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お年玉の真実:正月に子供たちにカネをばらまくということ

遠藤司SPEC&Company パートナー 皇學館大学 非常勤講師
(ペイレスイメージズ/アフロ)

正月のための餅つきが始まった。

今更いうまでもないが、我が国では何かと祝い事があると、餅つきをする風習がある。古来より我が国には稲作信仰があり、餅が縁起のいい食べ物として扱われてきたからである。かねてそういう風習、伝統が大切にされてきたのが、日本という国である。

なかでも新年を迎えるための餅つきは、重要な意味がある。つい先日、どこかの自治体で餅つきを禁止するというニュースが流れたが、これは寂しいとか残念だといった簡単な問題ではない。古今における日本人としての精神性に関わる問題である。いまや地域の人たちに餅を振る舞うということの意味が、理解されなくなってしまった。そういったものをお役所が禁止するということ、そしてそれを平気で受け入れているということに、我が国のいまの姿が如実に表れているように思う。

さて、正月といえばお年玉である。われわれ大人は正月に、子供たちにお年玉を「あげなければならない」。しかし、なぜお年玉をあげるのかを考えたことのある人は少ない。そして、お年玉をあげるという行為の意味が、我が国の経済の発展とともに変容していったことを知っている人も、あまりいない。

お年玉とは何か

お年玉と正月の餅は、密接に関係している。

正月のために餅をつくのは、ひとつには鏡餅をつくるためである。鏡餅は、新年の神様である歳神様を迎えるためにつくられる。また同時に、鏡餅は、歳神様の依り代でもある。依り代とは、神霊が依りつく対象のことである。神はものに宿る。鏡餅には、歳神様が宿るのである。

歳神様はもともと五穀豊穣の神様であり、ひいては家族を守る神様とみなされるようになっていった。正月が終わると、鏡開き(鏡割り)が行われる。鏡餅は歳神様の依り代であって、歳神様の「魂」が宿っている。ゆえに「御歳魂」として、家族や縁者に食べさせるのである。歳神様のパワーを得て、一年を元気に過ごすためである。

したがって、かつてお年玉は、餅玉であった。これがどうやら高度経済成長期ごろになって、もっぱら子供たちに、餅の代わりにお金を配るようになっていったようである。この意味するところは、お金というものの価値が至高のものとなり、神様に置き換わったということである。あるいは物質的・経済的な豊かさが追求されるようになり、精神性についてはなおざりにされてきたということである。

ところで、この話には諸説ある。例えば、年神様へのお供え物が、挨拶まわりの手土産として用いられ、それがお年玉の起源となったという説である。たしかに関係なくはなさそうだが、しかし、それはむしろ年賀であろう。「賀」は祝うという意味であるから、年賀は「新年を祝う」という意味である。新年を祝うという目的と、歳神様の「魂」とは直接的な関わりはない。歳神様は「歳」すなわち「稲の実り」の神様である。だから、餅をこそ配るべきなのである。そうでない風習を起源とはいえない。

また続けて別の話をするならば、賀正はハッピーニューイヤーという意味である。だから年賀状で、目上の人には賀正と書いてはならない。そういう口の利き方をしてはいけないの。ちゃんとつつしみぶかく、「謹」を付け、「謹賀新年」と書かなければいけない。

ようするに、形式ばかりではいけないのである。そこには意味がある。そのために、形式がある。中身にこそ目を向け、意味のために行為しなければならないのである。

形だけのものに何の意味があるというのか

何ごとにも目的が存在する。目的を失い、形式だけを残そうということでは、必ず退廃していく。我が国では、経済、教育、あるいは政策など、様々な場面でこういったことがみられるように思う。まさしくそれらは、現代の病である。

たしかにお年玉をもらうことは、子供たちにとっては正月のうちで一番大切なことであろう。誕生日、クリスマスと並ぶ、ビッグイベントである。しかし、単にカネを配るという行為を繰り返すことによって、彼らに物質主義的な考えを植えつけてしまわないだろうか。物ばかりを追い求め、俗世的な欲求ばかりを充足させようとする習慣を身につけさせることにならないだろうか。

人は人生に何らかの意味づけを行いながら、生を営む。自らの行為を意味づけ、生み出すものを意味づけ、目的を意味づける。あるべきことのうちに自らを組み入れていく。そういった心のはたらき、精神の向きがなければ、人は自らの存在意義を見出だせなくなる。行為の先にあるものに目を向けることができなくなり、生きがいとか、自らにとっての幸せといったものに気づくことができなくなる。幸福ではなく、快楽のために生きるようになるのである。

お年玉をあげるなといっているのではない。子供たちに、ものを考える機会を提供せよ、といっているのである。なぜお年玉が存在するのか、正月には餅を食うのか、もともとの意味は何だったのかを考えさせなければならない。あるいはむしろ、この時代における意味づけと、それが正しいのかどうか、そのうちにあって自分はどのように振る舞うべきなのかを、考えさせなければならない。行為への意味づけを行う習慣、目的に目を向けさせる習慣を身に着けさせなければ、いずれ訪れる困難、タスクを乗り越えることなど、できないのである。

われわれは、形式主義を払拭しなければならない。物質主義を払拭しなければならない。もっと本当に意味のあるもの、価値のあるものは何かを考え、それを追求する習慣を身に着けなければならない。

SPEC&Company パートナー 皇學館大学 非常勤講師

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。多数の企業の顧問やフェローを務め、企業や団体への経営支援、新規事業開発等に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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