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気候変動問題の価値依存性と専門家の役割

江守正多東京大学 未来ビジョン研究センター 教授

「環境情報科学」という学術誌の「気候変動―未来選択に向けて」という特集に、合意形成に関して何か書けというお題を頂いて、執筆した。一般向けとしても読んで頂ける内容だと思うので、ここに転載させて頂く。

はじめに

2014年12月に、地球規模の持続可能性に関する国際研究プログラムFuture Earth (FE)の取り組むべき優先課題をまとめたStrategic Research Agenda (SRA)が発表された (Future Earth, 2014)。FEの3つの研究テーマのうちの1つであるTransformations towards Sustainabilityについて、SRAの筆頭に書かれた次の項目が筆者の目に留まった。

「食料およびエネルギーの生産と消費についての既存のモデルやシナリオの背景にある仮定(特に需要、分配、貧困、技術、行動に関するもの)は何か。様々に異なるイデオロギーやビジョンは、研究プログラムおよび社会/公共政策にどう影響するか。持続可能性についての様々に異なるビジョンを正しく理解することは、対策のモデルの有力な選択肢の同定にどうつながるか。」(日本語訳は筆者による)

「様々に異なるイデオロギーやビジョン」は、価値観(あるいは世界観)の多様性と言い換えてもよいだろう。この記述から、SRAの策定に関わったFEを牽引する世界の第一線の専門家とステークホルダーたちが、持続可能性問題を考える上で価値観の多様性が本質的に重要であるという認識を有していたことが筆者には見てとれる。翻って、日本国内の気候変動問題に関する議論においては、このような認識が明示的に語られることはほとんど無いと筆者は感じていた。

本稿では、多様な価値観の存在を認識することの重要性を理解する上での助けとなる議論をいくつか紹介する。続いて、そのような議論環境における専門家の役割について論じる。

1. 社会心理学的観点

人々の世界観を2つの軸で分類して論じた人類学者Mary Douglasによるリスクの文化理論の枠組みを下敷きにして、Dan Kahanらによる社会心理学的な実証研究が数多く発表されている。Kahanの分類では、「階級主義」←→「平等主義」と「共同体主義」←→「個人主義」という2つの軸で人々を4つの「文化的グループ」に分類する(図1)。社会的な論争に対する個人の認識は、その個人がどの文化的グループに属しているかに大きく影響を受ける。

図1. Kahanらによる「文化的グループ」の分類
図1. Kahanらによる「文化的グループ」の分類

よく知られているように、米国においては、いわゆる「保守」(典型的には階級主義的個人主義者)と「リベラル」(平等主義的共同体主義者)に社会が二極化する傾向にあるため、この影響は顕著である。例えば、気候変動のリスクが深刻であるか否かの認知は、科学リテラシーによって決まるのではなく(科学リテラシーが高いほど気候変動のリスク認知が高いということはなく)、むしろリテラシーが高い人たちほど、自身の属する文化的グループの影響を受けて認知が二極化する(階層主義的個人主義者よりも平等主義的共同体主義者のリスク認知が高い)傾向が見いだされている (Kahan et al, 2012)。

2. 政治学的観点

一方、政治学者のJohn Dryzekは、地球環境問題に関わる言説を分析し、やはりいくつかの分類を見出した (Dryzek, 2005)。その際の出発点となるのは、現代社会の「産業主義」(財とサービスの量における成長と、それがもたらす物質的な豊かさへのコミットメント)をどう見るかである。産業主義の本質的な限界を認識するか、産業主義の修正でよいと考えるかという問題認識の違いを一つの軸、その問題に対して求める解決策が常識的か独創的かをもう一つの軸として4つの分類ができる。さらに、この軸の外側に、産業主義をなんら問題視しない立場として、「プロメテウス派」が配置される(図2)。

図2. Dryzek (2005)による地球環境問題の言説分類
図2. Dryzek (2005)による地球環境問題の言説分類

プロメテウス派は、人類の英知による無限の成長を確信して産業主義を擁護し、産業主義の限界を確信して管理的な人口抑制・定常経済を求める「生存主義」や意識変革・政治変革を求める「緑のラディカリズム」と激しく対立する。一方、常識的(「環境問題解決」)または独創的(「持続可能性」)手法により産業主義の修正を目指す立場もあるが、これらは限界の無限な先送りに過ぎないのかもしれない。

3. 倫理学的観点

IPCCの第5次評価報告書には、第3作業部会に倫理的観点を含む章が設けられた(IPCC, 2014)。第3章の「社会的、経済的、倫理的コンセプトと手法」および第4章の「持続可能な発展と衡平性」である。そこには、例えば次のような記述がみられる。

「経済学的手法ができることには限界がある。それは倫理的原理に基づくことができるが、すべての倫理的原理を考慮することはできない。それは人々の厚生を測ったり合計したりすることに向くが、正義や権利、ならびに厚生以外の価値を考慮することには向かない。」(3.5節)

「金銭換算した利得と損失を単純に足し合わせる費用便益分析の手法は、非常に限られた仮定の下でのみ整合的であり適用可能であるという合意がある。それらの仮定は経験的に疑わしく、倫理的に議論の余地がある。」(4.7.2節)(いずれも日本語訳は筆者)

IPCCのこれらの章では倫理的な問に対する答えを論じないが、気候変動問題における倫理的概念の適用法についてまとめている。そこでは、このように経済学的手法の倫理的な限界が明確に指摘されている。一般に、倫理学の主要なアプローチには帰結主義、義務論、徳倫理の3つがあるとされるが、費用便益分析などの経済学的手法は基本的に帰結主義の立場をとっており、倫理学的に見れば限定的な視点しか提供できていないのである。

4. 多様な価値観と専門家の役割

このような多様な価値観の存在を前提とすると、例えば費用便益分析に基づいて特定の政策を推奨する専門家が極めてナイーブな存在に見えてくるのではないか。そして、専門家自身にもそのような自覚が必要になるだろう。

政治学者のRoger Pielke Jr.は、政策や政治における専門家の役割を4つに分類した(Pielke, 2007)。1つめは科学的興味のみに基づき研究を行う純粋科学者(Pure Scientist)、2つめは事実問題について問われれば答える質問への解答者(Scientific Arbiter)である。3つめは特定の政策を推進する唱導者(Issue Advocate)であり、最後の4つ目は、複数の政策選択肢を中立的に提示して意思決定と科学を仲介する公正な仲介者(Honest Broker of Policy Alternatives)である。

ただし、Pielkeによれば、気候変動問題のように価値依存性の高い問題においては、Pure ScientistやScientific Arbiterとして振る舞おうとしても、結果的にIssue Advocateの状態に陥ってしまいがちである。科学者が素朴に発言したつもりでも、社会はそれを政治的文脈に落として受け取るためである。これを避けるには、科学者は諸価値に対して意識的に公正に、Honest Brokerとして振る舞う必要がある。

5. 特定政策の推進は避けるべきか

では、科学者がIssue Advocateとして特定政策を推進することは常に避けるべきことだろうか。気候科学者のGavin Schmidtは次のように論じている(Schmidt, 2015)。確かに、科学者が特定政策を推進することは、科学の客観性・中立性を貶めるという見方がある。しかし、科学者といえども、客観・中立なことだけ発言することは難しい。むしろ、「責任ある」Advocacyを「無責任な」それと区別して、前者を推奨すべきではないか。

「責任あるAdvocacy」は、自分自身の価値判断を明示した上で特定政策を唱導することで特徴づけられる。これに対して、あたかも客観的な事実命題であるかのように特定政策を唱導しておきながら、その裏に自分の価値判断をこっそり忍び込ませているような態度が「無責任なAdvocacy」である。PielkeはこれをStealth Issue Advocateと呼んで批判するが、日本では2011年の福島第一原発事故以降に顕著にみられた「御用学者」への批判がこれに近い意味合いを持つように思われる。

おわりに

以上のような議論から、気候変動問題の合意形成や政策決定においては、多様な価値観の存在が自覚されるべきであり、特定の価値観とそれに伴う議論の前提条件が無自覚的に支配力を持つ状態を注意深く避けるべきであると筆者は考える(この主張は筆者自身の価値判断をともなう、特定政策についてではないが、メタレベルのAdovocacyである)。

このとき、専門家は「無責任なAdovocate」であることを避け、「責任あるAdovocate」もしくは「Honest Broker」として振る舞うべきであるし、議論の主催者、参加者や聴衆は「無責任なAdovocate」を鋭く見抜けるようになる必要がある。そのような議論空間では、科学的な認識を精査して共有しつつも、過度な科学的「理論武装」の強弁に隠れて価値を主張し合うのではなく、価値そのものを開け広げに論じる場面が増えるだろう。

ただし、そのような議論空間の出現はおそらくそう簡単なことではない。現状では、専門家への研究予算提供者や議論を主催する政策決定者等が、往々にして「客観的根拠に基づく特定政策の提言」を専門家に期待しているのではないか。その場合、専門家にとって「無責任なAdvocate」を避ける動機を持ち続けることは難しい。

私見だが、この動機を支える可能性を持つのは、個々の専門家が自身の内省によって見出す内的な倫理観ではないか。すなわち、「無責任なAdovocate」として強弁した場合に自身の中に薄々感じる自己欺瞞に敏感になり、その自己欺瞞を忌避するような内省である。そのような内省が卓越する議論文化を、少しずつでも作っていきたいと筆者は考える。

引用文献

  • Future Earth (2014) Future Earth Strategic Research Agenda 2014. Paris: International Council for Science (ICSU).
  • Kahan, D.M., Peters, E., Wittlin, M., Slovic, P Ouellette, L.L., Braman, D., Mandel, G. (2012) The polarizing impact of science literacy and numeracy on perceived climate change risks. Nature Climate Change, 2, 732~735.
  • Dryzek, J.S. (2005) The Politics of the Earth: Environmental Discourses. Oxford: Oxford University Press.
  • IPCC (2014) Climate Change 2014: Mitigation of Climate Change. Cambridge and New York: Cambridge University Press.
  • Pielke, R.A.Jr. (2007) The Honest Broker: Making Sense of Science in Policy and Politics. Cambridge: Cambridge University Press.
  • Schmidt, G.A. (2015) What should climate scientists advocate for? Bulletin of the Atomic Scientists, 71(1), 70~74.

(初出:「環境情報科学」 44-1, 55~57)

東京大学 未来ビジョン研究センター 教授

1970年神奈川県生まれ。1997年に東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程にて博士号(学術)を取得後、国立環境研究所に勤務。同研究所 気候変動リスク評価研究室長、地球システム領域 副領域長等を経て、2022年より現職。東京大学大学院 総合文化研究科で学生指導も行う。専門は気候科学。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第5次および第6次評価報告書 主執筆者。著書に「異常気象と人類の選択」「地球温暖化の予測は『正しい』か?」、共著書に「地球温暖化はどれくらい『怖い』か?」、監修に「最近、地球が暑くてクマってます。」等。記事やコメントは個人の見解であり、所属組織を代表するものではありません。

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