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情報社会は拡散社会 そのブログ、カキコミは本当に公にして大丈夫か

遠藤司SPEC&Company パートナー 皇學館大学 非常勤講師
(写真:アフロ)

12月15日、CNETに「DeNA、キュレーション問題調査のため第三者委員会を設置--社外取締役は含まず」と題する記事が掲載された。

キュレーションサービスの目的とは、情報を収集し、整理することによって、新たな価値や意味を付与して共有すること、である。つまり、ひとまとまりの情報を情報収集者が再解釈することで、その価値を増幅するのが、キュレーションである。情報が蔓延する時代において、こういった役割を持った人はたしかに求められる。

しかしながら、「キュレーター」である記事の作成者の質が全体として劣化しているように思う。彼らは端的に面白いまとめ記事をつくる能力はある。しかし、彼らのうちには情報の取扱いにおける分別を持たない人が少なくない。だからこういってよければ、彼らはキュレーターではなく、エンターテイナーである。売れる記事をまとめられる人、お金稼ぎができる人である。「キュレーター」が本来もつべき情報の取捨選択能力、玉石混淆の情報のなかから正しい情報を選び取る能力のない人が、少なくないように思われるのである。

ところで彼らは、面白いとみれば、何でもかんでも寄せ集めてくる習性がある。それこそ、個人が個人として楽しんでいるようなブログの記事からも。しかしそのブログの記事、本当に拡散されても大丈夫だろうか。嘘ではないと言い切れるだろうか。非常に危うい状況が、もう何年も続いているように思う。

情報社会はすべての人が表現者となる社会

最初に言っておきたいのは、ネット上におかれているものは不特定多数の目にさらされており、つねに誰かに引用・転載される可能性がある、という当たり前の事実である。このことは強く強調しておきたい。

かつての社会では、情報を発信する人と、それを得る人が分けられていた。情報を発信する人は、例外はあれども、基本的には情報の取り扱いについてよく知っている人であった。しかし情報社会が到来し、すべての人が情報を発信することができるようになった。つまり、かつての社会とは異なり、すべての人が表現者となりうる社会が到来したのである。

否、なりうるだけでなく、いまや実際にすべての人が、程度の差、影響力の差こそあれ、何らかの形で表現者になっている。そのため情報は、第三者にはコントロールができなくなった。いかに強力な全体主義国家であっても、情報の広がりを完全に封じこめることは不可能である。

情報の広がりの責任は、その情報を発した人が取らざるを得なくなった。しかもその広がりには際限がない。誰がどう拡散するかわからない。そのため、あれは冗談だったとか、こんな大事になるとはとか、そういった言い訳では済まされなくなっている。しかし、そのことをつねに意識できている人の数はさほど多くない。ブロガーでもツイッター民でも、はたまた2ちゃんねらーでも同じである。情報の発信が簡単にできてしまうがゆえに、そのことに慣れてしまうのである。慣れのせいで、責任を取らなければならないということは忘れ去られてしまう。意識されなくなってしまうのである。

今年の4月、熊本地震が起きたとき、ツイッターに「おいふざけんな、地震のせいでうちの近くの動物園からライオン放たれたんだが 熊本」というツイートが展開された。HuffPostの記事の中に画像があるが、見れば分かるように明らかに外国の街並みであるから、即座に嘘と分かる。しかし実際には、多くの人たちによってリツイートされてしまった。結果は、逮捕である。彼は20歳の会社員。TVにも報道されてしまった。

本人にとってはネタツイートのつもりでも、世の中には真に受ける人がいる。しかも震災のようなパニック状態のときには、人々の神経が過敏になっているから、より多くの人がそうなる傾向にある。しかも善意ある人ほど、こういった情報は注意喚起のために拡散してしまう。反対に、その状況を楽しんで拡散させようとする厄介な輩もいる。

冗談の場合だけではない。そうだと思い込んでしまい、書き込んでしまった例も数多くある。ほとんどの場合、情報を発信した人は逮捕されることはないが、事が事であればそうなることもある。デマによって被害を被った人がいた場合、訴えられることもあるだろう。悲しいかな、よかれと思って行ったことが人に迷惑をかけることは、往々にしてあることなのである。

人生を棒に振らないために

理想を言ってしまえば、拡散されたくなければ公の目に触れるところに何かを書くな、ということになる。TwitterもLINEもFacebookも、やめてしまうのが最善だ。そのくらい、ネット社会は危ないということである。

しかし、そのようなことは不可能だ。そうであれば、自分が変わるしかない。情報を取捨選択する能力を身につけ、正しい情報、有意義な情報のもとにものを書くように努めるしかない。

筆者も気をつけていることだが、何らかの事実関係を示すときには、必ず元となる情報を確認しなければならない。信頼できるメディアが流したものかを調べなければならない。伝聞が最も信用ならない。伝聞は、それを伝える人の思いが入る。そうであったらいいなという希望や、相手により正しく伝えようという意図が入る。よって強調したいことが人によってシフトする。最後には、誤った情報として伝えられる。このことは、子供の頃に伝言ゲームをやったことで身にしみてわかっているはずである。

したがって、反射的にものを判断し、書き込みをしてはならない。思い込まないように意識し、一呼吸おいて、それが本当かどうか調べてみなければならない。いったん感情を取り払い、事実のみを見つめてみる姿勢を取り戻さなければならない。

また気をつけなければならないのは、「Share」というボタンの誘惑である。ネット社会は、できる限り衝動的に行動させるための仕組みができ上がっている。したがって、本当にこれは共有するに値するものだろうか、共有しても大丈夫だろうかと、自問する習慣を身につけなければならない。

最後に、人に左右されてはならない。人はもしかしたら、衝動のもと行動しているかもしれない。あるいは情報弱者かもしれない。ゆえに、自分の頭の中で判断しなければならない。そのための力量を身につけなければならない。さもなければ、ハーメルンの笛吹き男のような輩があらわれたとき、破滅に導かれることになる。

SPEC&Company パートナー 皇學館大学 非常勤講師

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。多数の企業の顧問やフェローを務め、企業や団体への経営支援、新規事業開発等に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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