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清洲城から高台移転してできた名古屋、地名からみた災害安全度

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
熱田台地の北西端に建つ名古屋城(写真:アフロ)

400年前に高台移転した名古屋

名古屋城は、1610年に、徳川家康の命で清洲城から引っ越すことになりました。これを清洲越しと呼んでいます。それに先立つ1586年に天正地震と呼ぶ大地震が発生しました。養老断層と阿寺断層が同時に活動したと言われています。この地震で、戦国大名の城の多くが大きな被害を受けました。内ケ嶋氏の帰雲城、前田秀継の木舟城、山内一豊の長浜城などの被害は有名ですが、清洲城も液状化などの被害を受けました。そのこともあって、大阪の不穏な動きを察知した家康は、川沿いの低地にあった清洲城では心許ないと思い、清洲城を町ごと台地の上に高台移転しました。

ちなみに、清洲越しの翌年1611年には東北で慶長三陸地震津波が発生して、伊達政宗は、仙台のまちを高台に再興しました。そのおかげで、仙台の旧市街地は東日本大震災の津波から守られたと思われます。

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台地の北西端に位置する名古屋城

名古屋城は逆三角形状の熱田台地の北西端に位置しています。台地の北は矢田川が削った崖があります。沖積低地と境いする熱田台地の西端には水運のため堀川を掘削し、また台地の南と東は武家屋敷と寺町を配して防御を固めました。高台移転のおかげで、多くの住家が安全な台地の上に移ったため、戦前までの地震での名古屋の被害は余り大きくはありませんでした

名古屋は、東京とは逆に、東の標高が高く、西の標高が低くなっています。濃尾平野の西にあるのが養老山地です。平野と山地の境に養老断層があります。養老断層で地震を起こすたびに、養老山地が上昇し濃尾平野が下降します。その結果、全国一広大な海抜ゼロメートル地帯ができました。

島、池、塩の地名からみる名古屋の地形の特徴

熱田台地の西側の低地には、津島、枇杷島、飛島と言った「島」地名が沢山あります。周辺にはかつてより輪中堤が作られていました。名古屋駅周辺にも、笹島、亀島、牛島という地名があります。かつては、海原にあった島だったのでしょう。

一方で、台地から丘陵にかけては、今池、布池、広池、大池、池下、池上など、「池」地名が沢山あります。川の無い台地に溜池を作って生活をしていた名残だと思われます。残念ながら多くの池は埋め立てられ、その上には、学校や公共施設が建設されています。

また、台地の南には、汐田、元塩、塩屋などの地名があり、南北には塩付通りが通っています。途中には、塩釜神社もあります。海辺の塩田で作った塩を、信州に運ぶ道が塩付通だったのでしょう。

かつては海だった宮の渡しの南

熱田台地の南端に熱田神宮があります。三種の神器の一つ草薙剣を祀る神社です。2013年には「創祀千九百年大祭」が行われました。周辺には、縄文時代や弥生時代の遺跡や、古墳がありますので、大昔から人が住んできた場所であることが分かります。神宮の脇には宮の渡しがあり、ここから桑名まで、東海道五三次で唯一、七里の海路になっていました。海抜ゼロメートル地帯は、陸路を通すことが難しかったからでしょうか。かつて海の広がっていた神宮の周辺は、干拓や埋立てが行われ、現在は、名古屋港のある海まで4kmもあり、様変わりしています。

西に軟弱地名、東に良好地名の名古屋

図は名古屋のバス停の停留所名を示したものです。青っぽい色が水辺の軟弱地盤地名、茶色っぽい色が良好地盤地名のバス停の有る場所です。図にはバス停名称も合わせて示してあります。デジタル地形図と比べてみると、地名が地形の特徴を良く表しているように見えます。国や自治体が発表しているハザードマップを見ると、名古屋の西南に広がる低地の被害が、揺れ、液状化、津波、水害、何れも大きくなっています。昔の人たちが残してくれた地名に感謝したいですね。

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名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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