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【難民問題を考える】ベトナム難民だった父とその息子の過去・今・未来

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

シリアなどからの難民流出が止まらない。一方で、パリの同時多発テロ事件の容疑者の中に、難民に紛れてフランスに入国した者がいると報じられ、欧米各国での警戒が高まっている。イスラム教徒へのヘイト犯罪が増え、移民二世らの疎外感も深まり、かえって「イスラム国」(IS)などの過激派がリクルートしやすい環境が整ってしまっているようにも見える。

欧米と異なり、日本は難民にとって極めて敷居が高い。昨年はわずか11人しか難民認定されなかった。毎日新聞が12月初めに行った世論調査では、難民を「受け入れる必要はない」が44%で、「受け入れるべきだ」の37%を上回り、国民の間でも、受け入れに消極的な声がまだまだ多い。文化や生活習慣が異なる人々を受け入れることへの抵抗感や不安が強いのだろう。

そんな日本も、かつて少なからぬ難民を受け入れた時期があった。それは、1975年にベトナム戦争が終結した後のインドシナ難民の受け入れだ。南ベトナムは崩壊して全土が社会主義化。さらに、ラオスも社会主義化し、カンボジアでは中国の支援を受けたポル・ポト政権が樹立した。それぞれの国で迫害された人々や体制に不安を持つ人たちが、小さな船で国外に逃れた。日本にも、そうしたボートピープルが漂着した。当初、日本政府は一時的な滞在しか認めなかったが、大量の難民を引き受けていたアメリカなどから、受け入れを迫られた。1978年4月にベトナム難民の定住を認める閣議了解を皮切りに、インドシナ難民の受け入れを始めた。以後、2005年末までに間に、合計11,319人の定住を認めた。

保護はされたものの……

範田清(ベトナム名:ファムゴック・タン)さん(53)も、その1人。かつては南ベトナムの農村で暮らしていた範田さんは、1980年3月末のある夜、父と2人で漁船に乗り込み、祖国を後にした。この時、範田さんは18歳。船内には、他に25人がいた。荒れる海を、行く当てもなくさまよううち、米軍機に発見され、近くにいた日本の貨物船が助けにきてくれた。

範田清さん。今は日本語・ベトナム語の通訳の仕事をしている
範田清さん。今は日本語・ベトナム語の通訳の仕事をしている

まずは沖縄県の難民センターに収容された。父の妹が住むアメリカに行きたかったが、なかなか受け入れが認められない。その間、衣食住の提供はあるものの、何の展望もなく、ただひたすら待ち続ける日々だった。

「待ち時間が長く、何もやることがない、というのは辛かった」と範田さん。子どもたちにベトナム語を教えたり、ボランティアで難民センターの事務を手伝ったり、英語を独学したりと、自らやることを作って、朗報を待った。

「勉強したい!」

しかし、すでに多くの難民を受け入れているアメリカは、すでに日本に保護されている人たちの受け入れには消極的だった。範田さん親子は、日本に定住する腹を決め、1982末に申請をすると、すぐに認められた。広島県の施設を経て、東京のセンターに移り、そこで日本語を3ヶ月、日本社会について学ぶ講座を3ヶ月受講した。そして就職斡旋を受けて、最初は多摩市の義足などを作る会社に就職した。

しかし、3ヶ月の講座だけでは日本人とのスムーズな会話は成り立たず、言葉には苦労した。

「日本語は難しい。たった3ヶ月の勉強ではとても無理」

昼間働いて、夜は懸命に日本語を勉強した。そのうち、この日本で暮らすなら、もっと勉強したいという思いが芽生えてきた。

「とても温かい会社だったけど」、最初の会社を辞め、神奈川県の自動車会社に移った。まずは日本語を勉強し、その後定時制の高校に入った。父親が病気となり、面倒を見なければならなくなったが、昼間は仕事、夜は高校へ通い、4年間で卒業した。

その後、いくつか職を変え、祖国の家族に仕送りした。途中、「難民のために何か役に立ちたい」という思いから、難民定住促進センターで通訳などの仕事をしたこともある。そして、勉強も続けた。大学の夜間部で経済学部を卒業し、大学院に進んで経済政策を学んだ。

「日本に定住してよかった」

父は、家族の再会を待たずに亡くなった。範田さんは、父の死には大きいな衝撃を受け、学校も1年休学した。その後、祖国から母、姉、弟、妹、戦争時代に行方不明になった兄の子どもなど、家族を呼び寄せた。3DKの団地住まいは、大家族には小さく、一時はぎゅうぎゅう詰めの生活も体験した。1992年に帰化申請し、日本国籍を取得。結婚して3人の息子に恵まれた。長男には「明治」と名付けた。

「明治は、日本が大きく発展した時代だから。息子にもそうなるように頑張って欲しい」という思いを込めた。

日本に暮らしてきて、嫌な思いをすることはなかったのだろうか。

「いじめられることもあったが、それは覚悟のうえ。『国に帰れ!』などと言う人は、難民のことを知らないからだと思うし、そういうことを言う人はわずか。温かい人も多い」

「日本は住みやすい。がんばれば何でもできる。治安も環境もいいし、やる気さえあれば安定した生活ができる。日本に定住してよかった」

長男と次男は大学生になり、家を出た。その仕送りもしなければならず、今も懸命に働いている。「お父さんの背中を見て生きて欲しい」という範田さん。

「子どもたちには、学校が終わったら、日本と世界に貢献してもらいたい。子どもたちの田舎はここ(大和市)。まずは住んでいる国のために貢献するように言っている」

「日本政府は助けてください」

自身がボートピープルとして、命がけの脱出をした経験があるだけに、今のシリア難民などの状況を知ると、いたたまれなくなる。幼い男の子が水死したニュースを見た時には、涙が流れた。

「シリアの子どもたちがかわいそう。日本政府は、ちゃんと助けて下さい。日本も戦争の経験があると思う。戦争で亡くなった人たちの子どもも、助けて下さい。お金だけでなく、受け入れて下さい。もちろん、彼らも人間だから、悪い人もいるかもしれない。でも、それはわずかだし、日本人の中にも、悪い人がいないわけじゃない。ベトナムから来た難民も、多くの人はまじめに働いている。本当に、中東の難民はかわいそう」

アイデンティティに悩む二世

長男の明治さんは建築学科の大学2年生
長男の明治さんは建築学科の大学2年生

長男の明治さん(20)は、早稲田大学理工学部で建築学を学ぶ。

両親が帰化してから生まれているので、明治さんは生まれながらに日本国籍。ただし家では、ベトナム語で育てられた。両親からは、もっぱらベトナム名の「フック(=福)」で呼ばれ、家庭で「明治」と呼ばれることはない。弟たちと話す時は日本語とベトナム語が混じる。

学校は地元の公立へ通った。両親は教育熱心で、小学校1年生から、学校の宿題とは別に、毎日漢字の書き取りをさせられた。1年生はノート1ページ、2年生は2ページ。6年生になったら、6ページになった。

「両親とも難民で日本に来て、漢字を覚えるのが難しかったみたいで、でもこれができないと始まらないからと言っていました」

小学校4,5年生の頃から、自分は他の子たちとは違うな、ということを意識するようになった。なんで日本人がいっぱいいる所に自分がいるんだろう、自分はいったい誰なのか、と葛藤が始まった。

中学生になると、その思いはさらに膨らんだ。ある日のお弁当。明治さんの二段のお弁当箱には、いずれも炒飯が詰めてあった。それを見たクラスメイトは、ぎょっとして、中には馬鹿にする子もいた。他の子のお弁当はいろんな種類のおかずが彩りよく詰めてあった。

部活で忘れ物をした時に、怒った相手が明治君に向かって、「お前、国に帰れよ!」と叫んだことがあった。

「確かに、彼らとは違うかもしれないけど、僕は生まれも国籍も日本。でも、僕がこの国の人だなんて、(役所の)薄っぺらい紙の上でしか保証されていないのかもって思った」

今、ヨーロッパでは、中東やアフリカからやってきた移民の二世たちが、生まれ育った国の中で居場所が見つからず、孤立感を深める中、宗教にアイデンティティを求め、過激派にリクルートされてしまう者もいる。

「『オレはフランス国民だ~』って、胸を張って大きな声で叫べる人たちもいる中、そうではない二世たちは、『じゃあ、俺の存在は何なんだろう』と苦しむと思う。紙の上では、『お前はフランス人だ』と証明されてるけど、『俺らは紙の上でしかフランス人じゃないのか』って悩む苦しみは、分かるような気がします」

本気でぶつかり合えた家族

明治さんにとって、救いは家族だった。

ベトナム人は家族のつながりを大事にする。一家は両親と子ども3人、それにおばあさん(清さんの母)が3部屋に同居していた。ほかに、おじさんやいとこなどが、同じ団地に住んでおり、夕飯はいつも、目の不自由なおばさんが暮らす1階の部屋に、20人以上が集まって食べた。

「感覚的には、その皆が家族。小学生から、外に遊びに行くより、家族と一緒にいる時間を大事にしろと言われていました」

明治さんは、自分の葛藤を、年の近いいとこと話し合った。いとこもまた、悩んでいた。どちらも、親の世代から「お前はベトナム人だ」と言われ、反発した

違う!僕らは日本語がしゃべれるし、考え方だってこっちの人に近い」

意識的に「僕は日本人だ」と言っていないと、気持ちが落ち着かなかった。「一般的な日本の中学生」にあこがれた。なので、親とは本気でぶつかり合った。けれども、一方で、「一般的な日本の中学生」への対抗心もあった。「あいつらより、絶対たくさん読んでやる」と意地になり、読書に没頭したりもした。

同様の悩みを持つ難民2世の中には、ぐれてしまう子もいた。

「たいがいが核家族などで、ケアできる、時間のある大人がいない子だった。僕は、両親が働きに行っていても、おばあちゃんやいとこたちがいたので、悪い仲間の所に行く必要がなかった

建築家を目指すようになったのは、そういう家族のいる場としての住宅に興味を持ったからでもある。

誰がなんと言おうと、「僕は僕」

明治さん自身が、難民二世としてのアイデンティティを巡る葛藤から解放されたのは高校生の頃。男子校で、個性的な友人が回りにたくさんいた。

国語の先生からは、小論文を書くときに「大きな主語を使わない方がいい」と言われた。「大きな主語」とは、「我々は」とか「日本が」とか、集団をひとくくりにして語る言葉。そうではなく、「僕は」「私が」という一人称で語られる、一人ひとりの違いを大事にする先生だった。

「一般的な日本人」のように見える人たちも、「一粒一粒が違う存在」と気がつかされた。

「自分も、その一粒なんだな~と、認められるようになった。他の人が何と言おうと、自分の中では『僕は僕』。ベトナム人か、日本人か、というところにアイデンティティを求めることは、今はもうない」

ベトナムでいつか仕事を…

家族と一緒に、何度もベトナムを訪れた。行くたびに車が増え、街が活気づいていくのを感じる。相手との距離を測る日本人同士のつきあいとは異なる、相手の懐にどんどん入っていく人づきあいも楽しく感じられる。大学を卒業した後も、しばらくは修行しながら日本の事務所で働き、いつかはベトナムで仕事をしてみたい、と思うようになった。

「自分の好みの建築は、日の当たる所に、コンクリートでピキーッと建っている感じの建物。好きな建築家は、アルヴァロ・シザとかルイス・バラガン。なので、南の国が合うかな、と。ただ、そういうものが受け入れられるか分からないので、ゆっくり考えたい。作りたいものより、必要とされるものを、まずは作りたいから」

大学では、ベトナムに西洋建築を持ち込んだフランス人の実績を学ぶためにも、フランス語を第二外国語として勉強している。

難民ルーツは捨てられないが、一番大事でもない

そんな明治さんは、日本の難民政策はどう思っているのだろう。

「不満です。ただ、幼少期からここで育った僕としては、この国は難民を受け入れるのは難しい体質なのかもしれない、という感覚もある。日本人は、『みんな一緒』という意識が根底にあるから。僕がみんなと『一緒』ではない、という時に反発されたりけなされたりした。だから、難民として受け入れられても、後から苦労してかわいそうかもしれない」

それでも、これだけ世界が狭くなり、日本にもボートではなく、飛行機で難民がやってくる時代。経済は、これだけグローバル化している。

もっと差異を認めて生きていかないと、(日本は)うまくいかなくなる時が来ると思う。そもそも働き手が少なくなっているわけですし。ただ難民を受け入れるとなると、意識改革が必要。グローバルという発想自体、大陸的な考え方だし、そうなると古風な日本文化がなくなってしまうと心配するのも分からないではない」

そんな風に、気持ちが揺れながらも、今は勉強に全力投球している。

「この先、社会に出て仕事をするうえで、僕が難民二世であることは捨てられない。難民の気持ちは分かると思うし、何かお手伝いできることがあればしたい。ただ、僕にとって一番大事なのは難民ルーツじゃないし、まずは自分の建物が人を感動させられるようにならないと」

お正月は実家で過ごす。大家族が集まり、仏壇にこの1年を報告した後、揃ってご馳走を食べる。揚げ春巻きやフォー、ベトナム風のお餅など、お母さんの手料理を、明治さんはお腹いっぱい食べるつもりだ。

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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