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内部告発という全体主義:密告のもたらす害悪を防ぐための処方箋

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:アフロ)

 毎年、東洋経済新報社は『CSR企業総覧』という雑誌を発行しているが、この中に各企業の内部通報の通報件数が掲載されている。9月5日の東洋経済オンライン「最新!「内部通報件数が多い」会社ランキング」で通報件数上位の企業が確認できる。

 大変な数である。トップのセブン&アイホールディングスなどは、実に一日に2件近くの通報があるという実態だ。

 記事の中にも書かれているように、内部通報は会社内の透明性を高めるために有効とされている。また、昨今ではある程度の数がある方が健全であるとされる。全くないということは、むしろ内部でもみ消しがあると想定されるからである。したがって、内部通報の件数の多さは、むしろオープンな社風の表れであると解釈される。

 本当にそうだろうか。これだけの数の内部通報があって、それでもオープンな社風だとか、不祥事の少ない健全な経営のために不可欠だとか、そのように言うことができるだろうか。確かに不正はもみ消すべきではない。なくしていかなければならない。しかし筆者には、この内部通報という仕組みがあまりにも機能してしまうことが、企業経営に悪影響を及ぼさないはずがないと思われるのである。

恐怖心を利用した統治

 内部通報、いやここではよりその本質を明らかにするためにあえて広義の意味での内部告発という言葉を使うが、その仕組みの本質は恐怖による統治である。これはとりわけ全体主義国家、すなわちファシズムやナチズム、また旧ソ連のスターリン共産主義などにおいて採用された仕組みである。(内部通報と内部告発は、不正行為の報告を企業内機関に行うか外部機関に行うかによって分けられるのが通例である)

 全体主義は個が全体に従属することを目指す思想や統治体制である。いかなる全体主義も、その統治において個人のもつ恐怖心を利用する。個々の恐怖心の克服のために強力な権力を持つ統治、力による統治を目指すのである。個々のために、全体が揺るがされることはあってはならない。したがって全体を脅かす個人は、全体から排斥される。

 秘密裏における告発、つまり密告は、全体主義を支えるために有効である。全体を揺るがす個人は積極的に処罰していかなければならない。よって密告者は称賛され、報奨すら与えられる。そうなると、何でもかんでも告発する者、ときに大げさで、でたらめな告発をする者まで現れてくる。人々は密告を恐れ、互いを疑うようになる。結束が生まれない状況が作られ、全体は個を従属するための力を持ち続けることができるようになる。個々人の恐怖心の克服を目指す全体主義は、恐怖心を利用して統治を行う。全体主義は統治の原理に個人の恐怖心を置くのである。

 たしかに内部告発は、密告というには言い過ぎかもしれない。しかしことの本質は同じであろう。全く不正を犯していないと言い切れる社員は何人いるだろうか。隠し事がないなら恐怖することはないはずだという物言いは、ナチスの宣伝相であったゲッペルスの用いたプロパガンダである。ついには、誰が自分の不正を言い立てるか、さも大げさに悪を行ったと吹聴されるのではないかと、疑心暗鬼になるだろう。人からなる企業という組織において、このような空気は経営において致命的といえる。

そして社員は守りを再優先するようになる

 処罰されないためには、余計なことはしないほうがよい。人間のすべての行為にはリスクが生じる。リスクを乗り越える様々な活動からやむなく生まれた悪を不正と言われてしまえば、確かにその通りなのである。しかし言うまでもなく、企業とはリスクを負いながら次々と新しいことを行い、社会に高い価値を示していくことで運営される組織である。すなわち、何もしないということは企業として成り立っていないということである。

 そもそも企業は、本質的に守りに入りやすい組織である。なぜなら、企業は個々の社員の生活基盤を支えているからである。食っていけることが永続して保証されているのであれば、人はやりたいことをやることもできる。逆に失敗によって明日の飯にありつけなくなるのであれば、人はできる限り失敗しないように努めることだろう。かくして失敗をもって人を処罰する企業は、社員から行動意欲を奪ってしまう。

 内部告発はそれを助長するきらいがある。たしかに内部告発には正しい根拠が求められ、またその行為には公益性が求められるが、だからといって人の不安をかき立てないことにはならない。かつて行った「あのこと」を告発されるのではないかと気にやみ、組織への信頼は徐々に失われていくことになる。組織体制はいずれ崩壊していくことだろう。

倫理教育よりも目的意識を

 それでもなお、現実に内部通報という仕組み自体はなければならないと言えるだろう。なぜなら先に述べたように、不正をもみ消すことはあってはならないからである。しかしそもそも悪いのは、不正を行うような体質だということを忘れてはならない。要するに、健全に経営ができていないことが問題なのである。

 高い倫理意識が欠落しているのが問題だというのが大方の専門家の答えになるだろう。しかし高い倫理意識はどのようにして生まれるのか。倫理意識を持つべきと言われても、目標未達の恐怖を目の前にしては小さな不正を働くかもしれない。あるいは全従業員の生活を支えるためという理由から、目の前に存在する不祥事に目をつぶるかもしれない。持つべきであるということと、実際に持つことができるということは、別問題なのである。

 ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』のなかで、全体主義に変わる体制を共和制のうちに見出した。彼女は、個々が政治に積極的に参加し、かつ参加すること自体に意義をもつ社会を想定したのである。参加の目的は個々の利害ではない。そういったものにとらわれずに政治に参加し、政治的目的の達成のために意見を出し合うことが重要である。そうすることによって個々人は、公益性を生み出すことができるのである。

 企業においても同じことが言えるだろう。すなわち、企業へ参加する目的とか意義といったものを明確にし、自身のできることを精一杯行うという姿勢が、高い倫理意識を生み出すのである。言い換えれば、恐怖に目を向けるよりも、目的に目を向けるような体制づくりが重要なのである。自身の所属する企業は何のために存在しているのか。その理念は何か。何を目指し、どのような価値を世に提示していくのか。その企業の中で自身はどのような役割を持つのか。すなわち企業とそこに所属する個人は、何のために存在し、何をなすことができるのかを、徹底的に問わなければならないのである。ある人材系の企業は企画会議において、その企画がどれだけ儲かるかの前に、どれだけ社会的意義があるか、公益性があるのかを問うのだという。そのような姿勢が、高い倫理意識を生み出すことにつながっていくのだと思われる。

 自浄作用をいかに高めるのかから、始めなければならない。そうでなければ、告発は何件にでも膨らんでいってしまう。ひいては個別事案への対処に追われ、根本的な問題は解決されないままとなってしまう。何度も言うが、内部通報の仕組みは必要である。しかし不正をなくし、使命感のもと公益を果たしていこうという心構えの方がずっと重要である。企業とそこにおける個々の社員が、我々は何を目指すのか、どのような社会的価値をもたらしていくのかを考え続けることが、いま求められているのである。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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