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久田将義氏に「生身の暴力」を聞きに行く 第三回

藤井誠二ノンフィクションライター

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■不良少年たちの「ノリ」の暴力

■マイルドヤンキーなる言葉は本物に接したことがない社会学者の言葉遊び

■やり返されることがない前提の「暴力」

■神戸連続児童殺傷事件をあらためて考える

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■不良少年たちの「ノリ」の暴力■

藤井:

「ノリ」と「憎しみ」のような感情というのはどう相関するのかな、と。あるいは関係ないのか・・・。激しい怒りや憎悪がないと暴力は普通人間はふるわないと思いますよね。久田さんも取材したと思うけれど、一連の事件からそれを感じないでしょう。

久田:

川崎の中一の被害者の子に対しても、加害者の激しい怒りでも憎しみを感じませんものね。ノリなのでしょう。裸で泳がされたりとか殴ったりとかされている。綾瀬の事件についてもそう思います。

藤井:

拉致してきただけの女の子ですから、強姦目的が最初だった。拉致もその場の「ノリ」だと思います。

久田:

暴走族の抗争とも違う、普通のタイマンとも違うので難しい問題ですね。

藤井:

昔、怒羅権の初期の頃を取材したことがあります。最初は中国残留孤児の三世の子どもたちばかりで、当時日本人グループと抗争が起きて、日本人の暴走族が一人殺された事件があった。刺した奴を、当時、僕の知り合いだった弁護士が弁護したという事があった。在留孤児の子どもたちは日本に来て、言葉ができなかったりして、いじめられていたから、日本人に対する憎しみがすごかった。だから事件が免罪されるとは思いませんが。「怒羅権」はもともと怒る権利という意味ですし、意図的な反社会なグループで、今みたいに暴走族なのか、半グレ集団なのかよくわからない暴力集団になっていくとは想像しませんでした。

久田さんがこの本の中でも展開している現代の暴力という事を象徴する一つの側面であれば、そこをどう考えるか。

久田:

ノリで殺しちゃったみたいな事だと思うのですけれど、そこがわからないのですよ。僕の感覚で言うと、80年代の後半から、そういう事件が目につくようになったと思います。統計を取ったわけではないですが。バブル期だから不良集団の人数も多いので、分母が多いと変な奴もいるからそうだろうという考え方もありますが、実感としてあのころから変わってきたような気がするのです。でもそのノリの感覚がいまいちわからない。

例えば国士舘高校と朝鮮高校の喧嘩で鼻割り箸というものがあったと言われてますが、鼻に突っ込んで蹴る。そんなことしたら、人間死にます。国士舘の人に訊いても、あれは無いよねと。

藤井:

ぼくも中学生のころ──名古屋なのですが──喧嘩したら絶対やられるって皆言っていたのだけれど、誰もやられたことはない。朝鮮学校のOBの友達に聞いても、やらないって。映画の「パッチギ」の世界は実在したけれど。

久田:

割り箸は都市伝説ですよね。

藤井:

完全にそうですね。「パッチギ」でも描かれていますが、朝鮮学校の男子は実際、喧嘩は強かったみたいです。

久田:

それこそ怒羅権じゃないですけれど、似ていますよね。だからこそ、「ノリ」で殺す人々の80年代型の少年犯罪はちょっと分からないんです。明治大学の学生が鎌ヶ谷ナンバーワンの暴走族の人間に殺害された事件を取材したことがありますが、加害者にぼくは会いに行った事があります。それはノリっぽいのですが、シンナーをやっていたみたいなので少し違うかなと思いました。シンナーにはまっていた不良はいたから、そのあたりと「ノリ」を合わせて考えるのは難しくて、なかなか解き明かせない。だいたい、彼らは「ノリです」と言うから。

藤井:

薬物がノリを増幅させるという言い方はできるかもしれないけれど、たとえば、「ノリでムカついたから」とか言われると、わからないですよね。傍目で見るとムカつく理由も見当たらない。

久田:

深く解き明かして、言葉では説明できないです。そのノリ的なものは80年代の後半から今に至る、若い連中の集団リンチに通底はずっとしていると思うのですが、理由が分からない。

藤井:

ぼくはノリということを簡単に説明しないほうがいいと思うんです。すぐに、親からの抑圧があったとか、学校から疎外されていたとか、「ノリ」を被害者的に見てしまって、暴力の根源をさぐる、ステレオタイプの子どもの「暴力観」がぼくにはなじめなかった。少年事件の弁護とかに使われるロジックですね。ぼくもそういうふうに理解しようとしていた時期もあったんですが、それはそれで一つの偏ったイデオロギー的なものだなあと。逆にそういう枠にはめて見なほうが良くて、わからないものを、ずっと考え続けたほうがいいと思うのです。久田さんの本を読んであらためてそう思いました。

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■マイルドヤンキーなる言葉は本物に接したことがない社会学者の言葉遊び■

久田:

たまに「マイルドヤンキー」という言葉を使う人がいますけれど、ぼくは否定しました。ヤンキーにマイルドもハードもなく、ヤンキーか一般人しかない。川崎市の中一もマイルドヤンキーと言う人はいますけれど、ヤンキーではなくて一般人です。一般人だって髪の毛を茶色にしますし、ピアスもしますし、タトゥーもします。本当のヤンキーは暴走族。マイルドヤンキーというのは、本当のヤンキーに接した事がない社会学者の言葉遊びだからと本書では否定しました。極悪という暴走族に聞きましたら、「非行少年じゃないの?」と言われた。「俺らは不良少年だけれど、そいつらは非行とか非道じゃないの」と言っていました。それを使わせてもらいました。

藤井:

そこはどういうふうに線を引けば違いが分かるのでしょうか。

久田:

そこなのです。不良は不良で悪さをするのですけれど。

藤井:

取り締まる、例えば警察から見たら、やる行為に対してあまり区別はないですよね。

久田:

暴走族でも強姦をしている奴はいますからね。だから一概に言えないです。僕も暴走族を美化するつもりはないし、ボコられた事もあるから嫌なのですけれど、一応先輩後輩の筋を通すみたいなところがあるじゃないですか。マイルドヤンキーと仮に言いますけれど、奴らは筋がない気がします。そのような感情論になっちゃうのですけれど。

藤井:

先程の「デビューが遅い」というのは、見方としてぼくも正しいと思うのですけれど、暴力自体に憎しみや感情がなくて、なおかつ弱い奴というか──性犯罪や、川崎事件でも被害者は身体もちいさな、まだあどけなさが残るような子どもです──そういう方へ向かうという特徴もあります。完全弱者に対してだったりする。ぼくが取材したケースでは、例えば片足が障がいで麻痺している障がい者の子をボコボコにして殺しちゃったりとか。そういうのが割とあるのです。久田さんの経験でいったら、そんなやつは不良の風上にも置けないでしょう。

久田:

その世界では生きていけないでしょうね。

藤井:

生意気だから殺すと。そういうのが結構多いのです。最初から優越というか、勝ちが決まっているというか、やる方にリスクがない。

久田:

通底していますね。流れが続いているのですね。それははたして「デビュー」なのかな。デビュー論も当てはまる気がしますけれど、それが全てではない気がします。

藤井:

「デビュー論」に当てはめるとするならば、そういうふうに絶対勝てる相手をボコボコにする悪いたちがある。昨日、取材で会っていた遺族は息子を殺されたのだけれど、息子さんは子どもの頃に交通事故に遭い、脳が陥没して高次脳機能障害なってしまった。普通学級に行けない子だったのです。その子を8人で囲ってボコって殺したのです。生意気だから、くらいの理由です。それも1999年に起きた事件です。

久田:

悲惨としか言いようがないですね。

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■やり返されることがない前提の「暴力」■

藤井:

久田さんが本書で主張されていることの一つに、暴力というのは生身であったらもちろんそうだし、ネットでも暴力的な書き込みをしたりすれば、必ず返ってくるという事があります。つまり「暴力」はほんとうは必ずリスクがあるし、殴ったら手は痛くなるし、逆にやり返されて、こっちがやられるという事もある。ところが、それが遊び化しちゃったというか、いじめもそうだし、本書の後半で書かれているネットでのヘイトスピーチとかネットの中傷とかもそうだけれど、娯楽化したという捉え方も出来ます。本来、暴力とはとてもデメリットがあるもの。よほどの時しか出ないもののはずです。

久田:

そうかもしれない。「暴力」はリスキーでデメリットなのですけれど、少年達はリスクがない暴力を選んだという事かもしれませんね。選んだ理由は堂々巡りになってしまうかもしれませんが。本当の不良少年のかっちりとしたコロニーから外れた人間達が起こしたもので、ずっと繰り返されるかなと思ってしまいます。コミュニティから外れた人間というのは出てくるものなので。80年代から現代まで繰り返されてしまっているという気はします。

藤井:

暴力が本職のヤクザは、今は暴排条例や暴対法があるからめったなことではやらないし、暴走族だってそれこそ80年代にくらべれば何十分の一以下でしょう。

久田:

特にヤクザは殴れない時は、口で威圧するのが商売。プロですから。別に喧嘩が強いからヤクザになった訳ではない。

藤井:

漫画やフィクションの世界みたいに毎日のように殴り合いをやっている訳ではなくて、暴力って最終非常手段ですよね。

久田:

そうですね。ヤクザの場合は刑務所に入るデメリットを考えてやる訳なので、本当に最終手段でやるという事になっちゃいます。

藤井:

少年たちの暴力事件を見ているとそういうのは、抜け落ちている。暴力によって背負うリスクは、自分の命が奪われるという事も含めてです。そこが抜け落ちて、遊び化、娯楽化する。今のネットに繋がる感じもします。

久田:

ネットのせいにしたくはないのですけれど、ある程度加速装置になってしまったかなという気はします。だからといって、否定する訳ではないのですが現実としてそうではないかと思いますね。

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■神戸連続児童殺傷事件をあらためて考える■

藤井:

この本の中で久田さんが一番中心的に力を入れて書いたのはというのはどこですか。

久田:

最後の「強さとは何か」ですね。結局今おっしゃったように、暴力は殴れば手が痛くなる、当たり前のことも含めて、覚悟の問題です。覚悟があるか、どうか。想像力が抜け落ちているのではないかと思う。そうすれば暴力は振るわない。ヤクザを肯定するわけではありませんが、ここで殴るか殴らないか、メリット・デメリットはあるかと想像力を働かせているわけです。そこの覚悟がない。それがあるかないかは大事なのではないか。気に入らない相手に気軽にノリで絡んでくるやつとか──藤井さんもそういう人にツイッターで絡まれたりすると思いますが──僕もよく絡まれますが、書くのは自由なのでそれを否定しているのではないですが、その後に晒されちゃったり、絡む相手が悪かったりしたら逆にとんでもない目に遭うかもしれないという想像力に欠けている人が多いのではないでしょうか。自分がやったことに対して何をされても良いという覚悟があれば、それはもう誰もコントロールできませんが。そこは力を入れて書いたというか、強調したい部分ですね。

藤井:

メディアの環境とか、我々が生きる情報の環境が変わってきた。インターネットとかSNSに半ば依存しているような生活が当たり前になり、90年代に入ったあたりからの大きな変化で何か事件や出来事はありますか。

久田:

神戸連続児童殺傷事件は影響力が大きかった気がします。

藤井:

今日スポーツ紙を見たら、あの加害者は手記を出すだけでなく、ブロマガを始めて一日数百万を儲けていると見出しが出てた。(のちにプロバイダーが閉鎖措置。)

久田:

信じられないですね。

藤井:

神戸事件に類するような、この本でも触れられている「人を殺してみたかった」的な事件の加害者は、じつは神戸事件の加害者に憧れていることがじつに多いですよね。最近起きた、名古屋大学生の女子大生だって殺人マニアですから。僕が最初に注目して取材したのは2000年に愛知県豊川市で起きた高校生による老女殺害事件なのですが、同系統だと考えます。そういった病的な事件と、80年代後半からのリンチ暴力が似通ってきたという面もあるのでしょうか。これも仮説にすぎませんが。

久田:

少年殺人で言うと、80年代型がずっとあって、神戸事件から始まったのは「とりあえず人を殺してみた」という感じだとぼくは思っています。藤井さんが取材した愛知の事件や、佐世保の事件もそうなのですけれど、違うルートで来たと思うのです。

藤井:

僕も本質は違うとは思うのです。一方は何らかの脳の障がいが影響もして事件に及んだと言われているけれど、とてもカルい気持ちでやっている訳です。

久田:

そういう意味ではクロスしているかもしれませんね。輪が重なるのはあるかもしれません。名古屋大学の女子は神戸事件の元加害少年に「誕生日おめでとう」とツイートしていたようです。

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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