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過去を学び将来に備える:近代国家になる過程の明治を襲った地震

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
濃尾地震の錦絵

地震学会を作った横浜地震

明治になって間もなく、1872年3月14日に、島根県で浜田地震が起きました。その後80年2月22日に横浜で小規模な地震が起きます。この地震では、煉瓦造の建物や煙突が被害を受けました。当時、お雇い外国人教師として来日していたジョン・ミルンは、この地震に驚き、世界に先駆けて、翌月3月に日本地震学会を設立しました。ミルンは、地震計の開発や地震観測を精力的に行い、我が国の地震学の礎を作りました。その後、ミルンの提言もあって、全国的な地震観測網が整備され、85年から地震報告として資料が蓄積されるようになりました。

89年には大日本帝国憲法が発布され、我が国は近代国家の形を整えました。市町村制が施行され、東海道線が新橋~神戸間で全線開通したのもこの年です。ちなみに、この年の7月28日には明治熊本地震が発生しました。この地震では布田川断層の西側に被害が多いことから、本年4月16日に布田川断層の東側で起きた熊本地震の本震とは、震源を棲み分けているようです。

地震学・耐震工学の基礎を作った濃尾地震

1891年10月28日に濃尾地震が発生しました。濃尾地震は、マグニチュード8.0と、我が国で過去に起きた最大の内陸地震です。根尾谷断層帯を震源とし、愛知県と岐阜県を中心に、7273人もの死者を出しました。当時の我が国の人口は4000万人程度と現在の1/3程度ですから、人口当たりの犠牲者の数は東日本大震災を上回るものでした。美濃と尾張の被害が大きかったことから「身の終わり」地震とも言われました。

この地震では、西洋から導入した煉瓦造建物が多数倒壊し、その後の我が国の耐震工学に大きな影響を与えました。また、完成したての東海道線の鉄橋・長良川大橋も崩落しました。ミルンは、ウィリアム・K・バートンと共に被災地に赴いて地震調査を行ない、「The Great Earthquake of Japan, 1891」という報告書を残してくれています。

地震後、菊池大麓らが中心になって、地震被害を抑止するための研究機関の設置を帝国議会に建議し、翌年92年に「震災予防に関する事項を攻究し其施行方法を審議する」震災予防調査会が文部省に設置されました。

調査会は、「如何なる材料、如何なる構造は最も能く地震に耐えうるものなるや」「建物の震動を軽減するの方法有りや」「如何なる種類の建物は危険なるや、その取締り法如何」「日本中如何なる地方は震災最も多きや、一地方に於いても多き部分と少なき部分との区別ありや」「如何なる地盤は最も安全なるや」「地震の予知するの方法有りや否や」の6点を急務の課題として掲げました。いずれも最重要の課題ばかりで、「地震予知」「建物の耐震性向上」「過去の地震史の編纂」など、現代でも達成が不十分なことを恥じ入るばかりです。

また、大垣では、「地震数え歌」が歌われました。その歌詞は、「一つとせ、人々驚く大地震 美濃や尾張の哀れさは 即死と負傷人 数知れず。二つとせ、夫婦も親子もあらばこそ あれと言うまいぶきぶきと 一度に我が家が皆倒れ。三つとせ、見ても怖ろし土けむり 泣くのも哀れな人々が 助けておくれと呼び立てる。四つとせ、よいよに逃げ出す間もあらず 残りし親子を助けんと もどりて死ぬとは つゆ知らず。五つとせ、いかい柱に押さえられ 命の危ぶきその人は やぶりて連れ出す人もある。六つとせ、向ふから火事じゃと騒ぎ出す こなたで親子やつれあいや 倒れし我が家 ふせこまれ。七つとせ、何といたして助けよと 慌てるその間に我が家まで どっと火の手が燃え上がる。八つとせ、焼けたに思えどよりつけず 目にみて親子やつれあいや 焼け死ぬその身の悲しさや。九つとせ、ここやかしこで炊き出しを いたして難儀な人々を 神より食事を与えられ。十とせ、所どころへ病院が 出ばりて療治は無料なり 哀れな負傷人助け出す。」です。この歌詞の中身を見ると、阪神淡路大震災などで経験した被害や災害後対応の様子とほとんど変わりません。

被災地には、濃尾震災の犠牲者を慰霊するために震災の2年後に建てられた震災紀念堂(岐阜市若宮町)、断層のずれを直接見ることができる根尾谷の断層観察館、被害が甚大だった愛知県津島市の津島街道沿いの歴史的町並み(ほとんどの建物が1892年築)などが残っています。ぜひ訪れたいものです。ちなみに、岐阜県は濃尾地震が発生した10月28日を「岐阜県地震防災の日」に指定しています。

北海道から東北を襲った地震群

日清戦争(1894~95年)の前後には東北から北海道で地震が続発しました。21,959人もの死者・行方不明者を出した96年6月15日明治三陸地震をはじめ、93年6月4日 色丹島沖地震、94年3月22日 根室半島沖地震、10月22日 庄内地震、96年1月9日 茨城県沖の地震、6月16日明治三陸地震の余震、8月31日陸羽地震、97年2月20日宮城県沖地震、8月5日三陸沖地震、98年4月23日宮城県沖の地震、1900年5月12日宮城県北部の地震、01年8月9〜10日 青森県東方沖の地震、02年1月30日青森県三八上北地方の地震、05年7月7日 福島県沖の地震、などです。津波を伴う海の地震に加え、強い揺れが襲う庄内地震や陸羽地震などの陸の地震が多数誘発されています。

明治三陸地震の被害は甚大した。強い揺れを伴わない地震だったこともあり、多くの津波犠牲者を出しました。人口比を考えると、東日本大震災の3倍もの被害だったことになります。とくに、岩手県では18,000人もの犠牲者を出しました。ちなみに、東日本大震災の岩手県の死者・行方不明者は約6000人です。逆に言えば、東日本大震災では、岩手県は、犠牲者をワンオーダーも減じたことになります。「津波てんでんこ」で代表される、岩手県での徹底的な津波防災教育の成果だとも言えそうです。

なお、この時期には、北海道~東北以外でも被害地震が起きています。94年6月20日 明治東京地震、95年1月18日 霞ヶ浦付近の地震、1905年6月2日 芸予地震、09年8月14日 姉川地震などです。

この間、1904~05年に日露戦争がありました。芸予地震は、日本海海戦(05年5月27~28日)の勝利の直後に、軍港・呉を襲いました。ロシアがセオドア・ルーズベルトからの講和勧告を6月12日に受諾する直前だったこともあり、我が国は地震被害が知られないようにつとめたようです。

この後、1912年明治天皇が崩御し、大正デモクラシーの時代を迎えますが、1923年大正関東地震が発生し、一気に時代が暗くなっていきます。

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名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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