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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第46回 改ざんされた追悼文

藤井誠二ノンフィクションライター

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改ざんされた追悼文

知美の祥月命日である事件からちょうど一年後の七月十八日の朝、陣内家には有田校長や小山教頭ら学校の幹部が四人、焼香に訪れた。

午後三時半、元春は妻の明美と、元春の妹の三人で学校に向かった。家を出るときからマスコミが追いかけた。元春らは知美の好きだった「紅茶花伝」を学校の前の店で買って校門をくぐった。応接室では、校長と向かい合ったが、挨拶のみで特別話はしていない。マスコミはずっと張りついている。

校舎の階段をゆっくりと上がり、娘のいた教室の前へ歩んだ。教室の前の廊下、つまり知美が倒れた現場には、机に白い布を被せた祭壇が準備してあり、花が飾られていた。元春たちも持参した花を供え、線香を立てる台を置き、ろうそくに火を灯し、線香をあげた。

娘のいた教室を見るのも、入るのも事件後、初めてだった。教室の中を校長と教頭が二人で案内してくれた。知美の席がここで、知美か立っていた鏡はここで、押し倒されたところはここで、と順番に説明してくれた。

「私は、知美がどんな教室で勉強をしていたのか見たかった。入学のときは、教室の後ろいっぱいいっぱいまで生徒が座っていて、狭かったのになあと思い出しました。廊下も狭く感じました。時間はどのぐらいだったかはわかりませんが、祭壇にお参りしているうち、ダアーッと知美のことを思い出して、知美の名前を呼んで、泣きました。でも、知美には聞こえないなあと……」

元春は、娘が頭をぶつけたコンクリートの柱にさわって、そこをこぶしで叩いた。妻と妹は後ろで声を押し殺して泣いた。

「事件が昨日のことのように思えましたね。裁判の中で、宮本は(知美を)叩いたとは言わなかった。そういうと裁判官の印象が悪いから、押したとか、なんとか言っていた。とにかく(宮本が知美に)やったことがしつこいですよ。教室の中で叩いて、出るところを押し倒しているわけでしょう。押し出して、外で叩いとる。そしてまた押して、バーンとはねかえってきたところを掴まえて、柱に押しつけている。そんなことしたら、大変なことになるのは明らかでしょう。こんな狭い廊下で、あんなところに柱があるのに、押したら、そうなるのは当たり前じゃないか、(宮本は)バカじゃないかと……。目の前の柱がわからんのか、とそのとき私は思いました。(宮本は)はずみでやったと言っているが、しつこく暴行を加えておるんですよ。叩いて、押しまくって、コンクリー卜に当たるのは当然ですよ!子どもたちの話を聞いていると、襟首を掴んで、コンクリートにもっていっとるわけやから。……とどめ刺しとるんですよ!」

元春たち三名は、いったん校長室に戻り、校長たちに今日のことを配慮してくれたことに礼を言い、卒業アルバムに知美の写真を入れてほしいことと、卒業証書を発行してもらうことを頼んだ。校長は、「アルバムには入れるつもりです」と言い、「卒業証書は正式なものは出せないから、かたちだけのものになりますけどいいでしょうか」と断りを入れつつも承諾した。

学校主催の追悼集会はその翌日の七月十九日、終業式とセットにしての開催だった。

前日から台風が来る可能性を天気予報は予想していた。台風が来ることになれば、生徒の出席率が悪くなる。そうすれば、式の日取りをずらす必要性も考慮にいれなければならなかった。が、台風はそれた。

その日も元春は、妻と妹の三人で学校に向かった。妻の明美は知美の遺影を風呂敷にくるんで両手に抱えた。一行は九時前に学校に着いた。ところが、体育館の緞帳が故障したせいで少し待たされる。式も九時からはじまる予定が九時半スタートになった。会場は生徒で埋まっていた。生徒たちが壇のすぐ前から立っていたから、わずかにできた壇と生徒のすき間に、壇のほうへ向かい合うかたちで妻と妹と三人で座った。マスコミはNHKが代表取材に入っていた。

有田校長の弔辞は次のような内容だった。

「命を抜きにして幸せや人生を論じることはできません。だから、学校は何をおいても命を大切にし、育む場でなくてはならない。その学校で、しかも何より大切な命の尊さを教えねばならぬ教師の手によって、ひとりのかけがえのない生徒の命が失われました。学校で決してあってはならないことが一年前の、七月十七日に本校で起こりました。幸せを生きなければならない命が散ってしまったことを思い、遺影を前にして断腸の思いであり、痛恨の極みです。まして最愛の娘を失ったご両親のお気持ち、悲しみを思うとき、私は言葉を失います。私は学校を代表して、陣内君の霊前にいまここであらためて誓う。もう二度とこのような悲しい出来事は起こしません。その悲劇の引き金となった体罰はこの学園から永遠に根絶して、明るく楽しい学校をつくりあげていきます」

この弔辞を聞いた元春は思った。

「もう二度と起きないように霊前に誓います、命の尊さを教師の手によって教えなければいかん、と言われても仕方がないことじゃないか。校長の話でほしかったのは、いろいろな生徒指導をしてきたが、それが間違っていた、ということじゃないか」

有田校長のあとに、涙をこらえながら生徒代表が読み上げた「追悼のことば」は以下のとおりである。

《陣内知美さんが亡くなって一年か経ちました。あのつらく悲しかった日から一年もの時間がすぎたいまでも、ふとした一瞬に、あなたがすぐ側にいてくれていたり、朝元気に教室に入って来るような気がします。

一年前のあのとき、私たちが先生を止めてさえいれば、あなたが楽しみにしていた体育祭の顔を真っ白にして走る、あの餅食い競争も出場できたし、修学旅行にもいっしょに行くことができたのにと悔やまれてなりません。成人式の振り袖も、ウエディングドレスも着たかったでしょう。これから行きたいところもやりたいことも、夢も未来もたくさんあったのにと後悔しています。

あなたは、積極的で誰にも優しく、ひょうきんで楽しく、笑顔のとても似合う人でした。そんなムードメーカー的存在のあなたがいなくなった教室は、暗く淋しい場所となり、時間ばかりが過ぎて、私たちの心は、あの日から止まったままのように感じるときもあります。もし、あなたがいま、私たちといっしょにここにいたら、どんなことを話しているだろうとか、どんなことをいっしょにしているだろうとか考えたりします。それでも、このごろは私たちにも笑顔が戻ってきました。心の中の知美ちゃんといっしょに、すぐ目の前に控えた就職試験や進学試験を突破し、あなたの分まで精一杯頑張って生きていこうと私たちは考えるようになったからです。

事件後、学校では体罰について真剣に考えるようになりました。先生方も生徒に絶対に手を当てなくなり、私たちは話し合うようになりました。これから先、私たちはもっとたくさん話し合い、協力し合って、あなたの死を無駄にしないように、私たち一人ひとりが十分に考え、この学校を良くし、誇りに思える学校にしていきたいと思っています。

どうか空の上から私たちを見守っていて下さい。そして私たちの心の中にいつまでも生き続けていて下さい。

心からご冥福をお祈り致しております。平成八年七月十九日》

原稿を見せてもらった。文章の切れ目には、鉛筆で横線が付けられている。これは、朗読の呼吸をおいたりするなどの教員の指示である。末尾には、この追悼文を読み上げた生徒二名の名前がある。

この追悼文は国語の教員が、知美が在籍していたクラスから集めた知美への追悼文を集約し、手を入れたものである。はたして、ここに真の生徒らの心がこもっているだろうか。この「代表追悼文」は知美を奪われた子どもたちの言葉を集約したものなのだろうか。

答えは、否である。私は三五名のクラス全員の書いた直筆の追悼文をすべて読んだ。そこには学校への強い不信感と、体罰への怒りが書かれている。ぎりぎりと歯ぎしりが聞こえてくるような文面ばかりである。第一、「先生たちは手を当てなくなりました」と書いている生徒はいない。「代表追悼文」はその部分がすべて曖昧にされ、学校の加害者性を薄めた、玉虫色の表現に改ざんされてしまっている。学校はここに至っても、いったい何を取り繕う必要があるのか。

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ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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