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1959年9月26日に襲来した伊勢湾台風を思い出し、風水害に備えたい

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:アフロ)

気候温暖化で勢いを増す台風

今年は、観測史上初めて、6月まで台風が一つも発生しませんでした。ですが、7月以降に発生した台風は猛威をふるい、7月は4つ、8月は7つ、9月は6つ(9月25日時点)の台風が発生し、8月には台風9号~12号と、4つの台風が連続して上陸しました。8月に4つもの台風が上陸したのは1962年以来で、9月にも16号が上陸しました。中でも、東北~北海道を襲った台風10号は、各地に大量の雨と風をもたらし、北海道と岩手で27人もの死者・行方不明者を出しました。9月16日には、台風7号、11号、9号、10号による被害が激甚災害に指定されました。また、スーパー台風14号は、中心気圧が900hPaを下回る最大級の台風で、台湾や中国で甚大な被害を出しました。近年、気候温暖化により、台風が勢いを増し、各地で豪雨災害が頻発しています。

昭和の三大台風

最近は、堤防が強化され、気象予報が進化し、建物も堅牢になりましたから、台風による人的・物的な被害は減少しています。ですが、かつては台風によって数千人もの犠牲者を出していました。例えば、昭和の三大台風では、1934年9月21日室戸台風で死者2702人・行方不明者334人、1945年9月17日枕崎台風で同2473人・1283人、1959年9月26日伊勢湾台風で同4697人・461人の犠牲者を出しました。

室戸台風の前年1933年は、昭和三陸地震津波が東北を襲い、我が国が国際連盟を脱退した年になります。室戸台風の2か月後、寺田寅彦は度重なる災害を憂えて「天災と国防」を経済往来に著しました。そこには、「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増す」と記されています。枕崎台風は敗戦の翌月に、原爆投下で壊滅した広島を襲い、広島県では2000人以上の犠牲者を出しました。伊勢湾台風は上陸時の中心気圧は室戸台風や枕崎台風を下回るものの、その被害規模は抜きんでています。

伊勢湾台風

1959年9月20日、マーシャル諸島エニウェトク環礁付近で熱帯低気圧として発生した台風15号は、その後急速に発達し、23日15時にはアメリカ軍が894ミリバールと観測しています。そして、勢力が衰えずに26日18時過ぎに潮岬に930ミリバールの気圧で上陸し、60km~70kmの早い速度で紀伊半島を北上しました。強い南風による吹き寄せ効果と、低気圧による吸い上げ効果で、遠浅の伊勢湾奥部や三河湾奥部に高潮が押し寄せ、甚大な被害を与えました。伊勢湾沿岸の高潮による被害が甚大だったことから、9月30日に「伊勢湾台風」と名付けられました。

2歳半だった私も鮮明にそのときを記憶しています。土曜日で、父が早くに帰宅し雨戸に板を打ち付け、強い風の中、夜を過ごしました。翌朝、家の周りは水浸しでした。

伊勢湾台風の犠牲者

この台風での犠牲者5,098人のうち、愛知県で3,351人(名古屋市1,909人)、三重県で1,211人と、両県の被害が支配的でした。特に犠牲者の割合が多かったのは、桑名郡木曾岬村(人口2,993人、犠牲者328人)、桑名郡長島町(同8,499人、381人)、海部郡飛島村(同4,290人、132人)、三重郡川越村(同7,718人、174人)、海部郡弥富町(同16,037人、322人)、名古屋市南区(同146,500人、1,417人)などで、人口比で1%以上の犠牲者を出しました。

なかでも、木曾岬村では10人に1人が犠牲になりました。干拓地で逃げ場がなかったためだと思われます。弥富町の鍋田干拓地では堤防が壊れて、318人の在住者のうち133名が犠牲になりました。これらは、東日本大震災における最激甚被災地、女川町、大槌町、陸前高田市を上回る死亡率です。

ちなみに、三重県三重郡楠町(現・四日市市)や愛知県碧南市の碧南干拓地では住民の早期避難により、一人の犠牲者も出しませんでした。いち早い避難の大事さが分かります。

伊勢湾台風の物的・経済的被害

名古屋市南西部の南区や港区では、名古屋港の貯木場から流出した大量のラワン材が高潮に乗って流木となり住宅地を壊滅させました。台風による物的被害は、全壊家屋36,135棟、流失家屋4,703棟、半壊家屋113,052棟、床上浸水157,858棟、床下浸水205,753棟、船舶被害13,759隻と甚大でした(消防白書より)。経済被害は、愛知・三重両県だけで推定被害総額5,050億円とされています。昭和34年の一般歳出予算は1.4兆円、GDPは13.1兆円でしたから、その災害規模は、関東大震災を下回るものの、阪神・淡路大震災や東日本大震災を上回るものでした。まさしく、戦後最大の自然災害とも言えます。

伊勢湾台風後

被災地は、江戸時代以降に干拓した185.4km2にも及ぶ我が国最大の海抜ゼロメートル地帯でした。地下水のくみ上げで、地盤沈下も深刻でした。このため、長期に湛水することになり、堤防の仮閉め切り工事に2か月、排水に1か月と、浸水地域が無くなるのに3か月を要しました。

大工場が立地する埋立地は、満潮位よりも2m程度嵩上げしていましたので、被害は軽微でした。被害が大きかったのは、埋立地の背後の干拓地にあった下請け企業や中小企業、社員の住宅などでした。ここを通る道路の寸断も復旧を遅滞させました。水没した国道1号線は、ドラム缶工法によって突貫で修復し、11月7日に開通しました。

この甚大な被害をうけて、当時の科学技術庁長官・中曽根康弘を委員長とする臨時台風科学対策委員会が設けられ、その後1961年1月に「災害対策基本法」が公布されました。また、同年には、臨海部の建築規制を行った名古屋市臨海部防災区域建築条例も制定され、その後、名古屋港には高潮防波堤が建設されました。

この年は、4月に当時の皇太子と美智子妃殿下がご成婚され、テレビが普及し始めた時でした。名古屋の民放テレビ局も開局間もない時期で、1953年にNHK名古屋放送局、1956年に中部日本放送(CBC)、1958年東海テレビが放送開始をしており、台風の貴重な映像が残されています。最近、これらの映像を利用したドキュメンタリー映画「それぞれの伊勢湾台風」がDVD化されました。

当時のラジオは、真空管を使ったラジオだったため、停電によって役に立ちませんでした。このため、この災害を契機に、小型の携帯トランジスタラジオが普及し、テレビ・ラジオを通した災害報道の重要性が認識されることになりました。

伊勢湾台風の5日後には、鉄筋コンクリートで再建した名古屋城の竣工式がありました。当時、火除けとしての「金の鯱」が水を呼び高潮を引き寄せたのでは、とも言われました。

まだ、台風シーズンが続きます、皆様も警戒を怠らないでおいてください。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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