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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第1回 目次 まえがき

藤井誠二ノンフィクションライター

藤井誠二です。大阪市立桜宮高等学校でおきた生徒自殺事件を契機に、あらためて世間の注目を浴びている体罰問題。多くの方から拙著「暴力の学校 倒錯の街 ―福岡近畿大付属女子高校殺人事件―」(1998年11月刊行)の公開希望が寄せられましたので、本日よりyahoo!個人で連載形式で公開します。

暴力の学校 倒錯の街
暴力の学校 倒錯の街

本書は一九九八年十一月、雲母書房より刊行された。

目次

1章 事件発生

不穏な電話懸命の蘇生治療走り書きされたカルテ脳に出血がある!途絶した人生知美の学園生活悲劇の序章証言の温度差空白の記憶「暴行」の細部養護教諭の対応警察の事情聴取

2章 体罰死

司法解剖の苦痛「知美を返せ!」体罰の実態「学校再生委員会」と「体罰防止委員会」初公判誹誇中傷のスタート

3章 噂の孵化

噂のルーツを求めて(1)噂のルーツを求めて(2)嘆願署名の中心人物一五○人の署名員一体化するデマと署名運動もう一つの運動拠点学校観の同質性

4章 暴力の学校

貧しい「指導」の記録高校の沿革日常生活の管理生徒指導の実態校長の体罰否定論連鎖する体罰「あの先生は異常ばい!」「善意」をまとった暴力加害者の「教育観」

5章 噂の培養基

教え子からの手紙先生は善・生徒は悪倒錯の街証人尋問「学校に責任はない」「進化」する記憶"懲役二年″の実刑判決

6章 控訴審

「控訴趣意書」の奇妙な論理控訴棄却の前後一周忌の追悼式改ざんされた追悼文生徒たちの生の声生死を分けた四○分

7章 噂の深部

「噂」の成長/病院関係者の証言

8章 追悼

不意の訪問者/「死を忘れない」ネットワーク/手紙の受取拒否/心からの謝罪を

あとがき

文庫版あとがき

解説 吉岡忍

まえがき

私は小学校から高校時代を通じて、幾度か教員から体罰を「ふるわれた」記憶がある。そのすべては覚えていないが、中学時代に体育教員から受けた体罰がもっともひどいものだった。たんこぶができるほどの力で頭部を殴られたり、頬をひっぱたかれ奥歯がかみ合わなくなったこともある。叩かれる理由は、体育館からの退去が遅いとか、制服が校則に違反しているというものだった。それでも、当時は「悪いことをしたから叩かれるんだ」と自分を納得させていた。しかし教員の分厚い掌が飛んできたり、小岩のような拳骨が落ちてきたとき、恐怖と屈辱で身体中が熱くなった感覚はいまでも覚えている。

高校を卒業した翌年、岐阜県立岐陽高校の二年生だった高橋利尚が、修学旅行中に担任教員の体罰を受けて死亡するという事件が起きた。利尚が叱責を受けた理由は、使用を禁止されていたヘアドライヤーを使っていたことだった。

私は当時、愛知県の実家で暮らしていたが、近隣の県で起きた事件であること、そして同世代が教員に殺されたことに大きなショックを受けた。利尚は私だったかもしれない、という思いがついて離れなかった。

電車とバスを乗り継ぎ、私は利尚の家を何度も訪ね、また、事件発生地であり刑事公判が開かれた茨城県にある水戸地裁土浦支部にもできうる限り通った。当時私は、いまは廃刊になったミニコミ雑誌に次のような小文を書いている。

(前略)利尚くんの墓は、妹の真由美ちゃんが通う岐北中学校を奥にはいったところにある。小高い山のすそ野に小ぢんまりと並ぶ霊園である。墓は当然ながら、真新しい。その新しさは、若くして逝った利尚くんと重なるようで痛々しい。

美智子さん(利尚の母親)は、毎日ここに来て、墓を清め、花を供え、手を合わせる。美智子さんと谷上さん(利尚の祖母)は、水を汲み、墓を手で清めている。寒い。手は真っ赤である。が、ふたりは何度も何度も墓に水をかけている。なでるように、愛撫するように。ちょうど小さな子どもの頭をなでなでする感じである。

「くやしいねえ、くやしいねえ」

谷上さんの声は誰もいない霊園ににぶく響く。

美智子さんは、「トシくん、トシくん……」と大声で泣いて、墓を見つめたままだ。

「寒いだろうに、寒いだろうに。こんなところでひとりぼっちでねえ。トシくん、石になってしまって」

ぼくも、さきほどからずっと墓を見つめている。

「利尚は、きれい好きやったもんだから、きれいにしたらんと……」

美智子さんは這いつくばるようにして墓のまわりに落ちている枯れ葉を集めている。それでも、冬の冷たい風は容赦なく枯れ葉を運んできた。(後略)

こんな調子で、遺族の悲しみの描写が連続していくだけの文章である。ただ遺族の元に通い、ぼそぼそと話をすることしかできなかった十九歳の私は、自身の無力さに苛立ちながら、海原にポツンと取り残された孤島のような遺族の姿を書き記すことしかできなかった。体罰を公然と内包する学校がどす黒い悪意の塊に見え、それに対し激しい憎悪の念をため込んだ。なお、この事件については、公判でもよく顔を合わせたルポライターの塚本有美が後年になって、『あがないの時間割』という秀逸なルポルタージュにまとめている。

福岡県飯塚市にある近畿大学付属女子高校(現・近畿大学附属福岡高等学校)で、教員の体罰による犠牲者がでたのは、それから十年後のことである。その間、教員の体罰事件はひきもきらなかったが、死者が出たと聞いたとき、私は瞬時にして、十九歳のときに引き戻され、何かに背中を押されるようにして、飯塚市を訪ねた。事件は、想像もできないような展開を見せていた。私は、以来三年近く頻繁にこの土地を訪れ、町を歩き回った。

この本はその「想像もできないような展開」を記録することに多くのページを割いている。この本の登場人物は、被害者と加害者、加害者が属していた学校の関係者などだが、その何名かを実名とした。それは、私立とはいえ、学校の教員という公的な人間が起こした周知の著名な事件であり、ありのままを記録することに社会的意義があると信じるからである。またその他の重要な登場人物に、被害者側のサポート連動を立ち上げた佐田服信らがいる。佐田は、事件直後から被害者側である陣内家を支える運動を展開、孤立無援に等しい状況に追い込まれた陣内家にとって、唯一ともいうべき相談者となる。

事件直後の一九九五年十月に、佐田らは「陣内知美さんの死を忘れない飯塚集会」をひらき、「陣内さん支援ネットワーク」を発足させる。そして、知美さんを殴り殺した教員の刑事公判を傍聴し続け、体罰を根絶する主旨の署名を集め、文部省(現・文部科学省)と近畿大学総長に提出する。そして、翌九六年七月には一周忌の集会をひらき、同年九月末には、「ネットワーク」を発展的に解消、「陣内知美さんの死を忘れない追悼集会実行委員会」を旗揚げする。以来、命日に近接した日に、九七年、九八年と追悼集会を遺族の参加を得て開催してきた。私も九七年から参加させてもらっている。

なお、本文中登場人物の敬称は省略させていただいた。ご了解願いたい。

この本を、十六歳で人生を絶たれた故陣内知美さんと、筑豊で生まれ育ち、九七年十一月に四十三歳で急逝した福廣洋子さんに捧げる。

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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