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国連の環境報告書「GEO-5」の日本語訳リリース 「一市民」が人生をかけて翻訳

江守正多東京大学 未来ビジョン研究センター 教授

国連環境計画(UNEP)が2012年に発表したGlobal Environmental Outlook 5 (GEO-5)の前半部分の日本語訳「地球環境概観 第5次報告書」が、昨年11月にリリースされた。

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内容については後で述べるが、まず特筆すべきことは、この二百数十ページの膨大な報告書の翻訳が一人の市民の手による自発的な企てだということだ。

発行者である「一般社団法人 環境報告研」は、代表理事の青山益夫さん(61)がGEO-5の翻訳を出版するために立ち上げた組織で、実際の翻訳作業は青山さんが一人で行っている。組織を立ち上げる必要があったのは、翻訳発刊のためのUNEPとの交渉が個人では門前払いにされてしまうためだ。

人生をかけた翻訳作業

青山さんは岡山県庁で農村行政等に携わった後、渡米してソフト会社に勤務。帰国後に翻訳の仕事を行いながら地球環境問題について研究を始められた。

GEO-5の翻訳を決意されてからは、収入のための仕事を断って、翻訳作業に専念されてきた。

出版までに要した期間は3年だが、そのうち翻訳作業自体をされていたのは1年程度で、残りは事前のUNEPとの翻訳発刊の交渉と、事後のUNEPによる翻訳の審査の、長い承認待ち時間だ。

翻訳された「地球環境概観」は全文が環境報告研のホームページから無料で公開されている。印刷版は有料で出版されているが、定価の2500円は本来の価格の半額以下だそうだ。

サイドワークや請負仕事などではない。

まさに人生をかけて、この重要な報告書を日本社会に届けたいという思いを貫かれた青山さんの情熱に、心を打たれる。

温暖化だけではない地球環境問題

GEO-5に最初に触れた青山さんが衝撃を受けたのは、地球環境の状態が、地球温暖化(気候変動)だけではなく、窒素汚染、生物多様性の減少といった複数の側面で、安全な領域から逸脱しつつあるという、報告書の内容だった。

1980年代頃からオゾン層破壊問題、地球温暖化問題といった地球環境問題が注目され、旧来のローカルな公害問題や自然破壊は先進国では過去の問題と見なされがちである。しかし、中国のPM2.5問題を例にあげるまでもなく、公害問題や自然破壊は主として途上国において依然深刻であり、しかもその影響は地球規模に及びつつ、かつ他の問題と複雑にリンクしている。

UNEPが世界気象機関(WMO)と協同で設立した気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書でも、このような地球環境問題の複合的な側面を取り扱っているが、気候変動問題を中心に他の問題との関係に触れるという視点にならざるをえない。GEO-5では、複数の問題をまさに包括的に概観する点にその特徴がある。「地球温暖化ばかりを騒ぐのは政治的で偏りがあるのではないか」という意見を聞くことがあるが、そういう感覚をお持ちの方にこそ、「地球環境概観」の一読をお勧めしたい。

温暖化と大気汚染の同時解決

その重要な例として、「地球環境概観」の内容をお話になる際に青山さんが特に強調されるのが、地球温暖化と大気汚染の同時解決のための「黒色炭素」等の排出削減だ。

黒色炭素とは、化石燃料の燃焼や森林火災、焼畑等の際に発生する「スス」のことだ。この物質は健康に有害な大気汚染物質であると同時に、日射を吸収して大気を暖め、地球温暖化を促進する物質でもある。他にも、黒色炭素が雪や氷の表面に付着すると、日射を吸収しやすくなり、雪や氷の融解を早めることも指摘されている。

黒色炭素は大気中の寿命が短いため、排出を抑制すれば即効的に濃度が減少する。対照的に、二酸化炭素は大気に長期間留まるため、排出を抑制してもその効果が出るのに時間がかかる。そこで、即効性のある温暖化対策であると同時に大気汚染対策にもなる黒色炭素の排出削減が重要というわけである。短寿命の温室効果ガスであると同時に大気汚染物質である対流圏オゾンの削減も同様だ。

これまで、温暖化対策の推進者は、このような意見を「二酸化炭素の排出削減を後回しにするための口実」と見て牽制することがあったように思われる。もちろん、短寿命物質の削減が二酸化炭素の排出削減を遅らせる理由になってはならないが、このような複合的な解決策の視点は、実効的な地球温暖化対策を真剣に考えるからこそ、これからもっと考慮されていってよいだろう。

専門家の力量と市民の力量

GEO-5は、IPCC報告書と同様に、世界の数百人の専門家によって執筆されている。その中で日本人の貢献が少ないのではないか、と青山さんは指摘する。そのこと自体、日本の専門家はもっと努力せねば、という気持ちにさせられるが、さらに重く受け止めたいのは、行政や専門家がGEO-5の翻訳の労力を厭う間に、それを見かねた一市民の青山さんが身を削ってその労力を提供してくださったという事実だ。

地球環境の問題を真剣に危惧し、必要な科学的情報を社会に届けたいという、青山さんが抱いたその気持ちこそ、日本の行政や専門家が、最も純粋な形で持っていなければならないものではなかっただろうか。そのことを反省するとともに、青山さんの努力に感謝し、その市民としての力量を称賛したい。

なお、何人かの専門家の方々が、青山さんの求めに応じて、この翻訳の査読をしてくださっていることを、同様の感謝とともに付記しておきたい。

東京大学 未来ビジョン研究センター 教授

1970年神奈川県生まれ。1997年に東京大学大学院 総合文化研究科 博士課程にて博士号(学術)を取得後、国立環境研究所に勤務。同研究所 気候変動リスク評価研究室長、地球システム領域 副領域長等を経て、2022年より現職。東京大学大学院 総合文化研究科で学生指導も行う。専門は気候科学。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第5次および第6次評価報告書 主執筆者。著書に「異常気象と人類の選択」「地球温暖化の予測は『正しい』か?」、共著書に「地球温暖化はどれくらい『怖い』か?」、監修に「最近、地球が暑くてクマってます。」等。記事やコメントは個人の見解であり、所属組織を代表するものではありません。

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