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【連載】暴力の学校 倒錯の街 第49回 7章 噂の深部 「噂」の成長

藤井誠二ノンフィクションライター

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7章 噂の深部 「噂」の成長

私はこれまで、巨木の枝葉のように勢いを広げていった卒業生たちの署名運動と、知美と陣内家を苦しめた「噂」が、まるで双子のように似通って「成長」したのだということを明らかにしてきた。

直方市に住む、四○代の女性は私にこう言った。

「親戚に近大の卒業生がいるのですが、その同窓会から署名用紙がまわってきました。もちろん、家族で署名しましたよ。亡くなった生徒さんは悪い子だったという噂は、署名用紙を持ってこられた方からも聞きましたし、あちこちから聞きました。いまでも、あの先生はいい先生で、先生のほうがかわいそうだと思っています」

一九九七年春、知美の同級生たちは近大附属を卒業した。

進学、就職、アルバイト……、親友を奪われたというトラウマを抱えながら、彼女たちはそれぞれの新しい進路を歩みはじめた。しかし、そんな彼女たちへ、知美の「噂」はまだ追い討ちをかける。

たとえば、M子は卒業後、福岡市内の専門学校に通っているが、そこには県内各地から生徒か通ってきている。生徒たちの間で、ひょんなことから事件のことが話題になると、かならず大半の人が「先生がかわいそう」「あの娘、悪い娘やったんやろ」と口にするのだという。

M子は、「くやしくて、くやしくて」たまらない。そして、知美に誓う。

「何も知らないくせに、知ったようなこと言って!でも、ちゃんと言ってやるからね。噂はこわいねー」

知美に「宮本が体罰をふるわざるをえなかった、とんでもない生徒」というラベリングをし、宮本を「被害者」的存在として位置付けたのは、宮本の教え子や近大附属の関係者たちである。自分たちが起こした、宮本の減刑嘆願署名運動が善意の固まりであると妄信し、知美を二度殺したことにまったく思いをはせることがなかった彼ら、彼女たちを、私は犯罪的ですらあると思っている。さきの直方市の主婦のように、署名に協力した人は、自分がまったく未知の人間に対して、誤った印象を持ち続けているのだ。

宮本の減刑嘆願署名を求められた三○代前半の女性に会った。X子としよう。

X子が宮本嘆願の運動に協力を請われ、署名用紙を託された相手は、X子が参加している絵画サークルの女性の知人である。その女性は看護婦。事件後、一、二週間ほど経ったころだった。

その女性は、職場である個人病院内や絵画サークル、卒業生関係、さらに知り合いの人を通じて署名を集めていたのだった。X子か託された署名用紙は次のようなものだ。

《宮本煌先生への寛大なご処置についての嘆願

陣内知美さんに対する傷害致死事件によって起訴されました、宮本煌先生に対して、なにとぞ寛大なご処置をお願いしたく、先生のお人柄をよく知っており、またその教育を実際に受けてきた近畿大学附属女子高等学校の卒業生を代表いたしまして、嘆願申し上げます。

私たちは平成三年三月当高校の卒業生ですが、先生は当時から進路指導の担当をされており、私たちに限らず、就職クラスの生徒は誰でも先生に、本当にひとかたならぬお世話になった思い出を持っているはずです。先生は、生徒一人ひとりに対し、まるでご自分の子どものように愛情を持って接しておられました。

就職活動に於いては、私たちの将来を本当に心配して下さったことが、今こうして社会人になって、しみじみと先生のご恩が身にしみます。ときには、投げやりになっていた私たちを、辛抱強く一人ひとり呼んで、ねばり強くじっくりと話し合いました。

先生は本当に穏やかで、ときには冗談も言われる温かい方です。その先生が叱るときは、生徒のほうが本当に悪いときだけでした。これは、先生に叱られた経験のある私たちが声を大にして言えます。いまマスコミで言われているような「体罰」などとは、叱られた私たち自身は決して思っておりません。また「体罰」などという強烈なイメージなどでは決してなくて、軽く叩く程度です。ですから、たとえ叩かれても先生の愛情が素直に伝わってくる、自分の親と同じです。これは生徒のほうがあとで冷静になればよくわかります。先生から叱られた経験のある者なら誰に聞いてもみんな同じ答えです。卒業して社会人になって、しみじみと先生の愛情が思い出されます。私たちが就職でき、立派に社会人になれたのは先生のおかげです。

また、先生は、授業だけでなく、卓球部の顧問として、クラブ活動にも熱心で、心身ともに健やかな生徒を育てることに情熱をもって取り組まれる、立派な教育者です。そして、本当に生徒の側に立って、生徒の話をよく聞いて下さるすばらしい先生です。

このたびの事件においても、こうした先生の生徒に対する愛情は、少しも変わっていないと思います。その中で、たまたま反動で陣内さんの打ちどころが悪くて、起きた不幸な事故だと思います。

もちろんお亡くなりになった陣内さんには、私たちの後輩としてこのような不幸な結果になって悲しみでいっぱいです。また、彼女のご両親に対しても、どんなにかお嘆きのことと、そのお苦しみを思うといたたまれません。

先生はいま、この不幸な結果に対して、どんなにか悔やんでおられることと思います。でも私たちは、先生のこれまで生徒にそそぎ込んでこられた愛情を知っている者として、じっとしていることができずに、嘆願申し上げる次第です。このような気持ちの者は、私たちだけではないはずです。先生のことを知っている者は、誰でも同じ思いでいっぱいと思います。

先生のご恩を受けた、大勢の生徒や父兄たちのこの心からの願いをご推察のうえ、何卒先生に対し、寛大なるご処置をお願い申し上げます》

署名用紙には主体者名がなかったが、事件の概要はその知人から説明された。X子は言う。

「私がその知人から聞いたのは、教師が生徒をポンとついただけで、生徒が頭をぶつけたということです。また、その知人は人から聞いたらしいのですが、亡くなった生徒はふだんからシンナーをやっていたらしいとも言っていました」

嘆願署名用紙の内容からわかるように、これを書いたのは、一九九一年三月に近大附属を卒業した女性である。「私たちに限らず、就職クラスの生徒は誰でも先生に、本当にひとかたならぬお世話になったはず」と書いているから、知美と同じ就職コースに籍を置いていたのだろう。

X子は、事件を伝えるニュース番組を見ていてこう思ったという。

「キャスターが、『近大附属の女の子は素直でいい子ばかりですね』と言ったんです。でも、学校には、いろいろな子がいる。その発言に反発をおぼえました。それに体罰事件を起こした教師が一方的に悪いという報道も腑に落ちなかった。いま思えば、私の時代の体罰と、事件の体罰のイメージが違ったことが、そう思った一因でもあったのですが……。とにかく、報道では、事件の事実が伝わっていないのではないかと思ったのです。そのときは、そういう思いから署名をしました」

X子はあとになって署名運動と知美を中傷する「噂」が連動していることを知り、心を痛めた。また、宮本が一審判決を不服として控訴したことも相まって、「署名を求めてきた側」の動機に怒りをおぼえるようになった。が、X子のような方はとてもまれである。

私が取材をすすめるなかで浮上してきた「噂」の「出元」に、知美が救急中で運び込まれた飯塚病院がある。「噂」を逆探知していくと、少なくない数の「噂」の出元として「飯塚病院の看護婦」にいきあたるのである。

宮本の嘆願署名運動の中核を担った近大附属卓球部OGも「ネタ元」として「飯塚病院の看護婦」を挙げていたし、あちらこちらで、「飯塚病院の看護婦から噂を聞いた」という人に遭遇するのである。

それはおそらく、知美の体を最後に見た、遺族以外の唯一の第三者であるということにも起因しているのだと思う。知美が運び込まれた飯塚病院の外来では、知美の衣服をとっていないので、ICU(集中治療案)の関係者しか見ていないことになる。いったい何人ぐらいが知美の体を見たのかははっきりしないが、通術、ICUでは五~六人の医師と看護婦が作業をおこなう。が、知美が飯塚病院に運びこまれた時間帯は、日勤帯と準夜勤帯の看護婦の交代時にあたり、通常の倍の看護婦が治療にあたった可能性もある。

ちなみに、飯塚病院の正式名称は「麻生飯塚病院」といい、地元の麻生財閥グループの系列企業である。「麻生」とは石炭業で財をなした麻生家の(現衆議院議員麻生太郎氏はその直系にあたる)ことで、町のいたるところで「麻生」の名を冠した会社や商店をみかける。麻生飯塚病院では医師、看護婦、事務員などをあわせると約二○○人のスタッフが働いている。院内に併設している看護科や飯塚医師会の看護学校、嘉飯山地域内で唯一、高校に看護科が設置されている近大附属から、看護実習生(准看護婦資格や正看護婦資格の検定試験を受験するための単位)として学生が勉強に来ている。

看護婦や看護実習生には、近大附属出身者や近大附属衛生看護科に在籍している生徒はどれほどいるのだろうか。嘉飯山地域では、近大附属にしか衛生看護専攻科がないため、地域の最大規模の総合病院である飯塚病院は、さぞや近大附属卒業生が占めているだろうと推測しがちだが、そうではない。

飯塚市で、准看護婦免許を得るためには、近大附属衛生看護科か、飯塚医師会看護学校に通い、准看護婦の検定試験を受けるための条件(単位)を満たす必要がある。飯塚病院で実習生として勉強するのは、その条件を満たす「単位」のためなので、近大附属衛生看護科と飯塚医師会看護学校の両方から生徒が飯塚病院に行くことになる。ただし、近大附属普通科を卒業した者が准看護婦の免許をとるために、飯塚医師会看護学校に行くケースは多く、一学年(二学年制)約八○名の飯塚医師会看護学校の生徒の一割以上が近大附属普通科の卒業生で占められており、出身校別ではダントツ一位である。医師会看護学校を経て、看護婦になった近大附属普通科卒業生の中には、宮本に進路を相談した結果、選択した者も多い。

飯塚市に住む准看護婦の資格を持つ女性は言う。

「近大附属衛生看護科を出て(准看護婦の検定試験に合格して)正看護婦になる道は、大まかに分けて二つあります。一つは、そのまま近大附属衛生看護専攻科(二年間)に進むこと。二つ目は、飯塚病院看護科に正看護婦の資格をとるために通うこと。ですが、近大附属衛生看護科を卒業した子で、飯塚術院看護科に行く子はまずいません。ですから、飯塚病院の看護婦で近大附属出身者は数パーセントだと思います。あとは、近大附属衛生看護科の実習生か、同校の普通科を出て医師会の看護学校へ通っている卒業生です」

つまり、実習生として飯塚病院に研修には行っても、看護婦として働くケースは少ないのである。

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ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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