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現代人がフヌケな理由:心をもった人を育てる教育に向けて

遠藤司SPEC&Company パートナー 皇學館大学 非常勤講師
(写真:アフロ)

「腑抜け」という言葉がある。文字通り、ハラワタが抜けている状態のことである。

古来我が国では、腹のなかに人間の本当の心、魂があると意識されてきた。それをあらわにするために、腹を割って話すのである。よからぬことを企んでいる人は、腹黒いのである。怒りで我慢ができないときは、腹に据えかねるのである。

ゆえに武士がやる切腹は、本当の心をあらわにするために行われる。死ぬためではない。死は、切腹する人が苦痛から逃れ、面目を保つために、介錯人によって与えられる。武士というのはそれほど、ありのままであることを大切にしてきた。赤心、まごころをあらわにすることを心がけた。姑息とは正反対であろうとしてきたのである。「猛き武士はいずれも涙もろし」。

ところで「腹を割って話そう」と言ってくる人がいるが、こういった人をあまり信じてはならない。その人は、腹を割って話そうと言うことで、相手に「腹を割る」ことを要求しているのである。本当に腹を割って話すつもりであれば「腹を割って話すよ」であって、相手が腹を割るかどうかは関係ない。自分がやるかどうかであって、相手がどうかではないのである。

どうしてそういうことを言わないのか。本当は「腹を割る」つもりがないのである。あるいは、腹黒いから見せられないのである。つまり、相手には要求しても、自分はそれを行わないつもりなのである。腹のうちを見せてこない人、腹のうちを探ってくる人は、いざとなると逃げる。ゆえに信用してはならない。

しかし、もっとよろしくない人がいる。腹に何もない人、あらわにする心がない人である。これが腑抜けである。腑抜けには覚悟がない。覚悟とは、心を構えることであるから、心がないならば覚悟はできない。ゆえにその人は、何がしかのことを成すことができない。ようするに、道を切り拓くことはできないのである。

腑抜けをつくる教育

先に述べたように、覚悟をもつには、構えるための心が必要である。つまり心をある方向に指し向けること、心指し、志が必要である。

志とは、なりたい姿を思い浮かべることではない。サッカー選手になりたいとか、オリンピックで金メダルを獲りたいということではない。夢ではないのである。夢というのは、寝ているときに見るものである。つまり、現実のうちにあるものではない。だからそれだけでは、儚い。たよりない。

対して志は、現実のうちにあって行うものである。つまり、自らの達成させなければならないものを、心に決めることである。つまり決意に関わるのが、志である。「したい」「なりたい」ではなく「する」「なる」のが、志である。志があると、プロセスを選択できるようになる。

しかるに我が国の教育では、将来なりたいものを子供たちに問う。やると決めるもの、ならなければいけないもの、ではない。例えば、将来サッカー選手になりたいと言っている子供の思いのほうが尊重される。個性があることが大切だからである。なぜ、サッカー選手になりたいのか。それは何のためか。結果、どうなるのか。どうやっていくのか。それらが子供たちに問われることは、ほとんどない。

ようするに、学習の目的に目を向け、それを将来のために活かす姿勢が、子供たちには根付いていないのである。例えば、なぜ歴史を学ぶのかを理解している子供がどれだけいるだろうか。数学は何のために学ぶのか。国語も、理科も。あるいは英語は、「将来役に立つから」と捉えているかもしれない。または「グローバル化が求められているから」と答えるだろうか。では、その役に立つ英語は、その子供の将来にいかに貢献するのだろうか。それではスキルマンにはなれても、成長は遂げられない。

何のために生きているのかを考えていなければ、何を目指すのかはわからない。何を目指すのかがわからなければ、何を身につけるべきかを考えられない。何を身につけるのかを考えられなければ、何のために学校に来ているのかもわからない。したがって彼は、学校に嫌々ながら来ることになるのである。人生のうちに意味づけが出来ないままに、時間を費やしているのである。

これが現代人である。社会に出る前に、大人による何らかの働きかけによって、志を持つ者と、そうでない者が生まれる。これが本当の教育格差を生み出している。頭の良し悪しではない。志のあるなしが、現代人の質を左右している。学校教育における問題は、志の教育が明確になされていないことにある。

教師は多忙である。授業のほかに学校業務にも携わっていて、多くの教師が仕事に忙殺されている。それでは教師は、社会について学ぶことはできない。ゆえに教えられない。早急に彼らを解放し、様々な人生経験を積み上げられるようにしなければいけない。

目的を伴う教育を目指して

志の教育、目的的な教育は、以下の線に沿って進められる。人が終わりに向かってかたちを変えていくには、目的から始められなければならない。

1.目的

2.ビジョン

3.戦略

4.かたち

目的:何のために生きているのか

いかなる存在も、目的に向かって生きている。目的とは「~のために」ということである。人は社会に対して何らかの価値を示すことで存在意義を持つのだから、考えるべきは「誰それのために」とか「あれこれで困っている人のために」である。

ビジョン:それが成し遂げられる地点はどこか

目的が定まっても、実行が伴わなければいけない。しかし、どこを目指すのかが分からなければ、進むことはできない。ゴールはどこか。すなわち、目的が達成されたといえる地点はどこか。それはサッカー選手か。金メダルか。

戦略:何を身につけるのか

その姿を達成するために必要な要素は何か。手元に置かなければならないものは何か。身につけるべきものは何か。いま行われている教育は、自らのビジョンにおいて、いかなる意味があるのか。それをもって、いかに成長するのか。

かたち:変わるべき具体的な姿

目標には、最終的な目標、ゴールと、個々のやること、戦略における目標がある。最終的な姿かたちになるために、いまやることが定められる。そうであれば、いまやることを貫徹するために、いかなる姿かたちになるべきか。成長段階はどのレベルか。具体的にはいかなる変化を課すべきか。

何かを教える前に、心にはたらきかけて、心を差し向けさせなければならない。自分の存在意義とか、生きることの意味づけを行わなければならない。あるいは、生きることには意味があると言わなければならない。そういったはたらきかけなしに、「いまを生きればいい」などと言っているのは、逃げである。それでは子供の成長を先送りしているだけである。

すべての教育の目的は、人間の成長である。そのために、個々の学習がある。単に教えるのではなく、人生に意味のあることを教える体制が整えられなければならない。いま求められる教育は、人間としての心を育む教育である。

SPEC&Company パートナー 皇學館大学 非常勤講師

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。多数の企業の顧問やフェローを務め、企業や団体への経営支援、新規事業開発等に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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