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過去を学び将来に備える:我が国を暗い時代に導いた大正から戦前の地震

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:MeijiShowa.com/アフロ)

現代社会を先取りした大正時代

大正時代は、9人の元老(山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文)を中心とした藩閥政治を脱し、明治になって育った尾崎行雄や犬養毅、原敬などの政党政治へと移行した時代です。この時期には、護憲運動や労働運動、婦人参政権運動、部落解放運動など、様々な民衆運動が活発に行われました。また、第一次世界大戦による好景気によって、我が国は経済的に大きく発展しました。その結果、洋服・洋食・文化住宅など西洋式の衣食住が広がり始め、芸術・大衆文化、新聞・ラジオ、路面電車や乗合バス、家庭電化製品など、都市文化が形成され始めました。また、大正時代の最初の10年は、94名の犠牲者を出した1914年秋田仙北地震を除き、多くの犠牲者を出す地震はありませんでした。

首都・東京を襲った前代未聞の大震災

1923年9月1日に関東地震が起きました。北アメリカプレートとフィリピン海プレートが接する相模トラフでの巨大地震で、地震規模はM7.9です。1703年元禄関東地震よりは一回り小さい関東地震でした。東北地方太平洋沖地震の1/30程度のエネルギー放出量ですが、10万5,385人もの死者・行方不明者を出しました。当時の人口は6000万人程度でしたから、人口比を勘案すると、犠牲者数は東日本大震災と10倍にもなります。このため、災害名として関東大震災と呼ぶことが多いです。1960年には、9月1日を「防災の日」に制定しました。

寺田寅彦が記した地震の揺れの様子

「天災は忘れたころに頃にやってくる」で有名な寺田寅彦は、「震災日記」の中で、上野の喫茶店での地震の様子を書き残しています。初期微動と主要動との時間差、揺れの長さ、長周期の揺れなど、震源から少し離れた場所での巨大地震の揺れの特徴を見事に表現しています。青空文庫などで閲覧できますから、一度ご覧になるとよいと思います。寅彦は、上野台地の喫茶店で地震と遭遇したため、揺れは相対的に小さかったものと推察されます。震災日記には、地震後の下町の惨状や、社会の様子も端的に描かれています。

地震直後に襲った揺れ、津波、山津波

震源域が神奈川から房総半島南部にわたるため、神奈川県や千葉県南部で強い揺れになりました。これに加え、地盤が軟弱な東京の沖積低地も強く揺れました。関東地震は火災被害の印象が強いですが、揺れによる全壊家屋数は約11万棟もあり、家屋倒壊による死者数も1万1千人と、阪神淡路大震災の被害を上回っています。住宅全壊棟数は、東京市が12000、横浜市が16000で、東京市の1/5の人口の横浜市の被害の甚大さがよく分かります。とくに、埋立地だった関内駅周辺の被害は壊滅的でした。現在、関内周辺には、横浜一の官庁街やビジネス街、横浜ドームや中華街があり、近くには震災瓦礫で埋め立てた山下公園もあります。災害危険度の高い地域であることを忘れないでおきたいと思います。

関東地震はプレート境界の地震のため、地震後、伊豆半島から相模湾、房総半島の沿岸に高い津波が押し寄せました。とくに熱海、伊東、鎌倉などの津波被害は甚大で、200~300人の犠牲者を出しました。また、土砂災害も各地で発生し、全体で700~800人の死者となりました。なかでも、小田原の根府川駅での列車転落事故では、山津波により列車が海中に没し100人を超える犠牲者を出しました。

被害を甚大にさせた地震火災

犠牲者の死因の9割は火災でした。焼失棟数は21万棟にも上ります。地震発生時刻が11時58分とお昼時であり、前夜の台風で風も強かったため、住家が密集している東京や横浜では大規模な地震火災が発生しました。とくに、本所の陸軍被服廠跡では、多くの住民が避難しているところに火災旋風が襲ったため、4万人弱の方が犠牲になりました。現在は、横網公園として整備され、東京都慰霊堂や復興記念館が建設され、震災の資料を見ることができます。

土地利用が被害を拡大させた

当時の東京市の人口は220万人、横浜市は42万人で、犠牲者はそれぞれ、6万9千人、2万7千人でした。現在の人口は、東京都23区940万人、横浜市370万人です。死亡率がけた違いに高いことが分かります。ちなみに、東京の西側で圧死により命を落とした人は、1500人程度だったようです。大正関東地震より地震規模が大きかった元禄関東地震での江戸府内での犠牲者は340人でしたから、当時の江戸の人口が35万人程度だったことを考えれば、整合しています。すなわち、横浜や東京の被害の大きな原因は、軟弱な低地への都市の拡大にあると思われます。土地利用のありかたを考える必要がありそうです。

地方への大規模な疎開

震災で被災した人たちの多くは、一面焼け野原になった被災地を離れ、地方に疎開しました。東京市から外に出たのは74万人で、人口の1/3にも上ります。特に、被害が甚大だった浅草、本所、深川からはそれぞれ10万人以上が避難しました。東京府・神奈川県から疎開した78万人のうち、約半数は両府県を除く関東地方に、3割は中部地方、1割は近畿地方に避難したようです。

私が住む愛知県でも救済費や救援物資、救護班派遣など、官民挙げて協力し、多くの被災者を受け入れました。名古屋市千種区覚王山にある日泰寺には、関東大震災供養堂や惨死者供養塔があります。ちなみに、日泰寺は超宗派の寺院で、タイ王国から寄贈された仏舎利が安置された珍しいお寺さんです。

首都の復興

9月27日に帝都復興院が設置され、後藤新平が総裁につきました。後藤は、予算規模40億円もの東京・横浜の都市計画・帝都復興計画を提案しました。その中身は、国による被災地の買い取りや、100m道路、ライフラインの共同溝化など、斬新な計画でした。残念ながら、財政緊縮のため、政府案の段階で約 6 億円に縮減されましたが、これにより、現在の東京の都市計画の骨格が整えられることになりました。なお、これらの財源確保のために、震災善後公債法を12月24日に公布し、10億円にも及ぶ多額の外債を発行しました。

甚大な経済被害と昭和金融恐慌

関東地震による経済被害は、日銀の推計では約 45 億円の物的損失、また、東京市の推計では約52億7,500万円とされています。この額は、当時の日本の名目 GNP約150 億円の1/3、一般会計歳出額約15億円(軍事費を除くと10億円)の3倍に相当します

震災後、海外から多くの義捐金や救援物資が寄せられました。とくに第一次世界大戦をともに戦った米国らの支援は多大で800万ドルにも上りました。当時は1ドル2円40銭だったようですから、2000万円近い金額になります。東日本大震災での「トモダチ作戦」を彷彿とさせます。海外からの義捐金は、外国義捐金品一覧表(外務省通商局/編)にまとめられており、国立国会図書館デジタル化資料として閲覧ができます。

震災後、政府は、9月7日に緊急勅令によるモラトリアムを出し、27 日に震災手形割引損失補償令を公布し、震災手形による損失を政府が補償する体制を整えました。ですが、手形の総額は24年 3 月末時点で約 4.3 億円に上り、26年末時点でも2 億円前後が未決済のままでした。この震災手形の不良債権化が、27年昭和金融恐慌の原因にもなりました。

関東大震災後の地震群と時代の悪化

関東大震災の後も、1925年5月23日 北但馬地震、27年3月7日 北丹後地震、30年11月26日 北伊豆地震、33年3月3日 昭和三陸地震と大地震が続きました。この間、25年には普通選挙法と共に、治安維持法が制定されました。また、関東大震災での流言飛語の反省のもと、東京・大阪・名古屋でラジオ放送が開始されました。26年末には、大正天皇が崩御し、震災時に摂政を努めていた昭和天皇が即位して昭和に改元されました。27年北丹後地震の翌週に昭和金融恐慌が起きます。この年、中国では南京事件が起きました。さらに、29年世界恐慌、30年昭和恐慌、ロンドン海軍軍縮会議、31年満州事変、32年5・15事件、33年国際連盟脱退、36年2・26事件、日独防共協定締結と続いて、37年日中戦争へと突入して、8年間の戦争の時代が始まりました。

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名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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