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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第39回 証人尋問

藤井誠二ノンフィクションライター

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証人尋問

一九九五年十月二日に、福岡地方裁判所でスタートした公判は、十月二十日に第二回公判、十一月十三日の第三回公判で結審し、検察は懲役実刑三年を求刑した。

第一審で争われたのは、宮本の体罰の「故意性」である。それを裏付けるために宮本の弁護人・桑原昭熙は、事件現場の廊下が滑りやすかったという「物理的要因」説、宮本が知美ら「就職コース」の生徒指導に手を焼いていたことや、学校全体の方針が厳しい校則を守らせることだったために、仕方なく体罰に及んでしまった面も否めないという「外圧」説、もともと宮本は体罰をふるう教員ではなく、生徒か手を焼かせるために仕方なくふるうようになったという「生徒原因」説などを、証人たちから引き出そうとした。

第三回公判では、宮本の教え子たちや井上を弁護人が尋問しているが、教え子たちは次のように証言した。ちなみに、五名はひとりずつ入廷、前の証言は聞こえない。

TMの証言。

《私が一年のときは上に二年と三年、三年になると下に二年と一年がいましたが、その間、一度も(筆者注・体罰は)見たことがありません。指導は厳しいですけど、言葉でですね、いろいろ注意してくださって、手を上げたというところは見たことがありません。他の部では、バレー部などではすごく叩いていました。(現在、教頭の)小山先生はすごく叩いていました。第二回目の公判を聞いておりましたが、むしろ清田(幸雄・同和教育部長・元教頭)先生や小山先生はいつも竹刀を持っておられて、もう本当にパチパチと叩いておられました。二級上の先輩で、三年間小山先生が担任だった人がいますが、小山先生は体育の指導をされており、帽子を忘れてもすごく叩かれたと言っていました。でも、宮本先生からは叩かれたことがない、と。私たちは卓球部の指導を受けている中で、宮本先生から一度も叩かれたことはありません。校則違反の理由でも、叩きませんでした。今回、先輩たちに『誰か叩かれた人おる?』と聞いたんですけど、叩かれた記憶のある人はひとりもいませんでした》

TCの証言。

《私が在学中に体罰はありました。平手で叩いたり、拳骨で叩いたりというものです。私たちの卓球部ではそんなになかったんですが、バレー部顧問の小川先生やバスケ部の顧問の先生が竹刀とかで叩いたりしていました。校則違反に対する罰として注意されたり、拳骨や平手でときどき叩かれたりしました。最近では、クラブじゃない先生方も竹刀とか、竹刀のような細い棒を持って、生徒になめられてはいけないというかたちで、ときどき、教室にも持って来られていたと聞きました。

宮本先生が掃除をさぼったり、教科書を置いて帰ったり、服装違反で生徒を叩くのをクラスで見たことがあります。拳骨でコツンンと叩いたりしました。私も拳骨程度はあります。しつこく何度も叩かれたということはありません》

NNの証言。

《暴力教師とか言われていますが、私たちは叩いているところは一切見たことがありませんし、一受けたこともありません》

NNは、弁護人の尋問にこう答えた後、検察官から「私たちの間では、被告人が暴力をふるったことがない、というふうに言われましたが、私たちの間というのは、さっき証言されたTCさんも入っているんですか?TCさんはさっきここで、TCさん自身も宮本被告人から拳骨で叩かれたことがあると言っているんですけども」と聞かれ、「私はTC先輩とは時代が違うからわからないんですけど自分は見たことかないということです」と答えた。

KTの証言。

《私の在校時代に体罰は大半あったと思います。半分以上の(先生)がおこなっていたと思います。女性の先生もやっていましたが、女性の先生は感情的になるところがありますが、(男の先生と)変わらないと思います。清田先生には、化学を習ったことがありますが、毎時間棒を持ってこられまして、教科書を忘れたり、教科書に名前が書いていなかったなどの理由で、毎時間ひとりか二人は必ずその棒で叩かれていました。教科書を初めて忘れた時点で叩かれます。注意して直らないからということではなく、その時点で叩かれるのです》

教え子たちの証言は、宮本に愛情を感じていたことは十分表現できたが、体罰がそのときだけ偶然に起きたという証明にはならなかった。

また、弁護人は暴力の故意性を薄めるべく、「事故」であることをなんとか証明するために、廊下が「滑りやすかった」ことを証言させようともした。

NNの証言。

《私は新校舎時代の生徒ですが、床は何でできているのか、とにかくよく滑ります。普通、靴下で上がってあそこで上履きにはきかえるのですが、それまでほんのちょっと廊下を歩く時間でもよく、つるんと滑ったりしました。とくに湿気のあったときはよく滑っていました。私たちのときはズック靴でしたが、今はスリッパになっているそうです。スリッパのほうがもちろん滑りやすいと思います》

KTの証言。

《学校の床は非常に硬い素材でできていますが、雨の日とかはもう本当に気をつけて歩かないとすぐ転んでしまうぐらいでした。私はズックでしたが、転んだことがあります。雨の日にちょっと廊下を走っていたときでした》

宮本が生徒に好かれていた教員だったということを裁判所に訴えるための宮本側弁護人の情状面での作戦でもあったわけだが、たいした効果は得られなかったと私はみる。むしろ以前から宮本が体罰をふるっていたという証明になり、同時に、同校では体罰が横行していたことも裏付けられる結果となった。

弁護人桑原は第二回公判でも、元教頭の清田幸雄と教頭の小山昭にも学校の生活指導のあり方について質問を重ねている。

清田は一九六六年四月に着任。当時は、三年生は以前の洋裁学校生であり、二年生に一クラスだけ「近畿大学附属女子高校」として募集した生徒たちがいた状態だった。教頭になったのは一九八六年十一月だから、同校の生き字引的存在といえる。

《私が赴任したころは、ほかに私学が三校ありまして、できたばかりですのでレベル的にどうかというのはわかりませんが、とにかく他の学校には負けないようにと、勉学の面、クラブ活動などに力を入れて特色を出さなくてはいかんということでした》

校則などで生徒を縛る「生活指導」は清田が教頭になる以前からあり、清田の印象では山近体罰になってからも、特にその厳しさは変化はなかったという。また、証人の武貞眞弓に、「いつも竹刀を持っておられて、叩いておられた」と名指しされた清田だが、自身の体罰について検察官から「校則違反を見つけて十分な説明や指導をしないで直ちに暴力をふるうというのは、指導の根本である説得を放棄していることですね」と聞かれ、「はい」と答えるにとどまり、すすんで自らの体罰経験を話すことからは逃げることができた。

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ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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