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歴史は未来へのメッセージ。1150年前の声に耳を傾け想定外の災害を無くそう。

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:アフロ)

想定外と言われる東日本大震災ですが、西暦869年に同じ場所で起きた貞観地震のことを調べてみると、決して想定外ではないことに気づきます。歴史が残してくれたメッセージに耳を傾けてみることの大切さを感じます。

国史に残されたメッセージ

平安時代の西暦869年、貞観の時代に、東北地方で巨大地震が発生し、仙台近くの多賀城を大津波が襲った様子が古文書に残されています。六国史の最後の正史・日本三代実録に、「貞観十一年五月廿六日癸未。陸奥国地大震動。(中略)海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海数千百里。浩々不弁其涯埃(原文はさんずい)。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」と記されています。

現代語訳すると、「海では雷のような大きな音がして、物凄い波が来て陸に上った。その波は河を逆上ってたちまち城下まで来た。海から数千百里の間は広々した海となり、そのはてはわからなくなった。原や野や道はすべて青海原となった。人々は船に乗り込む間がなく、山に上ることもできなかった。溺死者は千人ほどとなった。人々の財産や稲の苗は流されてほとんど残らなかった。」(吉田東伍:貞観十一年陸奥府城の震動洪溢、歴史地理、8巻12号、1906による)となります。東日本大震災のときにテレビで見た津波の光景とそっくりです。

当時の多賀城は、蝦夷に対峙する北の砦で、朝鮮に対峙する大宰府と共に、我が国の最重要拠点の一つでした。このため、遠く離れた東北での震災の様子が、京まで伝わり、国史にまで記述されました。このメッセージを知っていれば、東日本大震災は決して想定外の災害とは言えないことが分かります。

和歌に残るメッセージ

小倉百人一種には、多賀城の近くにある「末の松山」と「沖の石」を歌枕にした歌があります。貞観の地震のあとに、多賀城から遠く離れた京で詠まれました。清少納言の父親の清原元輔が後拾遺和歌集で詠んだ、「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは」と、二条院讃岐が千載和歌集で詠んだ「わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」の2首です。いずれも恋の歌と言われていましたが、「末の松山」は津波が越さず、一方、「沖の石」は乾く間もないとも解釈できます。現存している「末の松山」と「沖の石」は100m程度しか離れていません。ですが、東日本震災では、写真のように沖の石は2m程度津波に浸かり、末の松山には津波は達していませんでした。

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地下に残るメッセージ

東北電力女川原子力発電所の技師だった阿部壽氏たちは、仙台平野のボーリングデータを調べ、貞観地震による津波堆積物の存在をみつけていました(仙台平野における貞観11年(869年)三陸津波の痕跡高の推定、地震2輯、第43巻、pp.513-525、1990)。このことが、女川原発の敷地高さを確保することにつながり、東日本大震災において、女川原発の津波被害を回避したとも言えます。元の敷地を削って作った福島原発の被害とは対称的です。自然に対する畏敬の念を持ち、過去に学び、謙虚であることで、被害を免れたと考えられます。

歴史は未来へのメッセージであることを忘れないでおきたいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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