Facebookのタイムライン制御に対する不信感

ソフトバンクが「Pepper」というロボットを出していた。

一応、かつてロボットで工学部の卒論を書いていたので、こういうのは気になる方なのだが、ロボットが「気持ち悪い」と言われてしまう要素にはいくつかある。

・人間と似すぎていて、でも微妙に違う部分

・上から目線になること。

かつて一緒に仕事をしていた、シーマンという音声認識でペットを買うゲームを作っていた斉藤由多加氏に、音声認識、人工知能をユーザーに受け入れさせるコツというのを聴いたことがある。

・シーマンという親しみやすく憎たらしいキャラで、人間が、シーマンに合わせて話すようにうまく仕向ける

という話だった。

つまり、ふてぶてしいキャラに合わせてしゃべるように持っていけば、システムに都合の良い用に人間の側が適応してくれる。

おお、確かにそうだ。僕もシーマンに理解してもらえるように話していたような気がする。少なくとも当時の認識技術、当時のドリームキャストというハード性能を加味しても、うまく作ったなぁと思う限りである。エンジニアだったら普通諦めてるだろう。実際、音声認識の研究者が話を聞きに来たそうだ。まさかのトリック。

昨日、こんなツイートを見かけた。

@fukken fukken 6月5日 ずっと昔にも書いたけど、ペットロボットのAIBOがそれほど流行らず、掃除しかできない(しかも割と無能)円盤型ロボットであるルンバが少なくとも日本ではペットのような扱いを受けてるのがSF的にとても興味深いし、多分この現象はロボット史に残る。

出典:https://twitter.com/fukken/status/474433064890671105

生活の中に入りこむロボットは人間の期待を超えすぎてはいけない。

ルンバは気がついたらスタックしているところが、愛されるべきドジっ子ロボットなのだ。多分、のび太であることを求められ、出来杉君ではダメなのではないだろうか。(どうなんだろう、わからないけど)

これも昔すぎて恐縮だが、海外ドラマ「ナイトライダー」のkitt (人工知能が搭載されて、自動運転も可能。全然壊れなくて、加速なしでジャンプできるスーパーな車)は、マイケルを常に支える立場だった。非常にクールで賢い人工知能なのだが、人との付き合いについては都合が良いぐらい人間に都合が良かった(ドラマですしね)

おっと本題はそこではなくて、最近、Facebook、あぁダメだなぁと思っている、という話だ。

Facebookの仕様は常に変わるので、数カ月後にこの記事が通用するかはわからないが、最近Facebookのタイムラインは、僕の知らない誰かに制御されている感がすごく強い。

「最近、僕のタイムラインで見かけないけど、あの人、FBやめちゃったのかなぁ!?」

と思い、その人のタイムラインを見に行ったら、今日も普通に書き込みをしていた。

もしかしたら画面を頑張って追えば表示されているのかもしれないけど、他の人の書き込みのほうが優先度高く表示されている。

あぁ、このSNSダメだな、って思った。

ここに情報を書くのが無駄すぎる。

僕が書いた話題も、他の人は表示されずに闇に葬られているのだろう。まぁ読みたくないと思われている人のタイムラインを汚さないなら、発信側としては良いのだが、もしかしたら、「こいつウゼーな」と思われて、その人のタイムラインから非表示になっているだけかもしれない。

問題は、その判別が全くできないことだ。

ツイッターの場合は、基本的にすべてが時系列にツイートが並んでしまうので、現実的に見ることができるツイート量に限りがある。

もう少し詳しく言うと、「その人がツイッターを開いた時間」から、「その人が閲覧可能なツイート数」をさかのぼった数しか閲覧することはできない。だから、例えば1日1回だけツイッターにアクセスする人が、1時間分だけタイムラインをさかのぼることができたら、残り23時間分のツイートは閲覧されずに流れていく。せいぜいRTで再配信許可されたものが表示されるかもしれない。(それがツイッターにとってのRTの価値である)

これはこれで難しい問題を持っているが、Twitterの「自分が見ないから仕方ない。もしかしたら24時間たどれば見えるかもしれない」という状態と、Facebookの「タイムラインを見ているだけでは、永遠にその「友達」の書き込みにはたどり着くことはない」という概念は全然違う。

前者は、ユーザー側の責任に丸投げされているが、今のFacebookのそれは、すごく操作されている感がある。冒頭のロボットで言うなら、ロボットの都合で、人間が制御されている感じが見えてしまって非常に不快に思っている。

僕は、機械に情報を操作されることを極端に嫌がる傾向があるようだ。

昔、多くの人が熱狂したダービースタリオンという競馬ゲームがあったが、例えば菊花賞であればレースを見終わるまでに3分程度の時間がかかる。

実際の競馬であれば、目の前の事実は何が起きるかわからないという意外性があって、それこそがドラマと言えるわけだが、競馬ゲームであれば、実はコンピュータは3分先の事を先に知ることは不可能ではない。結論にあわせて、どう人間を楽しませるか!?というアニメーション制御をすることこそがゲームというコンピュータプログラムの仕事だろう。実際はそういうプログラムになってないかもしれないが、乱数の条件が固定されていれば、再現可能な意外性のないストーリーになっているハズだ。

そこで人間だけが、のうのうと3分間、事の推移を興奮してい見ている。コンピュータにとっては既にスタートした瞬間にゴールが決まっている筋書きが決まったドラマを、人間だけがバカみたいに興奮して見ている、という構図がすごく嫌いである。

つまり、ある種の筋書きは、ゲームというルールの中で、変えられない運命として決まっているということだ。そこに対する人間の裁量とは、ゲーム性という枠組みの中に全てが抑えこまれている。

それと似たように、Facebook上のユーザー間の関係には何がしかのランキングというものを持っていて、コメントや、いいねした数や、同じ会社、同じ学歴の人を優先的に表示するようにして、一見、無関係のように見える人の書き込みは軽視している。

しかし所詮Facebook上の人間関係など、一部情報の投影でしかない。実は、すごくお世話になった人の書き込みがFacebookの制御によって表示されないという状況に気がついた時に、ものすごい苛立ちを感じる。

少なくとも僕の人生の人間関係はFacebook上で閲覧可能な情報だけで決められるものではないし、決められたくもない。僕の目線の制御はFacebookがトラッキングできるわけではない。

タイムラインをスクロールしている時に、こちらが判断している価値が測れないなら、彼らが持っている情報だけで序列をつけられても、的外れになる可能性は否めない。

とはいえ、Facebookがこういった取り組みをする理由はわかる。そもそもはスパム対策だと思うが、やっぱり人間が1日にアクセス可能な情報に限りがある。人生というスレッドを友達の人数分並べると、大切な情報が埋もれてしまう人が沢山出てくるからだ。だから価値の高い情報だけを表示してあげよう、という理屈はすごくよく分かる。

が、理屈はわかる、というのと、ユーザとして心地良いと思うかは別の話。人間は「友だち登録」しているのであれば、全部の情報を見たいと思うのは人情だと思う。ニーズと現実の差異が、このような感覚の差を生んでいることは重々承知だ。

最近、SNSの限界ってのをものすごく意識するようになった。正確には、僕が個人的に望んでないフィルタリングされた情報の羅列に対し、可処分時間を費やすに値する場所なのか!?について考えるようになった、が正しいか。ただの感情論である。

しかし、そう思うきっかけは、僕らのような昔の「社会のマイノリティ」としてのインターネット(パソコン通信)に親しんできた層ではなく、デジタルネイティブ層と言われる、子供の頃から今のインターネットがあった層のネットの付き合い方を見た時だ。

彼らは、ネットに対する情報露出については、強い制約を感じている人が多いようだ。今の20歳前後の人たちにサービスを提供する時の方法論としては、「シェアが当たり前」として触れるべきというのがあるのだが、実は、そのシェアが当たり前には条件がいくつかある。

・「シェアする相手を意識している」

・「シェアする理由が必要」

僕のようにネットが存在してみんなと繋がってること自体に喜びを感じるわけではない。何故ならそれがあたりまえだから。なんでもかんでも、あらゆるSNSに共有することはない。

結果的にFacebookは、ポジショントークとしてドヤ顔の記事が集中することになる。それは「ドヤ顔をしたい」のではなくて、「ドヤ顔できる話題の時にしか書けない」ということなのだと。僕は、こうやって記事を書くことも含めて、ドヤ顔だろうが自信がなかろうが、書くことに慣れてしまったので、厚顔無恥にネットに情報を晒すことにあまり抵抗感はない。

そう考えた時に、あぁ少なくとも「SNSがすべて」だなんてことはありえなく、「1つのウェブサイトがカバー可能」な範囲は常に限られている、ということに改めて気が付かされた。昔、Facebookが「レイヤー8」として君臨するのではないか!?と思われていたが、全然無理。

なんとなくインターネットというかネットワークに多大な期待をして今まで来たが、薄々感じていた「人生に寄与できるネットワーク」とはなんなのか!?について改めて考え始めている。

まぁどっちにせよ、世の中は商品性にエッジの効いたウェブサービスしか受け入れられないので、テーマが決まっているか、140文字しか書けないか、友達がいつもいる、という状況のどれかぐらいしか手がなくて、その1つである「友達がいつもいる」という、その時代、その時代で特別な地位のSNSであるFacebookがこのような状況になっているのであれば、ある意味、新しいサービスにとってはツッコミどころなのかもしれないな、と思っている今日このごろではある。もちろん改めてmixiに戻るという選択肢もあるだろう。

(とLINEの話をスルーして書いてごめん。LINEはクローズドすぎてこういう話書けない)

なので最近ツイッターにまた戻ってきた。はてさて「オープンにネットで人と情報共有したい」というニーズを最大限に楽しませてくれる世界はどうなっていくのだろうか。

p.s.昨晩はよっぱらった勢いで書いたので多数の文章の不備がありましたので、追記修正しました。修正したあげく、言いたいことがわかりにくなっていたらすいません。

p.s.2.はてブコメントに、Google検索結果だって同じじゃん、ということを書かれている人がいましたが。鋭いですね。その通りだと思います。この話の先には、昨今のバイラルメディアやSEO対策の必要性というものがビジネスとして存在しているわけです。ただ、ビジネスとしての検索エンジン最適化と、友達付き合いの投影は価値が違うわけです。