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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第14回 2章・体罰死 司法解剖の苦痛

藤井誠二ノンフィクションライター

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第2章・体罰死 司法解剖の苦痛

死線をさまよう娘の回復を祈りなから、陣内元春か飯塚病院内で読んだ新聞は、七月十八日付の朝刊である。娘がなぜそうなったかを、当事者からではなく新聞で知ることになるとは、山近校長はじめ学校側の不誠実さはきわまりないといえる。知美が救急車で運ばれた数時間後には報道陣も学校に押しかけているが、校長は「今後どうすればいいか、まだわかりません」と答えるにとどまっている。体罰については触れずじまいであった。

知美が他界したその日、七月十八日は、仮通夜となった。

知美の亡骸は陣内家の玄関を入って右奥の八畳の居間に安置された。棺の上には、知美が愛用していた手作りの青いエプロンと、幼いころの写真数葉。

「夕方、学校の校長以下五人、校長と副校長と教頭、担任と一年生のときの女の先生が来ましたが、生徒たちから野次られていました。先生たちには「知美を返せ!」と言いよったな。マスコミも「帰れ!」と言われよったみたいですね。(知美が安置されている)ここの部屋に入ったかどうか、先生たちがお参りをしたかどうか、よく覚えてないんだけど、向こうの部屋で話したことは覚えているんです。どんな話をしたのかは、よく覚えてないですね。校長かブツブツと何か言いよったことは覚えとるんですが、他の先生たちは一言もなかった。ただ頭を下げとるだけでした」(元春)

仮通夜のとき、知美の同級生たちが、弔問にきた山近校長らに対し、「死んでからじゃ遅い!知美は帰ってこんとよ!帰れ!」と泣き叫ぶように言葉を投げつけるなど、陣内家は騒然とした。

約五分で陣内家から出てきた校長はうつむいたまま、記者団の質問に対し、「申し訳ない、と。それ以上言葉になりませんでした」とのみ答えた。学校に戻ってからも記者会見をひらいたが、「生徒を失い断腸の思いです。体罰については残念の一言につきます。再発防止につとめたい」と話すにとどまった。

その夜、親類は全員、遺体の側で雑魚寝をした。

翌七月十九日には、陣内知美死亡のニュースが全国に流れる。

この日、飯塚署は知美死亡を受けて、宮本の容疑を傷害致死に切り替え、福岡地検飯塚支部に送検した。そして、いったん自宅に返していた知美の遺体を預かり、司法解剖をおこなっている。

「私が病院にいるときに『司法解剖せないかんちゅうことを、予め言うとかんといかんから』ちゅうことを、親類の者から言われてたんです。私は『もうしなくていい』ちゅうたわけですよ。もう死んでしまったことはわかっちょるわ、ちゅうて。ただ、事件になっとるから火葬はできないちゅうわけですよ。そんならしょうかないですよね」(元春)

場所は北九州市の産業医科大で、警察が葬儀社の霊柩車で運んだ。家を出たのは、朝の八時か九時ごろだったと元春は記憶している。元春の妹はいっしょに霊枢車に乗ったが、母親の明美はすすり泣きながら、霊柩車を見送った。叔父たちは北九州に住んでいるため、まっすぐ医科大に向かった。元春は「大事な娘が死んでから切り刻まれる」苦痛に耐えなければならなかった。

解剖を担当する係官が、「髪を剃りますので、念のためお知らせしておきます」と告げた。

「私は、髪の毛まで剃りたくないと思ったんだけど、解剖は剃らんとできんから、と。待合室で叔父たちと待ったんです。その叔父の娘が看護婦をやってるんです。病院の見習いをやりおったときに、解剖室にいたことあるんです。前々から、身内がこんなことになったら、解剖はするもんじゃないよって言いよったらしい。解剖の状況を知ってるわけですよ。私も辛かったです。テレビの特番で解剖の状況を放送されたのを見たことがあった。あれを娘が受けていると思うと、辛かったですね。けれど仕方がない状況やったから……」

二時ごろに終わる予定が三時近くまでかかった。遺体を再び受け取ると、立ち会いの飯塚署の警察官が「報告書は司法のほうに行ってます。死因などは後で正式に報告があると思います」と伝えた。報告書の内容は聞けなかった。

解剖が終わり、ビニール袋に入れられた娘の髪を元春は受け取り、帰りのクルマの中で感極まってそのビニール袋を自分の懐に入れた。

「そのあと、家には帰ってこないで、そのまま葬儀場に行きました。本当は知美を家に連れて帰りたかったが、どうしてそうしたかというと、親類の者を家から出したいと思うとったんですよ。自宅でやったら葬儀をさばききれんなと思ったんです。それで、葬儀場で(通夜を)せんと仕方ないなちゅうて、運ぶようにしたんです。とにかく、知美の友だちがたくさん詰めかけていて、二○○人ぐらいは来ていました。親類から知人から、みんなニュースを聞いたみたいで、次々と駆けつけてこられました」

この日、学校は静まり返っていた。知美の友人たちは登校すると、知美の座っていた二年一組の机にマジックペンで寄せ書きをはじめ、「みんなで遊んだこと忘れるなよ」「トモミ愛してるよ」「天国に行っても明るく楽しい知美でいてね」といったメッセージがびっしりと書き込まれた。机上には知美の好物だったジュースや菓子、お供えの花が友人たちの手によって置かれた。小さな祭壇が教室に生まれた。

朝八時半のホームルームはこの机に合掌することから始まった。

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ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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