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東日本大震災からもうすぐ5年、その日のことを書き残しておきませんか

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

災害を忘れないために

あの日からもうすぐ5年を迎えます。二度と同じことを繰り返さないよう、その時を思い出し、身近な備えをはじめたいと思います。「災害は忘れたころにやってくる」と言います。あの時をわすれないために、皆さんもぜひその瞬間を思い出し、何があったかを書き残しておいてはどうでしょうか。私も、手帳を見ながら地震前後の行動を書き残してみます。

3.11直前の1週間

3.11の前の1週間は慌ただしい1週間でした。1週間前の3月4日には、日本建築学会で、長周期地震動に対する高層ビルの安全性の問題について記者発表をし、長周期地震動対策に関する公開研究集会も開催しました。当日のテレビや翌日の新聞には、長周期地震動への警鐘を鳴らす報道がされました。翌5日は地震工学で著名な先生の退職記念講演会に参加し、6日は名古屋で耐震対策のイベントを行い大阪のテレビ局の取材を受けました。

7日には、私が主査を務めていた建築学会の委員会でシンポジウム「阪神・淡路大震災を振り返り、来たる大地震に備える-建築振動研究に課せられたもの-」を開催し、耐震研究の必要性について議論をしました。

8日は大学で仕事をし、9日には名古屋で南海トラフ地震に対する検討委員会を開催しました。同日、娘の合格発表を見とどけて、翌10日に上京しました。

10日には、防災科学技術研究所主催の地盤データに関するシンポジウムでパネルディスカッション「地下構造情報のさらなる利活用に向けて」に参加しました。同日には東大の合格発表があり、多くの受験生が上京していました。弟家族もその中にいました。

震災前の1週間、巨大地震対策のための研究集会を毎日のように開催し、震災を防ぐ手立てを皆で考えていました。まさにその時に、大震災が起きてしまいました。

3.11当日

当日は、日本建築センター主催の新・技術セミナー「耐震安全性を視(み)える化しよう!」の講師として、東京・青山の高層ビルの15階で、朝10時から一日講習会をしていました。受講者は、建築構造設計者や構造技術者が中心でした。午前中に、巨大地震時の長周期地震動の特徴について解説し、午後には高層ビルの揺れ方について実験を交えて解説をしていました。

まさにその時、ビルが揺れ始めました。受講者から揺れていると指摘され、揺れに気が付きました。すぐに緊急地震速報メールが届き、東北の地震であることを知りました。最初のマグニチュードは8弱だったので、私は宮城県沖地震と勘違いをしてしまい、受講者の皆さんに「今お話しした通りの揺れがこれから生じるので一緒に体験しましょう、現在の揺れは数センチです」と、不適切な解説をした記憶があります。その後、揺れは数十センチまで大きくなりました。揺れる建物から、周辺の建物の揺れや、お台場の方で立ち上がる煙などを窓から見ました。

セミナーはすぐに中止し、受講者は安否確認を始めました。私も、事態の深刻さに気付き、皆でコンビニに食料と水を買いに行きました。ですが、すでにほとんどが売り切れでした。会場と交渉して、夜も受講者が滞在できるように手配し、テレビやインターネットで情報収集を図りました。ですが、情報収集には限りがありました。役に立ったのは、名古屋にいる同僚や家族からのメール情報でした。被災地外の方が、冷静に情報収集できることを思い知りました。また、携帯メールよりも、e-mobileを介した通常メールの方が、早く届くことも体感しました。

揺れ続けるビルの中で、津波によってまちが洗われる様子をテレビで見続けました。地元新聞社の友人の記者からは、「福島原発の上を通って社機で飛んできた。原発は津波で浸水している。沿岸部はどこも津波で大変だ。」との連絡が入りました。私は、ゼネコン勤務時代に原子力発電施設の耐震設計に関わった経験があったため、当日はメディアから多くの電話が入りました。

帰宅困難

夜9時ごろになって東京メトロ銀座線が運転再開したので、満員電車で渋谷に出ました。渋谷駅周辺では、多くの人がバスを待ち、ビルの1階に退避していました。私は246号線を、家内の実家のある三軒茶屋まで歩きました。歩道は帰宅する人で溢れ車道まではみ出していました。大量の人が電話をするためか、携帯も通じにくくなっていました。途中、下宿探し中に地震に会って帰れなくなった弟家族と合流しました。

耐震補強はしたものの築65年の木造家屋のため、余震でガタガタと音がします。不安を感じながら、パソコンでYouTubeのTBSニュースを見続けました。災害時のYouTubeでのテレビ放送配信の大切さを実感しました。

幸い、JR東海のExpress予約が動いていたので、翌朝の新幹線を予約し、早朝に東京駅経由で名古屋に戻りました。東京駅で、新幹線の切符を買う人の長蛇の列を見ました。新幹線の自動改札が停止していたため、切符予約のメール画面を見せて改札を通り、名古屋に戻りました。

名古屋に戻って

名古屋は普段どおりでした。地元放送局に寄って被害の解説を少しして、大学に戻って災害対応の準備をしました。15時半ごろに福島原発1号機が水素爆発し、上部の建物が吹き飛びました。屋根の無くなった建物を見て、原子力発電施設の建物の耐震設計に関わっていた一人として、建物の耐震のことしか知らなかった自分が情けなく、忸怩たる思いをしました。その後、格納容器の上の覆う建屋が簡単に吹き飛んだことについての取材を沢山受けました。すぐに、大学内に震災情報の提供を行う場を開設し、正しい情報の発信に務めました。

それ以降、あのときのことを忘れず、多くを学び、二度と同じことを繰り返さないことを誓い、できる限りのことをしたいと思って活動を続けています。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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