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事件当事者の名前を出す「意味」がこれほどまでに議論されない国で考える(第四回)

藤井誠二ノンフィクションライター

今年2月に川崎で起きた13歳の少年が18歳の少年らによって無残なかたちで殺害される事件が起きてから、少年の実名報道に対する議論がかまびすしい。少年法をもっと厳罰化せよという政治家もあらわれ、社会はそうした意見におおきく共振しているように見える。一方で、18歳選挙権法や国民投票法などの成立を見据えた流れもあり、少年法も18歳に引き下げるべきだという議論も合流してきた。

少年法の厳罰化と実名報道は、はたしてリンク議論なのか、報道に携わる者はどう考えればいいのか、社会は現在のヒートアップ気味の世論をどう受け止めるべきなのか。問題点を整理しながら、『英国式事件報道 なぜ実名報道にこだわるのか』の著者である共同通信記者の澤康臣さんと語り合った。

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■判例を作ったのはいったい「誰」なのか

■パブリックのために報道すること・報道しないこと

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■判例を作ったのはいったい「誰」なのか■

藤井:

公共の一員という意識が前提としてあり、それが報道にもあらわれるのではないかということですね。犯罪報道はとくに公共性が高い。少年法61条には、永山則夫http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B1%B1%E5%89%87%E5%A4%AB )や山口二矢( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E4%BA%8C%E7%9F%A2等以外、原則的には従ってきた。1990年以降、出版社系週刊誌がときどき実名報道をおこない、実名報道された加害者から訴訟をおこされて、司法も半断してきたということが繰り返されてきた流れです。隠すから反作用として暴きたがるという意識もはたらくと思うんです。隠されていたものを暴くというのはメディアの仕事の一つですし、隠すものはないという前提が変われば、状況はまた変わる部分も出てくるかもしれないとも思ったりします。

ところで、少年61条は本来は本人を推知できる報道すべてを禁止していますが、それが顔写真と名前と学校名だけふせときゃいいというふうに慣例化しています。ぼくのスタンスは、事件発生から時間が一定程度経ったあとで取材して長いものを書くことが多いのですが、名前は一文字変える程度か、被害者や遺族と相談をしてAとかBにすることもあります。それから逆に、精神鑑定書や刑事資料として提出された加害少年の日記や手紙も使いますし、刑事逆送されなかった少年審判で保護処分になった事件の非公開の精神鑑定書等の内部資料も使います。事件に関係がないと思われるプライバシーは慎重に腑分けはしますが、それらを使って克明に事件を再現します。自分で言うのはヘンですが、そちらのほうがよほど「プライバシーをおかしている」のに、61条違反だと言われたことはありません。

澤:

名前と顔だけ出さなきゃいいという思考停止かもしれませんね。61条的には訴えられたら、鑑定書もアウトになる場合もあるかもしれませんが、実質的議論がないのは本当にだめだと思うんです。

実名をなるべく出さないようにという社会の在り方によって、日本の弁護士さんはかえって不利な状況になっていると思うんです。弁護士の方々に生意気ですが「判例は誰がつくるものなのでしょうか」と質問すると、裁判官や裁判所がつくるというお答えが多いです。でもそうでしょうか。アメリカの「ミランダ・ルール」は逮捕、勾留して警察が取り調べる際には、弁護人選任権や黙秘権など四つの権利を告げてからじゃないといけないというルールです。そこの「ミランダ」というのはアーネスト・ミランダという被告人の名前です。彼と弁護人が闘い、連邦最高裁まで争ってこの「ミランダ判決」、正式には「ミランダ対アリゾナ州事件判決」が出て、ミランダ・ルールが出来たのです。

藤井:

アメリカの犯罪もののドラマや映画にはそのシーンが必ずといっていいほど入っていますね。

澤:

つまり、この判例は市民アーネスト・ミランダが作ったんです。そしてどんな裁判例も、作ったのは公の場に出て堂々と意見を戦わせた市民です。アメリカでは高校生がミランダ・ルールを習うと聞いたことがありますが、その高校生たちの心の中には「市民アーネスト・ミランダ」が果たした役割と、ミランダのような一人の市民がそういう役割を果たすのだという感覚が育つと思います。裁判所による「お裁き」や司法当局の権威ではなく、市民一人一人の誇らしい歴史があることを知るんです。

逆に、そういう市民への想像力を働かせるチャンスを大きく損なっているのが、日本独特の「匿名化された判例集」なんですよ。イギリスやアメリカでは訴訟、判例の名前は「誰それ対誰それ事件」です。そういうふうに考えます。黒人と白人の学校を分けることを違憲とした「ブラウン対トピカ教育委員会判決」、通称ブラウン判決( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E5%AF%BE%E6%95%99%E8%82%B2%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E8%A3%81%E5%88%A4 )もそうです。日本だと最高裁第三小法廷何年何月何日号判決というふうになってしまうでしょう?

藤井:

そうですね。日本だと判決も匿名的になっちゃう。アメリカの警察ものや犯罪ものの映画やドラマで逮捕の際に警察官が、弁護士を付ける権利などを被疑者に告げているシーンは必ずといっていいほど描かれていますね。( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E8%AD%A6%E5%91%8A )ブラウン判決も人種差別の中から勝ち取ったもので、当事者意識が判例名にあらわれている。日本はお上からもらったもの、裁判所様がつくったという意識がある。当事者の存在が忘れがちになっている。

澤:

それでは市民がパブリックなところに出てきて、闘って、主張して、ルールを決めたというふうにならない。裁判所が決めてくださったというふうになってしまう。「名前」はいらないというふうに言うかたは、ほんとうにそう思っているのでしょうか。市民がパブリックに参加して歴史をつくってきた過程をつぶさに目にすることができないし、匿名化された裁判で、弁護士や検察官や裁判官もそう考える力を奪われてしまっていると思います。

藤井:

新潮社と高山さんの判決は、訴えた加害者が取り下げてしまったので高裁で確定しましたが、最高裁が判断しなかったから効力がないという法律家のかたもいるけれど、内容よりお上意識を大事にする意識を感じますし、そもそもあれは、「高山判決」とでも呼ばなければならないものだし、新潮社対加害者の名前の判決ともいうべきですね。さきほども触れましたが、あの高裁判決では、名前が必要な必然性はないと裁判所が言っているわけだから、匿名裁判をよしとする意識をあらわしたものとも言える気がします。

澤:

「堺通り魔事件判決」と言ってもいいけれど、当事者に対するリスペクトは生まれにくい。私人というふうにざっくり言わないで、誰もがすこしずつでもパブリックに参加しているから民主主義なんです。些細な指摘かもしれませんが、その感覚は日本の判例からは生まれないと思います。むかしは少しはありました。生活保護の朝日訴訟( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%A8%B4%E8%A8%9F )とか、教科書検定裁判の家永訴訟( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%B0%B8%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E8%A3%81%E5%88%A4 )とか。日本はそれからどんどん後退している。実名を出さないのがデリカシーだと思っている人も多い。でも、死刑の適用基準は「永山基準」というけど、本来は少年法上は「永山」なんて言ってはいけないのに。

藤井:

たしかに、捩(ね)じれてますね。61条を教科書的に守れば「A規準」にならないといけないのに。少年事件でも、死刑が確定すると朝日と読売は実名、毎日は恩赦があるかもしれないと匿名のままですが、共同は?

澤:

光市母子殺害事件に関していえば、共同通信は実名です。

藤井:

共同配信の配信を受ける地方紙もそのまま実名なのですか? 勝手に変えたりしないんですか?

澤:

共同通信から記事の配信を受けている新聞社、加盟社というんですが、ほとんどは共同通信の配信のままだと思います。が、中には独自の基準で光市事件の死刑囚を匿名にしている新聞社もあります。それぞれの編集局で真剣な議論を尽くした結果ですから、当然尊重すべきだと思いますし、各社独自の判断があってしかるべきだと私は思います。

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■パブリックのために報道すること・報道しないこと■

藤井:

新聞などの古くて大きなメディアがそうなので横ならびになっていると思いますが、それを各社が判断して、匿名をやめるという議論が起きないのはどうしてなんだろう。社会の「公器」だから、悪法でも守らなくてはという意識ですか。

澤:

個人の反省にもつながりますが、アメリカでも、少年事件を含めた言論の自由は法的な権利が最初から強かったわけではないと思うんです。言論、報道の自由を定めた憲法修正第一条はすばらしいけれど、それをどう具体的な場面にあてはめるかで、マスコミはたくさん訴訟を起こしているわけです。このルールはおかしい。解釈はおかしいと。たとえばバージニア州の新聞社「リッチモンド新聞」は刑事裁判が例外的に非公開とされたのは不当だとして裁判を起こし、勝っています。

サリバン事件( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E7%9A%84%E6%82%AA%E6%84%8F )のように、訴えられてメディアが勝った事件もたくさんあります。これらを含めて、常に勝負しているわけです。そうじゃないと権利は広がらない。日本では、たとえば『新潮45』にしても訴えられた側なわけで、マスコミから「取材、報道を妨害するな」「情報を公開せよ」と裁判に訴えことはあるでしょうか。ほんとうなら闘っていかないと、どんどん表現の自由は狭まっていく。政府が弾圧した、というような「権力対表現の自由」のという枠組みだけではなく、名誉やプライバシーが絡むからと言って、報道が過度に抑圧されてはよくない。

当事者の利益は大切です。報道により当事者が受ける迷惑や被害は深刻だというのは分かります。弁護士さんたちはその当事者の代理人として、その立場で当事者の利益を追求されるのは当然だと思います。極論すれば「当事者の利益のためには、一切報道がない方が良い」という主張だって、当事者の立場に立てばあり得るでしょう。

しかし、パブリック、つまりみんなのためにどうなのかを考えれば、報道しないわけにはいかない、名前も含めてきちんとした記録が必要なんだということを議論していかねばならないと思っています。パブリックディベートのために必要だ、という問題提起です。当事者が許可するから、あるいは当事者が求めているから…例えば仮に被害者遺族が自分たちの顔も映してほしいというから映すというわけではなく、パブリックのために価値があることと考えているから報じる、ということを重大な柱としなければいけない。となると、当事者の方々がやめてほしいという場合だって、申し訳ないけれど熟慮の末、報道せざるを得ないことがあるということです。パブリックということと、当事者の利益とそれぞれ独立しているということです。そこのバランスをとらなければならない。

藤井:

そう考えると、少年事件の匿名報道も協定的な約束にしておくんではなくて、きちんと大手メディアが法的に闘ったほうがいいと思うんです。犯罪報道だと、殺人と強姦が行われても、遺族の気持ちを察して強姦の部分だけ報道しないときもあります。が、裁判では出るわけですし、遺族は全部きちんとありのままに書いてくれという方がほとんどだと思います。メディアの側が勝手に自主規制しているだけだと思うんです。それが暗黙のルール化している例がいかに多いことか。

次回に続く

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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