本的訓練を積んだ者が少なくない(私もその1人だ)。若い頃に週刊誌の取材記者として働き、その後フリーランスの書き手や編集者になった、という人もいる。テレビ局出身の、ビデオジャーナリストもいる。マスメディアの仕事に飽き足らず、あるいはそのやり方に反発を覚えて飛び出した人もいるが、駆け出し時代の基本をそこで(教わったかどうかはともかくとして)学んだとは言えるだろう。つまりマスメディアは、フリーランスの記者の育て、輩出する場としての役割も果たしてきた。

そうしたマスメディアが衰退していけば、人々に提供される情報の質や量が低下することが懸念される。とって代わる媒体が十分育っていけばいいが、日本ではネットメディアが既存マスメディアの役割をすべて果たせる状況では、まだない。民主主義国家を樹木にたとえるなら、メディアは水分や養分を吸収する根っこのようなもの。その根が細ったり朽ちてしまっては、樹木は立ち枯れていくばかりではないか。

いま、考えるべきこと

それを考えると、新聞は、読者の奪い合いなど展開している場合ではない、と思う。批判は大事だが、自省も必要。今回の問題を機に、各メディア、特に新聞には自らの役割とあるべき姿を、もう一度考えてもらいたい。そして、人々に必要とされ、信頼される今後の新聞作りを目指して欲しい(もちろん、「紙」媒体の維持にこだわる必要はない)。

同時に、人が質量ともに十分な情報を得るためには、市民の側の役割も大きいと思う。ツイッターなどを見ていると、気に入らないメディアやジャーナリストを非難するのに、「売国奴」「国賊」さらには「非国民」などという、まるで戦時中のような物言いが平然と飛び交っている。そこまで極端ではなくても、「マスゴミ」というレッテル貼りはしばしば目にする。そうやって非難したり突き放したりすれば、日本のジャーナリズムはよくなる、というものではない。それに、情報の流れ方は、もはや大メディアから読者・視聴者へという一方向ではなく、多様化している。情報の受け手は、また情報の発信者でもある。情報をいかに伝えるかは、マスメディアのみならずネット時代を生きる誰もが考えたい課題だ。

だからこそ、できるだけ多くの人が、厳しい目で見、注文をつけながら、新聞を、そしてジャーナリストを支えて欲しい、と思う。自分自身のために。そして、日本が健全な民主主義社会であるために…。

(9月27日付熊本日日新聞掲載のコラム「視界良好」に加筆しました)

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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