Yahoo!ニュース

【連載】暴力の学校 倒錯の街 第45回 一周忌の追悼式

藤井誠二ノンフィクションライター

目次へ

一周忌の追悼式

宮本側の控訴が棄却されるのと同時に、筑豊には早い夏がやってきた。一年前のあの、うだるような日に、知美は学校の廊下で倒れ、十六歳の人生を奪われた。知美の一周忌である。

その年の二月八日有田榮二校長が、陣内家を訪れていた。元春か校長の自宅に電話をして呼んだのだった。有田校長は校内の様子をこう説明した。

「一周忌に何かをするという雰囲気を高め、それを本部(近畿大)の方へ上申しようと思っています。前向きに考えていますが、職員たちの様子を見ていたら、事件当初は宮本先生と親しかった教員たちは宮本先生への同情がありましたが、(宮本側が)控訴したあとは、なんで控訴しよるんやろかという話をしています」

元春は答えた。

「宮本は、法廷では申し訳ないとか、供養したいということを言っておきながら控訴しましたからね。私の支援者の方が(追悼集会を開くことについて)こうしようと提案しているけど、(そうやって)まわりの方から言われてから(やっと)、(追悼集会を開くことについての準備などを)してくれてはおかしいでしょうが。あなたは前の校長のあとを継いで、いろいろ矢面にたたされているのは気の毒かもしれんけど、追悼集会をしてくれということをまわりの方に言われてから、やるのはどうかと思うので何とかしてくださいよ」

有田校長はこう答えた。

「私たちも何もしないで済まそうとは思っていません。祥月命日には何らかのかたちをとりたいと思っています」

翌三月はお彼岸である。三月十八日、元春が留守のとき、有田校長と小山教頭がお供え物を持参したが、とくに追悼集会については何も触れずに帰った。

次に布団校長が陣内家に来たのは、六月二十川日である。そのときは、追悼式は七月十九日に決定、終業式の前におこなうことにした、と元春に告げている。

「いろいろな面を考えて、生徒全員が参加することを考えた、と有田校長は言うんです。暑い夏に全員を体育館に入れるということは、サッと終わらないと、だらだらしてしまうと。終業式だったら、(学校には生徒の)みんなが来るから、朝の涼しいうちにやりたい、と。いいかげんな気持ちでやる者もいるから、だらだらとしたかたちになってはいかんから、そういうふうにしたと言っていました。ですが、決して(終業式の)ついでのかたちではしません、ということだった。私はどうも、ついでにされるような感じがして、いかんと思ったんですが……」

元春は六月二十九日、電話で有田校長に、七月七日の法要を午前十一時から自宅でおこなうことを知らせている。

「そのとき、追悼式の要望を検討中で、(近畿大)本部からの連絡が入りしだい、七月七日の前にお知らせします、とも言われました。七月五日に校長が来られて、七日の法要は前校長もいっしょに来たいと言われた。十八日には午後四時ごろに花を持って行きたいと私がお願いしたところ、それまでに生徒をぜんぶ下校させておきます、と言われました。それから、七月十九日は(お父さんが学校に)おみえになっても、(会場で座っていただく場所が)狭いから、どうぞ来てくださいとも言えないと。でも私は行きます、と答えました。校長は、当日は総長名で生花と弔電を送りたいと考えております、とも言われました」(元春)

――一周忌の法要には近大附属の誰が参列したのですか。

「校長・教頭以下教職員十四名と前校長です。前校長は、事件後、人知れずやめていった人です。私は、学校をやめて、楽なほうとったらいかんですよと言っていたんです。やめるということで責任をとるのはやってほしくなかった。初七日のとき、やめて責任をとることはしないでくださいよとお願いしたら、ハイと答えていたのですが……。前校長は、九月の彼岸の、私が留守のときにお参りにみえて、それっきりです。で、九月三十日に退職している。それも、私に何の連絡もなくです。退職のことを知ったのは新聞記事ででした。学校が一周忌に追悼式をしてくれないのだったら、知美の友だちを呼んで、広い場所を準備してやろうと思っていました。でも、学校はやるというから、一周忌の法要は親戚だけで自宅でやろうということになった。そうしたら、急遽、学校から十五名来るというでしょう。雨が降りそうだったから、あわててテントを借りて、外で焼香ができるように焼香台も借りました。でも、和尚さんは居間に先生たちをあげて、座らせたんです」

――宮本からは何か連絡があったのですか。

「一月十八日は知美の誕生日で月命日です。そのときに、宮本の奥さんから裁判がはっきりしないからお参りは差し控えたいと、(元春の)妹のほうに電話がかかってきました。なんてこと言うのか、と思ったですね。妹も、すぐ怒鳴りつけたかったらしいけど、一応兄に伝えておきますと答えたそうです」

六月二十日には、「陣内さん支援ネットワーク」の佐田正信らも追悼集会についての申し入れ書を近畿大の総長・理事長宛に出すなど活動をおこなっている。佐田は次のような申し入れ書を近大附属に持参した。申し入れ書の宛て名は、学校法人近畿大学総長・理事長である世耕政降である。

一、近畿大学総艮・理事長である貴職から、御遺族への直接の謝罪及び弔意の表明をお願いいたします。

二、陣内知美さんの追悼集会を貴学附属女子高等学校でぜひ、開いてください。なお、その際は先ず何よりも、命の尊さを考えていただいて、知美さんの祥月命日の七月十八日に他の行事に優先してやってください。その集会においては形式・内容の総てについて、御遺族と相談の上、その御意向を最優先に取り入れてください。なお、集会においては事件以前に貴学附属女子高等学校内で現におこなわれていた体罰による教育は明らかに誤りであったこと、また、いまなおもある体罰を容認する風潮について「体罰は違法である」ということを広く示していく取り組みをすることを表明していただきたい。

申し入れ書を携えて、校門をくぐったのは佐田と長崎陽子である。長崎は地元で消費者運動や不登校の子どもたちをフォローする活動を広く展開している。二人に応対したのは、有田校長、学校法人近畿大学・事務部長の清水由洋、同補佐の村井一昭の三名であった。彼らは最初、「近大総長の指示がないとできない」と要求をつっぱねていたが、結局次のような意見に落ち着くことになる。

「支援ネットワークの活動に対して敬意を表す。学校の日常的なことは、校長以下教職員で決定し、教育方針の変更など重要なことは総長を含めて話し合う。申し入れ書の趣旨は理解するが、追悼集会は教育の一貫として取り組む。ただし、それは主体的に決めることで、外部の声に左右されることではない。追悼集会をおこなうことは運営委員会ですでに決定している。学校の責任においておこないたい。学校集会や行事・式典のたびに事件に触れ、二度と起こしてはならないことだと言っている。ひとりの生徒の死が引き起こしたことの教訓を生かしていこう、そしてもう少しきちんとした学校生活を送ろう、と。風化させてはいけないと思う。学校が再生していくことが、知美さんの死に対してできることだと思う。生徒や地域の信頼を回復するために、教員一人ひとりが真剣にやっている」

佐田と長崎は、一審判決の直前にも体罰が発生していることや、体罰の代わりに教員の暴言が目立っている、などの指摘をおこなった。しかし、学校側は直接的な返答は避け、抽象論に終始した感が否めなかった。佐田は言う。

「『外部に左右されることではない』という学校側の態度は予想していましたが事件のことを教育に組み込むと言い、事件をだしにして、生徒に『きちんとした生活をしよう』と呼びかける管理職らの感性を疑いました。これではまるで、知美さんのような目にあわないためには、品行方正な生徒でいるのがいいのだ、と言わんばかりではないですか。いったい、この人たちは知美さんの死の意味をどう考えているんだろうか」

目次へ

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

藤井誠二の最近の記事