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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第25回 もう一つの運動拠点

藤井誠二ノンフィクションライター

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もう一つの運動拠点

A子の話や桃崎住職の話からも、署名活動とデマの伝達が一体になってなされていたことは、もはや否定のしょうがない事実であるといえる。井上は私の取材に対して次のように答えている。

「署名活動は私ひとりがやっていたわけではないし、中心的に動いたと言われるのは誤解です。陣内知美さんについてデマがとんでいることは地域などで耳に入っていましたが、大半は信用するに値しないものだと思います。署名用紙を持っていった人がそれを流したといわれることについては否定します」

――しかし、取材の結果、署名活動をした人たちが噂を運んでいったのは事実です。

「署名通勤をやろうと集まったとき、陣内さんを誹謗して署名をもらっては絶対にいけないと話し合いましたし、ぼくも言いました。それが一○○パーセントは守られなかったという懸念はありますが、ほんの一握りの人がやったかもしれないことと署名運動を同一視されるのは困ります」

――宮本さんを知らない人まで動員されたのが一つの原因ではないですか。

「宮本先生に関係ない人が動いたということはない。むしろ、あなたの言われる『署名運動をやった人間がデマを流していった』ということ自体がデマの一つなのではないですか」

井上の目の届かないところで自然発生的にデマか生まれて広がっていったというのだろうか。

私は、井上とともに署名活動の起点となって行動した、近大附属卓球部OGに会った。名前をB子としよう。一九五二年生まれで、一九六七年に入学した彼女は、卓球部で宮本に教わった第一期生である。B子をいれて三人の一期生は、当初から井上とは別に後輩らを召集、宮本の嘆願署名運動を起こしている。井上が公判のなかで、署名の集約場所として三カ所を挙げたが、そのうちの一つがB子の経営する店だ。

私は新飯塚駅にほど近いB子の店を訪ね、B子の抱いている宮本像から、署名運動を起こす動機までをつぶさに聞いていった。そこから、知美や遺族に対するデマとの関係が探れるかもしれないと思ったからである。

B子は仕事の手を休めずに私の質問に答え、お客が来店すると席を立ち接客した。録音テープをまわすことは拒否された。

――宮本被告が赴任してきたのはいつですか。

「私が高校二年のとき、宮本先生が赴任してきました。当時は普通科のみで、七、八クラスありました。私は中学時代から卓球をしていましたが、高校二年のとき、宮本先生が卓球部の指導を始めたことで知り合いました。宮本先生が来るまでは、遊びみたいな部で、大会で勝とうというわけではありませんでした。教える人もいなかった。当時、部には私もふくめて三人ほど中学時代から卓球を体験していた生徒がいましたが、宮本先生が指導をするようになってから半年で、嘉飯山地区で三位になりました。三位までは県大会に行くことができました。

体罰は宮本先生に指導された二年間は、一度もなかった。だから、事件のニュースを聞いたときは、よほどのことがあったのだろうと思いました。

子どもは二人とも宮本先生にお世話になっています。事件のとき、子どもは近大附属の三年生でした。男の子は中学に入ったときから中三まで、夏休みは近大附属に通わせて卓球を宮本先生に教わっていました。嘉飯山地区で、卓球をしている子どもは、ほとんどが宮本先生に教わっていて、たくさんの子どもたちが各学校から近大附属に練習に行っています。私をふくめた初期のころのメンバーは、夏休み中には差し入れをしたりしていました」

――裁判には通っていたのですか。

「ずっと通っていました。一審から、控訴審の判決まで通いました。宮本先生が拘置所にいるときは、三級下ぐらいまで、十五人ぐらいの卒業生が交代で面会にいきました。二つ下の卒業生は証人としても出廷しています。

亡くなった子は本当にかわいそうだと思います。当時は、宮本先生は手をあげることがなかったから、気が短くなったのかな、と思いました。事件の次の日、同期だけ五~六人が集まりましたが、その中には子どもを近大附属に通わせている同級生もいました。私たちはどうしたらいいだろう、と心配し、七月二六日に同期三人で飯塚署に面会に行って、先生、気をしっかりもって、と励ましました。そのとき、宮本先生は陣内さんが亡くなったことを聞いた直後だったらしく、ただ涙を流すだけでした。七月三○日には、卓球部の名簿を見て電話をかけあって、前年に卒業した子まで合わせて五、六○人が集まりました」

――どんな署名運勤を展開したのですか。

「私の店の近くに住んでいる、いま二七、八歳の卒業生が来てくれて、署名用紙を持っていきました。その卒業生が言うには、宮本先生のおかげで卒業できた、だから恩返しで署名を集めたいと言っていました。学校の中でも嘆願署名運動が起きたのですが、学校が禁止したので、その子の母親たちが代わりに集めて持ってきてくれたこともありました」

――陣内さんについてのデマか飛んでいることば知っていましたか。

「父親が入れ墨をしているという噂があるということは(筆者から)初めて聞きました。しかし、いろんな人から、知美さん本人が入れ墨をしていたとは聞いたことがあります。そんなことはどうでもいいのです。子どもには、ワルイ時期もありますから。でも、宮本先生が何もしてない子を殴ったりしたら、私たちも運動はしなかったと思います。でも、ああいう状況だったら、先生も人間なんだから、カッとくるでしょう。体罰が法律で禁止されていることはこの裁判で初めて知りました。昔も今も生徒は叩かれていたから、悪いことをしたら叩かれるのは当たり前だと思っていました」

――私が調査したところ、明らかに署名運動とデマは一体化しています。

「悪口を言って署名を集めることはしていません。でも、逆にあの子はいい子やったんよ、というのは聞かないでしよ。まじめな子が、そんなふうに先生を挑発しますか。注意されたら、黙って教室を出ていくでしょう。そんな子がいる?ニュースで『知美を返せ』と同級生の子たちが叫んでいるところを見たけれど、ああいう子たちを指導するのも大変だと思う。まあ、宮本先生と陣内知美さんの関係を知らない私たちが言っちゃいけないわよね」

――陣内さんは心を痛められています。

「集まったときは、陣内さんの悪口は言わないようにしようと話したんです。事件のことだけ説明して、署名をもらおうと。でも、陣内さんの支援者から、『署名を悪口を言って集めている』と言われていて心外です。むしろ、こっちか署名用紙を持っていくと、『あの子、悪かったんだってねえ』、と言われたぐらいです。でも、(知美は)試験に関係ないのに(教室に)いたわけでしょ。(先生の注意に)知らん顔するなんて、男の子でもそんな子はおらんでしょう。知美さんにとって怖い先生というならば、なんで怖い先生を挑発するようなことをしたんですかね。注意されて鏡を見たんでしょう。黙って教室を出ていけば、ああいうことにならなかったのに。そこがわからないんです。宮本先生は相手を殺そうと思っていたのではなくて、陣内さんが掴んできたから、払いのけたんでしょう。反抗していると思ったんでしょう。宮本先生は賠償金までとられて、その上、お金まで騙されてとられてかわいそう(筆者注・事件直後、教育委員会を名乗る男が宮本家を訪ね、賠償金を預かると偽り、多額の金銭をだましとった事件/6章参照)。退職金も出ていないのに、かわいそうです」

――宮本被告を知らない人まで、署名に関わったのではないですか。

「署名の先で、宮本先生のことを知らない人が署名したとは思えません。私だったら書くかなあ?相手の女の子も先生のことも知らないのなら、私だったら書かない。私個人は、友人、卓球部関係、生徒の親しか署名用紙を回していません。後輩たちは親戚などにも頼んだらしいけれど、彼女たちが、陣内さんの悪口を言って集めたとも思えません」

――知美さんの悪口を言って、集めていることは事実です。

「署名運動をしたことは悪かったのでしょうか。署名連勤をしたことは、裁判の役に立ったのでしょうか。でも、私たちにできることはそれしかなかったんです。最初は、卒業生の親ぐらいの署名は集まると思っていたのです。せいぜい、二、三万だと思っていましたから」

――あなた自身は噂を信じていたのですか。

「知美さんのお父さんが別居していたのは本当だと思っていました。それは、知美さんの友人から直接聞いたんです。判決を約一週間後に控えたころ、宮本先生が言いました。『みんなは俺のために署名をしてくれたのではない。頼みにきたお前たちを見て、署名したんだ』と。私は『そんなことないよ。宮本先生のことを知っている人が署名したんだよ』と言いました」

――末端で、宮本被告のことを知らない人が署名活動をやったことが、デマを生んだ一因ではないのですか。

「そうかもしれません」

――遺族は二度、三度殺されたと言っていますが。

「そんな気持ちはなかった……。宮本先生はすばらしい先生だと思っています。マスコミで宮本先生が叩かれて、そうじゃないということをわかってほしいという気持ちだったんです。私たちは、できることをしたまでです。責任についてはわかりませんが、署名運動をしたことが悪かったとは思っていません。こういう結果になるとは思っていませんでした。悲しいことです。宮本先生のことはわかっている人でわかりあえばいいんです。そう思っている(署名がデマを生んだこと)人は仕方がありません」

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ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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