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事件当事者の名前を出す「意味」がこれほどまでに議論されない国で考える(第五回)

藤井誠二ノンフィクションライター

今年2月に川崎で起きた13歳の少年が18歳の少年らによって無残なかたちで殺害される事件が起きてから、少年の実名報道に対する議論がかまびすしい。少年法をもっと厳罰化せよという政治家もあらわれ、社会はそうした意見におおきく共振しているように見える。一方で、18歳選挙権法や国民投票法などの成立を見据えた流れもあり、少年法も18歳に引き下げるべきだという議論も合流してきた。

少年法の厳罰化と実名報道は、はたしてリンク議論なのか、報道に携わる者はどう考えればいいのか、社会は現在のヒートアップ気味の世論をどう受け止めるべきなのか。問題点を整理しながら、『英国式事件報道 なぜ実名報道にこだわるのか』の著者である共同通信記者の澤康臣さんと語り合った。

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■少年の実名報道は社会復帰の妨げになるというロジックについて

■実名報道は「厳罰化」ではなく、犯罪報道とは何かという問題

■名前は重要な事件のディテールの一つだ

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■少年の実名報道は社会復帰の妨げになるというロジックについて■

藤井:

ところで、少年の実名報道はから社会復帰の阻害になるという、たとえば日弁連が反対するような論についてはどうお考えですか?過去の判例では、裁判所は侵害された61条に決められた法益はない、と言っていますが、メディアは基本的には社会復帰の妨げになるという少年法のロジックには、いちおう賛成しているというポーズはとっているのだと思いますが。

澤:

私自身も、報道が社会復帰の妨げになる可能性があるという議論には同意しますし、その妨げにならないよう少年に関しては報道を抑制するという少年法の精神自体には高い価値があると思っています。社会復帰できないとパブリックな意味でもまずいわけです。でも、そこのバランスを取るためにはケースバイケースで考えていくしかないんです。イギリスでも裁判官が刑事裁判の被告人になった子どもの名前を出すなと命令をするときもあります。それから日本の家裁の少年審判にあたる少年裁判所にかかると、こちらは自動的に実名禁止になります。マスコミは法廷の中に入れるのですが、名前は書いてはいけないと法律に書いてある。匿名にする理由は日本と同じです。ただし、報道が社会復帰にどれぐらい影響しているかは簡単には測れないです。人によっても、事件によっても違います。

藤井: 二十歳以下は可塑性が高い、だから実名は禁物という考え方です。社会的にそう考えられてきて、矯正システムもそれに沿ってつくられてきた。二十歳以下は未熟という考え方もそうですが、例外はないという運用の仕方にはやはり問題があると思います。本鈴の一線をどこかに引く議論はしてもいいと思いますが、未熟だから匿名にしろというのだったら、30歳くらいまで上げるべきじゃないかと思うほどです。

澤: どんな人だって「変われる」と思います。メディアも含めた社会全体で支えることが必要ですが、難しいバランスをとりながら、パブリックな情報なのかどうかと考え合わせなければなりません。ですが、日本では原則的には法に反することはしていない。そんな中、厳密には少年法に反するかもしれませんが、光市事件では確定してから大半のマスコミが名前を出しました。でもそれは、死刑になるほど悪いやつだから、マスコミが叩くという理由ではない。その考え方は間違っています。そうではなく、もし匿名をみんな維持してしまった場合、死刑制度のもとで誰が死刑を執行されるのか。社会の大衆的なチェック機能、パブリックな議論の機能は大きく損なわれます。日本国家はある者を死刑に処する予定である。死刑判決、死刑執行の是非を論ずるのは自由だが、ただし誰のことであるかを公に話すことは法で禁じる。そういうことです。

藤井:

冤罪でくびり殺されるという前提も欠落しているかんじがします。日本では、社会公益性を「鬼畜だから」という理由に言い換えて、実名で報道すると版元が決めているように見えてしまっていると思う。それを裁判所が追認していくような循環はどうかと思います。

澤:

「鬼畜だから」は本当におかしいですよ。それにどんな事件もそれぞれ違うし、自動的に答えがでるものはないんです。それでは安直です。死刑が確定したら自動的に名前を出すということでも、その「自動的」になってしまう姿勢ではおかしいように思います。

藤井:

情報番組で、非行少年の厚生施設を運営している元不良少年という方が出ておられて、そこに入っている少年たちも「実名が出なかったから更生できた」とか「安心して、立ち直りができた」とか言っていた。はげしい違和感を覚えました。更生したのは、その運営者の方の人格や指導方法が立派で、かつ少年たちがやり直したいという強い気持ちがまず第一にあってのことだと思う。実名報道されたら更生できなかったのか、と。そういう文脈で編集して報道した側の意図もあると思うけど、実名・匿名報道問題が教育や矯正の問題としてしか議論されないのはほんとうにダメだと思います。

澤:

実名報道と匿名報道で、どちらが更生しやすいかと比較するならば、それは匿名報道だとは思います。でも、おっしゃるとおり、その要素が実際のところどの程度大きいのかはあまり詰めて検証されていないように思います。逆に、報道なんて世の中に意義がない、大衆に生の情報や細かい事実関係を知らせても無意味だ、という暗黙の批判や不信があるから、実名報道のメリットとデメリットのバランス評価がデメリット側に大きく振れるのでしょうね。

藤井:

ジャーナリストの青木理さんは、少年法の厳罰化には批判的だと思いますが、長良川・木曽川事件の死刑囚と面会して、その模様を隠し撮りして、名前も顔も写真週刊誌に出して問題になりました。死刑にも彼は否定的ですが、死刑が確定してしまうと閉鎖されてしまう加害者の情報をもっと伝えるべきだというポジションでやったこと、それには大賛成です。ぼくとたぶん青木さんとは刑罰感では意見が違うと思うけど。

澤:

私は彼のやったことをとても理解できます。私も厳罰化には基本的には反対なんです。たぶん藤井さんとは意見が違うところだと思いますが、被害者がのぞむ刑罰がいい刑罰だとは思わないです。

藤井:

ぼくは被害者がのぞむことと、それが「正しい」かどうかは別問題です。「のぞむ」罰が正しいとはぼくは主張していなくて、そこは誤解をしてほしくないのですが、あくまで別問題です。そもそも現実的に「のぞむ罰」が実現可能性があるかどうかで言うと、ないです。家族を殺害された遺族の大半は「同じ目にあわせたい」と応報をのぞみます。同じ目ということは極刑ということです。じっさいにそんなふうになるはずがないし、死刑判決は殺人事件の加害者のごくごく一部ですし、ここ数年は死刑求刑も減ってきている状況です。それは被害者遺族の側もわかっています。私は厳罰には否定的ではありませんが、罪と罰との関係はさまざまな要素で決まっていくものです。

澤:

厳罰や応報に重きを起きたくないですね。そして、死刑囚を社会から断絶するのは問題があります。

藤井:

死刑囚の置かれた状況については大きな問題があり、そこはまったく同感です。それは被害者遺族ものぞむかたが多いというのがぼくの印象です。人の命を奪う刑ですから、そのプロセスもオープンにしていくのは当然だと思いますし、死刑も含めた刑罰を決める過程に国家がアクセスさせないようにしているのが日本です。

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■実名報道は「厳罰化」ではなく、犯罪報道とは何かという問題■

澤:

イギリスやアメリカで刑事記録を見るのは普通だというのはそこなのです。それは刑罰は残酷なもので、それを科して良いのか審査する過程を監視するためにこそ裁判は公開され、そして裁判の公開は記録の公開ということなんです。アメリカ連邦裁判所の刑事記録はインターネットで見られ、PDFでダウンロードできます。それは検証のための基本資料として社会全体に開かれているからです。調査報道のイロハのイは裁判資料です。これがオープンにできないのは暗黒裁判と同じですよ。

藤井:

日本は刑事記録を八方手を尽くして苦労して手に入れることから始まりますよね、残念ながら。それから刑事記録もリストがないから、どういう記録があるかも正確にはわからない。一部、刑事事件で刑事弁護人がマスコミを味方につけるために刑事記録を一部のメディアにばらまくケースもあるけれど、とてもアンフェアーなやり方です。しかし、いまは「刑事記録の目的外使用」で問題にされると困るから公にはやらないようになっています。

澤:

私は弁護人がメディアに刑事記録をふくむ様々な情報をどんどん提供してほしいとは思いますが、その意味でも「目的外使用」禁止はほんとうにおかしいです。刑事手続きでは身体の拘束、自由の剥奪や日本の場合は死刑もあり得ます。だから暴走、乱用を防ぐためみんなで監視する、よって公開が必要だというのが近代司法の大原則であり、国際人権規約にも明記されています。それを考えると、刑事記録は様々な公文書の中で最も、墨塗りなしの公開が保障されていなければ危険なんです。

藤井:

実名報道は厳罰化と思われているけれどぜんぜん違います。実名報道はいま澤さんと議論させていただいているような報道・表現の自由、パブリックな情報とは何かという論点から考えなければならないことです。毎日新聞でも80パーセント以上が18~19歳についての実名報道賛成ですが、18歳選挙権ともあいまって、もっとごっちゃになってしまっている。

澤:

マスコミが犯罪報道を自制心のもとにおこなわなければならないという主張はまったくその通りなのですが、その手法が匿名報道でいいのか、という疑問があります。それは元をたどっていくと、マスコミに対する不信につながっていくのか。マスコミが実名で記事を書いたら、その人が何らかの差別的な悪影響を受けるというのなら、それは報道の先にいる市民の行動の問題であって、マスコミそれ自体に対する不信感ではないのか・・・。市民に「知らせる」という「報道」という機能が私たちの市民社会の中で重要でなくてはならないものである一方で、いまマスコミ不信と言われているものの一部には、そんな市民不信のあらわれもあるんじゃないかとも思うんです。

藤井:

市民不信。なるほど、それが基底にあるともいえそうですね。つまりその情報を受け取った社会のリテラシーが低いということを共有しているということですか。だとすると、報道された事実が正しいか、間違っているかという位相とはズレたところで、そういった不信感が顕在化しているわけか・・・。ところで、最近、インターネットの大手プロバダーの間で、「忘れられる権利」というものが議論されています。検索してもヒットしないように個人などの情報を削除してほしいという要請に応えるものです。事件関係は削除の対象にならないようですが。

澤:

イギリスの『ガーディアン』紙はそのあたりを批判する内容の記事をたびたび掲載しています。ジョージ・オーウェルの『1984』のように、歴史をメモリーホールというごみ箱にいれて消してしまうようなものだと。歴史の一部を、誰かにとって問題があるから消してしまえという発想はぜったいに許されないというのがジャーナリズムの立場であるという考えが背景にあるのです。

藤井:

1998年に発覚した「女子高校生コンクリート詰め事件」の加害者だと、芸人のスマイリー菊池さんが20年以上決めつけられ、誹謗中傷の被害にあってきた。そういうデマや間違った情報とは分けて考えるべきだと思います。

澤:

それは間違った情報だと発信していくことで打ち消していくほうがいいと思う。より克服できる、より有効な情報を提供していく。そして市民同士が賢くなっていくというやり方がいいと思う。

藤井:

上書きして「忘れられていく」、情報には情報をかぶせていく。引き算や消去ではなく。

澤:

犯罪報道すると犯人だと思われるというけれど、足利事件の犯人として長年、冤罪で投獄された菅家さんを支援してきた女性は報道を見て「あれっ?」と思って、菅家谷さんに面会に行って、冤罪を晴らす活動をされた。立派な方だと思いますが、そういう受け取り方をされる方もいるのです。いろいろなフックがあるべきだと思いますが、報道するときに、「市民」は偏見を持つものだ、そしてまた「市民」には名前はいらないというような立場には立ちたくないですね、私は。

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■名前は重要な事件のディテールの一つだ■

藤井:

少年事件は地元では加害者や被害者がどこの誰かがすぐにわかります。たとえば、ぼくが取材した事件だと、1999年に起きた同級生だった男(当時17歳)が女性(当時16歳)をストーキングの上、殺害した西尾事件http://matome.naver.jp/odai/2139442851395503601もそうですが、事件から10年経って加害者と被害者の同級生が集まって、ぼくに連絡をくれた。ぼくは名前は実名と一文字違いで『殺人を予告した少年の日記』というノンフィクションを出しましたが、事件の詳細を描きました。加害少年の日記も公開して、精神科医に分析をしてもらいました。その記録があったから、同級生たちは集まるようになり、ずっと10年間読めなかったぼくの本を読んで、自分たちは何を考えて、行動したらいいのかを話しあったそうです。遺族の支援を彼女たちはおこなっています。加害者は地元に戻り再犯をして再び服役しましが、男をどのように警戒するかなど、考えています。記録があったから、当時の記憶が辿れた、と同級生たちは言っていました。やはり、克明なディテールは大事です。

澤:

ええ、ディテールは大事です。一つの犯罪の「歴史」はディテールにこそ、当時の時代があらわれます。それがフックやタグになり現代とつながっていく。ほかの歴史研究でもそうです。それから、被害者や遺族の心身の修復の問題もとても重要ですが、加害者の更生にも社会が注力しなければならないと思います。

藤井:

先ほども触れましたが、更生は匿名だったからできたという方がいますが、違うと思う。それは何よりも本人の立ち直りたいという努力や、贖罪の意志、その少年を支えていく支援者の大人たちがあってこそで、実名報道されてたら再犯してもいいという免罪符にするつもりでしょうかと言いたくなる。そうした支援や、職が必要なんです。これは統計にあらわれていますが、社会復帰したあと定職についているかどうかで再犯率が倍以上も違ってきています。協力雇用主を増やすとか、更生するシステムをつくっていくことが大事で、名前云々じゃないと思う。

澤:

報道との関係はあるだろうと私は思うし、そのことは自覚せねばと思います。でもそれ以上に実務的には名前を変えることや、受け入れる社会の場所の問題で、名前を出したから更生できない、出さないから更生できるということに終始するような単純な話ではまったくないと思います。

藤井:

そう弁護士が法廷で主張するのはいいとしても、社会復帰後は責任持たないし、持つこともできない。地域では誰なのかわかっているし、二十歳以上は報道される。どちらにせよ、加害者本人は自分の責任として引き受けて生きていかねばならないのです。被害を与えてしまった相手がいたら、何よりもそこと向き合わねばならないのです。贖罪とは何かを一生かかって考えねばならないのです。匿名報道はそうした「考える」ことを逆に奪うことにつながるケースも多い、とぼくは思っています。

澤:

犯罪はなかったことにできない。報道上、「なかったこと」にしても、完全に隠したままでは就職できないでしょう。どっかでなかったことにできないことにぶち当たるのではないかと思うんです。

次回に続く

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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