Yahoo!ニュース

「桜宮高校体罰事件」の判決を法廷で聞く(前半)

藤井誠二ノンフィクションライター

拙会員制メールマガジン「事件の放物線」9月30日号で配信した『「桜宮高校体罰事件」の判決を法廷で聞く』を今日、明日の2日にかけて全文公開します。

【目次】─────────────────────────────────

■懲役一年執行猶予三年

■体罰を是認しない裁判所の意思

■裁判所での議論をもっと示す方法はなかったか

■「体罰死」を裁く限界なのだろうか

─────────────────────────────────────

─────────────────────────────────────

■懲役一年執行猶予三年■

九月二十六日、大阪地裁。桜宮高校体罰事件判決公判の場に、私は前回(初公判。第一回のみで結審)に続き傍聴券を引き当てることができ、判決を聞くことができた。判決公判は三〇分足らずで終わったが、被告である元桜宮高校教諭の小村基氏の表情や、被害者の両親や兄のまなざしも、ふたたび直接見ることができた。そして、当日の朝日新聞夕刊に次のようなコメントを寄せ、「『体罰はなぜなくならないのか』の著書があるノンフィクションライター藤井誠二さんの話」として次のような文章が掲載された。

〔学校内では体罰と呼ばれても、その暴力は学校の外に出れば暴行・傷害罪なのだ」と司法がきちんと判断したことに大きな意義がある。捜査は異例だったが、司法に委ねるべきケースはごまんとある。何十年も歯止めがかからない問題の罪深さに警鐘を鳴らす意味では、体罰に依存してきた教師に罰を与えることは大事だ。

ただ問題の本質は、小村元顧問を裸の王様にし、おかしいと声を上げることさえタブー視してきた学校の空気にある。教員一人ひとりが、判決を受けてどこまで自分のこととして考え、自浄できるか。世の中はそこを見ている。〕

報じられているように、判決は懲役一年・執行猶予三年というものだった。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130926/trl13092614030002-n1.htm(産経)

http://www.asahi.com/national/update/0926/OSK201309260006.html(朝日)

まずは以下の判決文を紹介する。

〔被告人は、平成24年12月当時、大阪市桜宮高等学校教諭でバスケットボール部顧問を務めており、被害者は(当時17歳)は、桜宮高等学校第2学年に在籍し、バスケットボール部のキャプテンであった。

第1

被告人は平成24年12月18日、大阪市都島区毛馬町5丁目22番28号桜宮高等学校第一体育館において、

午後5時40分頃、他校との練習試合で被害者がこぼれ球に飛び付き捕球しなかったとして、休憩時間中に被害者を呼び付けると、その両親を平手で数回殴打する暴行を加え、

その直後、被害者に捕球練習をさせた際、やる気が感じられないとして、その顔面又は頭部を平手で数回殴打する暴行を加え、

試合終了後の午後8時30分頃、被害者に捕球練習をさせた際、失敗する度に1回ずつ、合計で数回、その顔面及び頭部を平手で殴打する暴行を加えた。

第2

被告人は、平成24年12月22日午後5時頃、前記体育館において、他校との練習試合で被害者が相手選手の動きを意識せずプレーしたとして試合中に被害者を呼び付け、その理由を問い詰めたが、被害者が返答しないことにいら立ち、その顔面及び頭部を平手で立て続けに十数回殴打する暴行を加え、その直後、試合が中断した際にも、その顔面を平手で数回殴打する暴行を加え、よって、全治約3週間を要する上唇の中央部及び下唇全体の粘膜下出血並びに下唇左側の粘膜挫創の傷害を負わせた。

(量刑の理由)

本件は、教師であった被告人が部活動の指導に際し、平手で顔面や頭部を強く殴打する暴行(いわゆるビンタ)を繰り返し加え、傷害を負わせるなどした事件である。被害者は、肉体的な苦痛に加え、相当な精神的な苦痛を被っており、これは被害者の自殺及び被害者作成の書面からも明らかである。被害者は、罰を受けるようなことは何らしておらず、要するに被告人が満足するプレーをしなかったという理由で暴行を加えられたのであって、このような暴行は、被害者が書き残したように理不尽というほかない。また、被告人は、本件以前に、同僚の教師が体罰等で懲戒処分を受けたり、自己の体罰ないし暴力的指導について父母から苦情を受けたりするなど、自己の指導方法を顧みる機会があったにもかかわらず、効果的で許される指導方法であると盲信して、体罰ないし暴力的指導を続けてきた。これらの事情からすると、被告人の刑事責任は軽視できない。なお、被害者の自殺を量刑上大きく斟酌することは、実質的に、審判対象でない傷害致死の罪責を負わせることとなり相当ではない。

他方、被告人は、本件などを理由に懲戒免職処分を受け、実名で報道されるなど、社会的制裁を受けており、十分とはいえないが本件各犯行を認めて反省の弁を述べている。また、全科前歴もない。そうすると、主文のとおりの懲役刑を言い渡してその責任を明確にした上、刑の執行を猶予するのが相当と判断した。〕

─────────────────────────────────────

■体罰を是認しない裁判所の意思■

遺族は「傷害致死」に相当すると法廷でも記者会見の席でも主張してきたが、起訴されたのは判決文にもある数件の暴行罪と傷害罪でしかないのだから、この判決は予想できた。判決後の記者会見では遺族は、「満足はしていないが、真摯に受け止めたい」と答えた。

しかし、公判では検察官が「体罰をなぜふるい続けてきたのか」という、小村氏の「過去」にまで遡及し、その点を集中的に問い詰めた。

それは「体罰は犯罪である」という検察の意思であると受け止めることはできた。学校で当たり前のようにふるわれてきた「体罰」という行為が刑事罰に値する悪質なものなのだという検察側の主張は裁判所も十分に認定したといえると思う。

そして、裁判官も被告が体罰の違法性を認識していながらどうして止めることができなかったのかを繰り返し質問をし、被害者参加人として出廷した少年の遺族や代理人弁護士にも一定の質問の時間を割くことを許可したのを考え合わせると、体罰を「教育」ではないと断罪した裁判所の意思も感じ取ることが私にはできた。

過去の体罰事件の判例を見ると、「体罰」に好意的で、教育・懲戒方法として許容されるようなことを裁判所は判決に書いてきたし、体罰をふるった教員に対してとても同情的な姿勢をとることが多かった。そういった過去の事例と比較すると隔世の感すら私は覚えるのだ。

それは、〔被害者は、肉体的な苦痛に加え、相当な精神的な苦痛を被っており、これは被害者の自殺及び被害者作成の書面からも明らかである。被害者は、罰を受けるようなことは何らしておらず、要するに被告人が満足するプレーをしなかったという理由で暴行を加えられたのであって、このような暴行は、被害者が書き残したように理不尽というほかない。〕という判決の一文にもあらわれていると私は思う。

裁判官は判決を読み上げたあと、小村被告にむかって「責任は刑事だけではなく、被害者参加人の声を受け止め、贖罪をしてほしい」と告げた。

明日へ続く

⇒メールマガジンのご購読はこちら

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

藤井誠二の最近の記事