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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第20回 3章・噂の孵化 噂のルーツを求めて (1)

藤井誠二ノンフィクションライター

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3章・噂の孵化 噂のルーツを求めて

博多から東にのびるJR篠栗線は、桂川で筑豊本線に接続する。筑豊本線はそこから北九州の若松へ向かって北北東に上がっていく。

新飯塚駅にまだ陽のあるうちに降り立つと、三つこぶラクダの背中のようなボタ山が視界に入る。季節や時間帯によって容姿を変化させるその三つこぶは、この土地が炭産地だったことを物語っている。一九六○年代に入って、日本のエネルギーの主軸が、かつては「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭から石油にとって変わったのと運命を同じくするように、石炭産業で隆盛を極めた飯塚を含めた筑豊一帯は急速に活気を失っていった。緑に覆われた三つこぶはその象徴ともいえる。

そんな旧炭産地の一つである直方市。市内の団地に住む専業主婦A子宅を、同じ団地内で親しくしている一人の女性が訪ねてきたのは、一九九五年の夏のある日のことだった。A子にとってその女性は、団地内で親しくしている数少ない、いわば「ご近所さん」のひとり。知り合ったのは、共に加盟している生協運動を通じてだった。その女性は夕食の準備をしていたA子に、署名用紙を差し出し、署名をしてくれるように頼んだ。

その署名はその年(九五年)の七月十七日、隣接する飯塚市にある近畿大学附属女子高校の二年生だった陣内知美に体罰をふるい死にいたらしめた、知美の学級副担任・宮本煌への「寛大な処分」を福岡地方裁判所に求めるためのものだった。

A子が、どうして署名活動をしているのか質問すると、その女性が勤めている会社の社長の関係者が近大附属に関係があるとのことだった。

「社長の娘が近大に通っているとか、社長の兄弟が近大の教師だとか、そういうはっきりしない言い方をしたんです。ようするにその方はよくわかっていなくて、社長の指示で署名活動に協力していたんです」(A子)

宮本被告とは直接的には何のつながりもないその女性は、署名用紙を差し出しながらA子にこんなことを言うのだった。

「この子はシンナーを吸って、入れ墨をしたワルイ子だったんですってね。先生が注意してポンと押しただけでそうなったんですよ。かわいそうだけど死んでしまったから、しょうがないじゃないですか。宮本先生も運が悪かったんです。先生がかわいそうだから、署名してもらえませんか」

普通だったら亡くなった人の側が署名運動をするはずなのに、とA子はいぶかしく思った。それに当時、A子の子どもが登校拒否を始めたばかりで、そのことをきちんと受け止めてくれない「学校の先生」にいい印象を持てないでいた。「エッ?先生にするの?」と抵抗感がわいた。女性か殺された側の生徒の悪口を言うのもひっかかった。

「気がすすみませんでしたが、署名欄には私の知り合いの名前もありましたし、近所付き合いも考え、その人の顔を立てようと思い、署名しました」とA子。

その女性は家族全員の名前が欲しいとねばったが、他の署名ならいざ知らず、この嘆願署名は違和感が拭いきれなかったのできっぱり断った。

「それから一週間ほどして、その人が『署名をお願いして悪かったですね』とお礼を言いにきました。私以外の、署名を頼んだ人のところにも行かれたようです。そのあと、原発の危険性を訴える署名がまわってきたんですが、署名というものは、もっと深く考えてからするものだと反省させられました。署名がいやならば、いやとはっきり言うべきだったと今は思っています」

大がかりで組織的な「宮本教諭に対する寛大な処分をもとめる嘆願署名」運動を起こしたのは、宮本の元同僚や、宮本が顧問をしていた卓球部の教え子たちである。署名用紙は関係者の手から地縁・血縁をつたい、A子宅をおとずれた女性のように、宮本や近大附属とは何の関係もない人物まで動員し、草の根的に浸透していった。

同時に、知美本人や陣内家に対する悪質なデマや噂は飯塚市内を越え、福岡県一帯を飛び交う。A子宅をおとずれた女性が、まことしやかに吹聴した「(知美)はシンナーを吸って、入れ墨をしていた」というのもこの噂の一種である。この女性は宮本や近大附属とは何の関係もないし、いわんや知美を知るはずもないのだから、誰かからこの噂を吹き込まれているとしか考えられない。

先に紹介したように、事件直後から、知美の遺族のところには嫌がらせの電話や手紙が相次ぎ、果ては知美や遺族を冒とくするデマや誹謗中傷、噂が猛スピードで飛び交っていく。地域で孤立無援に等しい状態に追いやられた遺族は、事件から一ヵ月後、次のようなメッセージを記者会見の席で地元マスコミに託さざるを得なかった。

「このたびの娘の体罰死事件に対し数々の御厚情本当にありがとうございます。

葬儀からはやひと月がすぎようとしている今、娘や回りの友達への中傷。有もしない私達の行動等のデマがとび、私達の耳に入り、非常にいきどおりを感じ、デマを聞いた人達の勘違いを回避したく、又、デマを出す人達は、一寸、この不幸を自分の身にふりかえて考えていただきたく、ここに訴える次第です。娘が亡くなる一週間位前の写真がカメラに入ったままのものが有り、数日前に現像したものですが、娘はごく普迎の女子高生だったと信じて居ります。

私達は前代未聞の理不尽な形でたった一人の娘を亡くしこの悲嘆を死ぬまでせおって生きていかねばなりません。私達はこの上の痛みをどうして受けなければならないのでしょうか」

いったい、どこの誰が死者を踏みつけるデマをながしているのか。私は、そのデマや噂の系譜をたどるべく、飯塚市やその周辺地域を歩きまわった。噂を聞いた人に会い、その人がどんな類の噂を聞き、それを誰から伝えられたのかを教えてもらう。そして、その人に噂を吹聴した人を探し出し、また同じ質間をする――そんな取材を繰り返した。誰からその噂を聞いたのか、何を根拠にその噂を信じたのか。あるいは嘘とわかりながらも、宮本の刑事裁判に有利に働くならばと恣意的に伝播させたのか。知美の魂を足蹴にした者をつきとめたいという一心で、私は歩いた。

飯塚市にある日蓮宗の寺、正遠寺の桃崎英継住職が、檀家から知美についての噂を聞かされたのは、やはり事件直後のことである。

陣内家は知美の祖父の代から、正遠寺の檀家である。だから、桃崎住職は知美とは小学校のころからの付き合いだ。

「私は昔から知美ちゃんを知っていて、近大附属に合格したときもお祝いを言ったら、制服を着て『かわいいでしょ、お上人さん』とクルッとターンして見せてくれたような無邪気な子だったんです」

正遠寺は飯塚市内をはじめ福岡県一帯まで、一○○戸少しの檀家を抱えているが、桃崎住職は月に一回、すべての檀家をまわりお経をあげている。事件の直後、半分以上の檀家から次のようなことを聞かされた。地域にすれば、飯塚市、嘉穂郡、福岡市、北九州市にまでおよんだ。

「お上人さん、知ってますか。あの子は悪かったらしいですね。茶髪でピアスをしていたんですってねえ」

「シンナーの常習者だったんですね」

「入れ墨をして、ひどい子だったというじゃありませんか」

中には、「ミニスカート」や「ポケベル」を持ち出し、「不良の証拠」として知美をあげつらう人までいた。さらに、入れ墨は、左腕、胸、腿に入れていたと具体的に言う人まであらわれる始末で、桃崎住職は仰天した。

住職はとっさに聞き返す。「あなた、それを見たんですか?」

「そうすると、「いや聞きました」とみなさん答えられるんです。「みんな言ってますよ」と。それはデマでしょう、と私が否定すると、「本当です」と言い返され口論みたいになる。そのとき、必ず出てきた言葉が、「先生もかわいそうだ」。みなさん宮本先生に同情されてるんですね」

ミニスカートは今の高校生にとっては常識で、とくに不良というレッテルを貼ることはできない。そして、知美ちゃんの裸を見たことはないが、入れ墨やシンナーはやっているはずがないと思う――などと桃崎住職は抗弁した。

「ぜったいに茶髪ではない、とは断言しました。なぜ、私が茶髪でないと断言できるかというと、病院で司法解剖されて、髪の毛を剃って、その髪の毛がビニール袋の中に入れてあったんです。お通夜の晩に、お父さんがその髪を一生持ちたい、知美として持ちたいと言われるんです。でもね、そんなことしなさんなと私は言ったんです。やはり、お棺の中にいっしょに入れてあげなさい、と。お兄ちゃんも、ぼくもそう思う、と言っていました。ですから、私が第三者として最後にその黒髪を見た人間なんです。だから、茶髪だったという噂が出たときに、「ああ、あれをそのまま残しておけばよかったな」と思ったぐらいなんです。悲しいかな、それが一番の証拠ですから」

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ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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