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「フレッシュレモンになりたいのー」と「海賊王に、おれはなる」の違い

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(ペイレスイメージズ/アフロ)

ご存知のように、「フレッシュレモンになりたいのー」とは、NMB48の市川美織が使う名フレーズである。

この人はちょっとおかしい。将来は、レモンになって紅茶の上で浮かびたい、とのことだ。

しかし、こんなことを言っていて許されるのは、「みおりん」がすこぶるかわいいからである。たとえば筆者は将来ミュージシャンになりたいのだが、人前でそんなことを言えば、多分ぶっとばされる。しかるにみおりんは、ぶっとばされない。かわいいは正義である。だからレモンになりたいなどという与太事を言っても、許される。はっきりいうが、筆者はみおりんが大好きである。

そんなみおりんも、半年ほど前に、どうやら人間の道を選んだようだ。「脱レモン宣言」をし、レモンは好きではあるが、レモンになる夢については諦めたようである。

なぜみおりんのレモンになるという夢は叶わなかったのか。ここに、夢というものの性質をあらわす大きな理由があるように思われる。

海賊王に、おれはなる

ONE PIECEの主人公、モンキー・D・ルフィの旅は、「海賊王に、おれはなる」という「夢」から始まったといってよい。

ルフィは、幼少期に出会った海賊、シャンクスのようになりたかった。シャンクスは、赤髪海賊団の大頭であり、新世界を統べる4人の大海賊、四皇の一人である。

シャンクスは、ルフィの命を救っている。彼は普段、なんというか、酒ばっかり飲んでいるし、能天気な人だ。しかし、ひとつの基準を持っている。「どんな理由があろうと、俺は友達を傷つける奴は許さない! 」そういう人だから、ルフィが幼い頃、海に入ったルフィを助けるために、海獣に左腕を食われている。

ルフィの麦わら帽子は、シャンクスが預けた。「いつかきっと返しに来い」という言葉とともに。ルフィはシャンクスから大きく影響を受け、そしてシャンクスに憧れた。ついには、海賊王になるという夢を描くに至った。

しかし憧れだけでは、ルフィはみおりんと同じように夢を諦めるしかなくなるときがくるだろう。海賊という稼業はなかなか大変である。基本的に、夢というのは寝ているときに見るものであって、現実のうちにあるものではない。だからそれだけでは、儚い。ルフィが夢に向かって努力し続け、プロセスを辿ることができているのは、その夢の先に、諦めてはならない何かがあるからである。

フレッシュレモンに、おれはなる

キーワードは、「夢の果て」である。これはつまり、夢を達成した先にある、何かである。

ルフィの幼なじみであり、義兄弟であるエースは、海賊王ロジャーの息子にして、四皇の一人であるニューゲート率いる白ひげ海賊団の二番隊隊長である。ロジャーはシャンクスに、自身の麦わら帽を預けた。その帽子を、シャンクスが「ロジャー船長と同じことを言うガキ」であるルフィに託した格好になる。

ルフィは幼少の頃、エースと、もう一人の義兄弟であるサボの前で、自身の「夢の果て」を話している。内容は明らかにされていない。エースの反応は「お前は、何を言い出すかと思えば」であり、サボの反応は「あははは面白ェなルフィは、おれお前の未来が楽しみだ」であった。海賊王になることそれ自体ではなく、もっと先にある、呆れるような何かが、ここにあった。

エースは死ぬ。エースの求めていたものは、自らの名声だった。しかしエースは、本当に求めていたものが名声ではなかったことに気づいていた。「おれは生まれてきてもよかったのか、欲しかったのはその答え」だった。つまり、世の中における存在意義であった。これまで悔いのないようにと生きてきたエースは、最後に言う。「心残りは、お前の夢の果てを見れねェ事だ」と。そしてルフィに、お前なら必ずやれる、という言葉を残す。

人は何のために生き、何のために夢を叶えるのだろう。答えは、ここにあるように思う。海賊王になるという夢には、その先にある、なさねばならないことがあった。自らの達成させなければならないものを心に決めていた。それは、世の中に対してなす何か、である。果てを果たそうという心構えがあったのである。対して、フレッシュレモンになるという夢には、そういったものはみられない。ここにおいて、両者の違いが明らかになるように思われる。

みおりんがフレッシュレモンになれなかったのは、「夢の果て」がなかったからであろう。そうであるから「フレッシュレモンに、おれはなる」といった決意ではなく、「なりたい」夢として、儚く散ってしまったのである。

終わりを思い描くということ

とかく起業家は、起業をして成功することを目的にするところがある。しかし、その成功によって、この世の中はどのように変わるのだろうか。金を儲けてもいい。しかし、お金は「ありがとうの結果」として支払われる。夢を実現したとき、誰に、どのように感謝されて、金を儲けているのだろうか。その先には何があるのだろうか。

結局のところ、夢を描くということは、いまだそれが達成されることを保証しない。その夢を成し遂げた先にあるもの、誰かにとっての、何らかの価値があるからこそ、やり遂げる意志が生まれるのである。そのとき人は、社会における存在意義を見出だす。自らを肯定し、未来に向かうことが出来るようになるのである。

中世のある町の建築現場で3人の男がレンガを積んでいた。

そこを通りかかった人が、男たちに「何をしているのか?」と尋ねた。

1人目の男は「レンガを積んでいる」と答えた。

2人目の男は「食うために働いているのさ」と答えた。

3人目の男は「後世に残る町の大聖堂を造っているんだ」と答えた。

終わりを思い描くとともに、始まりはある。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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