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【連載】いま「刑事弁護」を「刑事弁護士」と考えてみる 第1回

藤井誠二ノンフィクションライター

刑事事件の弁護人が「人権派」と揶揄されるように呼ばれるようになったのはいつ頃からだろう。私の感覚では犯罪被害者や被害者遺族が刑事手続きの過程でさまざまな「権利」を獲得していく過程と重なっているように思う。凶悪な事件を起こした人間を弁護するのは「社会の敵」といわんばかりに世論が吹き上がることもある。そういう状況のなかで、新しい世代の刑事弁護士は何を考えているのか。数々の有名事件を担当してきた松原拓郎弁護士と語り合った。

〔松原弁護士プロフィール〕

2002年弁護士登録(東京弁護士会多摩支部)

多摩地域を中心に、これまで、多くの重大刑事事件・少年事件を担当してきている弁護士。マスコミが大々的に取り上げたような著名事件も、その中に多数含まれる。

【目次】─────────────────────────────────

■児童虐待事件の「ストーリー化」に腹が立つ

■「児童相談所」にかかわってみて

■「刑事弁護人がストーリーをつくる」という言い方に違和感がある

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■児童虐待事件の「ストーリー化」に腹が立つ■

藤井:

今朝、SNSですごく怒ってたでしょう?(笑)

松原:

怒っていましたね。(笑)

藤井:

神奈川県厚木市で起きたトラック運転手の父親がわが子を虐待して放置して餓死させた事件( http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/06/01/kiji/K20140601008277430.html )についてですね。保護責任者遺棄で逮捕された。放置して何ヶ月か経ってという事件ですけれど、こういう虐待・放置事件は最近、目につきます。二〇一〇年に発生した同様の大阪二児虐待遺棄事件( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA2%E5%85%90%E9%A4%93%E6%AD%BB%E4%BA%8B%E4%BB%B6 )も記憶に新しい。とくにネットでは沸騰して、親をゆるすなという声が氾濫しました。松原さん、そういう事件の「取り上げられ方」について怒っていたんですか。

松原:

児童虐待問題を専門的に取り上げているようなライターさんが、そういう事件をわかりやすい一定のストーリーに落とし込んで、「児童相談所はいつも何もやらない、踏み込まない」みたいな事をツイッターで書いているのを見て、書き方が非常に安易な書き方に見えて、腹が立ったんですね。

藤井:

たしかに児相の対応の遅さや鈍さにより救えたはずの命が救えなかったという事例はたくさんあって、その度に児相叩きが起きますからね。

松原:

僕は、ある特定の分野にそれまで関わっていなかった人がその分野について意見を言うのは当然あるべきだと思うし、それ自体は全然構わない、当たり前の事だと思うのです。ただ、特定の分野で著作を書いていたりして、発信力を増した人というのは、ご本人が意識しているかは別として、権力を帯びたり、伝播性を帯びたりする。自分の発信力の性質が変わってきているという事を自覚してもらわないと。

藤井:

この某ライターの場合で言うと、その人の話しぶりの中に、もっと本質的があらわれているから怒っているんじゃないですか。少し一般論化すると、僕らメディアの人間が何かに対してコメントする時には、何かに例えたり、どうしても分かりやすい様に言うことが多い。僕も現場の難しさは勿論知っているつもりなのだけれど、分かりやすく言わなければならない。そういう矛盾を抱えながらやっています。でも、松原さんはそういうことに対してアタマにきてる?

松原:

そうですね。それで頭にきているのはあると思います。そこでコメントする事自体は必要な事と思っているから、せめてそこで、自覚的になってほしい。ちゃんと想像力を持って発言をしてほしいんです。それと、事件について、全部自分のストーリーにはめ込む傾向もある。児童虐待事件ならすべてについて「子どもの頃からトラウマがあってやった」という物語に落とし込むとか。そういう事件もあるし、そうでないと語れない事件もありますが、先に自分でそのような結論を用意して、すべてをそれで説明してしまおうとするのであれば、そのアプローチは間違っていると思います。

藤井:

加害者はもちろん当人なのだけど、その人を育てた厳しい父や、手を差し伸べなかった母というような二極化した構図とか? あとは加害者が発達障害を持っていたから云々というような? 単純な図式化や物語化は僕も好きではないし、それは書き手としての一つの資質の問題でもあるけれど、物語化は事実の安易な解釈や、間違った解釈に結びつきやすい。

松原:

事実の認識や、何があったかという理解は大きな観点では間違っていなくても、非常に繊細な部分というか細かい事実を見る時の捉え方の積み重ねで、全体が単純化されたストーリーになってしまうこともあります。

藤井:

メディアで取材者が捉えている現場と、刑事弁護人が捉えている現場というのは多分かなり違いやズレがあると思うのです。

松原:

弁護人は被告人と、裁判に至るまで、事件のことからそれまでの人生のことから、とにかくいろいろと徹底的に話をしています。その中で法廷に出てくる話はごく一部で、その背景にはいろいろな事実や、それをもとにしたいろいろな思いがあります。弁護人は守秘義務もあり、また事件を巡るいろいろな人間関係や生活等にも配慮すべき立場にあるからそれを外に発信するわけにはいかないのだけれども、全然違うなあ、と思いながらそれを口にするわけにもいかない、というジレンマを抱えている人は多いと思いますよ。だから、一面的なとらえ方の、また自分の元々持っている世界観にむりやり事件を合わせるような発言を繰り返されるような人には、つい、最初に言ったような批判的な感覚を、内心では持ってしまうのだと思うのです。見えていない世界があるかもしれない、とは想像してほしいです。

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■「児童相談所」にかかわってみて■

松原:

さきほどのツイッターの話ですが、たとえばそのライターさんのツイッターを見てる人は「児相は全然動かないんだ」というふうに受け取るじゃないですか。たとえば大阪の事件があって、それを受けて表面的な批判ばかりしている。僕はあの事件の刑事弁護を担当しました。あの事件でも、もちろん法廷ではいろいろなやり取りがありましたけれど、そして僕も法廷では相当に強く児相の対応を批判しましたけれど、その経験を踏まえて、やはり僕も、虐待を最前線で扱う現場にきちんと入らないといけないと思っていますし、その後そのような活動も始めています。

藤井:

児童相談所は数も人数も足りないと僕は思っているのだけど、その松原さんが関わっている児相も担当するエリアは広いでしょう。

松原:

広いですね。現場で例えば児相のスタッフが踏み込んだりとか、子どもを一時保護したりとか、または虐待通告があった時の対応とか、虐待の情報提供があった時の絞込み方という事をきちんと自分の目で確認して──僕は虐待問題については発言できる立場にいると思うので──言う事はきちんと言おうと思って入ったのです。ある程度、想像はしていたけれど、現実は大変なのです。そんなに簡単に割り切れるケースばかりじゃない。

藤井:

仕事的には、警察官同行で立ち入らないといけない事案であるとか、強制的に子どもを保護しなければならない事案について違法性が無いか、この問題に詳しい松原さんが弁護士としてチェックするという事ですか。

松原:

児相の方針から全てです。例えば、ネグレクト気味になっている家庭にどう入っていって、親子関係を造り直していくか、それが無理だったらどう切り離すか、切り離した後でどうするか・・・そこには万時、法律等も入ってくるから、児相のスタッフといっしょに関わります。

藤井:

すごく重要で大変な仕事だ。どんどん複雑な事案が増えていませんか。

松原:

最近は、外国人と日本人との間の子供で出生届を出していないから、本来なら小学生になっているはずが学校にも行けていない事例もあります。孤立している外国人の母親をコミュニティにつなげていって、子どもをどういうふうに学校に繋げて、親の在留資格もちゃんと得て、家族としてちゃんと成立させるかというのを、たとえばやっているのです。児相には、そんな話がてんこ盛りなんです。それで警察が介入するべき緊急のケースは、後からふりかえれば何とでも、批判でも言えるけれど、その段階ではなかなか対応できないことが多いのです。

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■「刑事弁護人がストーリーをつくる」という言い方に違和感がある■

松原:

今の話の筋とはずれてしまうのですけれど、「弁護士がストーリーを作っていく」という言い方自体に、僕は凄く違和感があります。もちろん藤井さんが見てきた弁護士達の中には、こういう弁護手法を取る方は確かにいると思います。あと最近、ケースセオリーという言葉が、刑事弁護をしている人の中で流行りになっていて、そういう様なストーリーを組み立てるのは実際にあると思う。ただ少なくとも、僕はそんなストーリーは作るものではないと思っています。そうではなくて、被告人本人が言ったことで、最後まで譲らなかった話であったり、また被告人本人が絶対に裁判所に伝えたいことであったりすることを最後にはきちんと伝えることで、刑事弁護はかたちづくられていくのです。もちろん、そういった被告人の言い分や話でも、最終的には「それは通じないよ」ということはあります。でも結局は、被告人本人がきちんと語る事が、本人にとって必要になっている話であれば、刑事弁護人としては裁判に出さざるを得ない。それはストーリーを作るということとは、全然違う話です。

藤井:

いわゆる、弁護方針という言い方があるでしょう。例えば、弁護方針として争う所と争わない所を作るとか、精神鑑定をしっかりやらせるとか。そのくらいは一応あるわけでしょう。

松原:

刑事訴訟の法廷で弁護人がやるべき事は勿論あるから。それは結局、ストーリーという言葉を使えば、被告人等の本人がその人のストーリーを歩いてここまできたので、それをそのまま「何故この事件が起きたのか」を説明する為に使います。そのときに使えるとされる方法は、すべて使用します。結果的に、遡ってみたらそれが弁護方針と見られるのかもしれません。

藤井:

そうか。ストーリーというのはある意味で結果であるというのが松原さんの考えなんですね。すべての刑事弁護人が松原さんのような考え方だとは思えないけれど、弁護方法のあれやこれやが、社会から見ると、弁護人が絵を描いたと思わせるような弁護ストーリーに見えてしまうんだと思います。僕は取材者として殺人などの刑事事件の裁判をたくさん見てきたけれど、被害者の側から見ると、とりわけそう見えてしまっていると思う。だから刑事弁護人は「悪役」になる。

松原:

僕の独断と感覚だけで刑事弁護をやるわけにはいかないから、刑事弁護とはどういう事なのかを理屈でも詰めて考えた結果として、僕は弁護をおこなっています。刑事事件に弁護士が必要なのは、「全てが敵でも最後は~」という話はあるけれど、被告人本人の側に立つ人間がいなければ、ただの魔女狩りになるということと裏腹です。

松原:

刑事弁護という弁護活動があって、その中核に被告人がいると言われています。真実の発見を弁護士が裁判所と被告の両方を見据えてやるべきだと言われていた時代が戦後しばらくはあったけれど、現在は検察官がいて、弁護人がいて、裁判官がいるという法が分けた構造を執っているのは、弁護士が裁判官的な役割や検察官的な役割を持ったら、その制度の自殺行為だからでしょう。

だから、ものすごく分かりやすく言うと、「被告本人はこんな事を言っているけれど、こんな事は事実ではないという事は、僕は分かっていますよ。でも弁護をするのですよ」と見えるような弁護活動は論外なんです。

藤井:

でも、じっさいはそのように見えてしまう刑事弁護活動は多いです。逆に弁護側から「検察のでっち上げたストーリーだ」という言い方がよくされるけれど、そういう対立の仕方にメディアや社会が引っ張られすぎるという面はたしかにある。

松原:

藤井さんが見て感じるように、僕が時々色んな刑事弁護人と若干、距離がある様に感じるのは、「『利益』をどこでみるか」という所で違うのだと思います。法廷とか量刑とかそういった所だけを見て「被告人の利益」を判断するのか、それとも、もう少し実質化して、社会の中での被告人という人間の人生として見るのか、という所が多少違うのかもしれない。

第2回につづく

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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