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複数の巨大地震が発生した地震の特異日「10月28日」、どんな地震が起きたのか

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

社会と大地が動乱した1600年前後

織田信長が今川義元を討ち取った1560年桶狭間の戦いから、1615年大阪夏の陣で豊臣家が滅亡するまでの約半世紀は、まさに激動の時代でした。度重なる戦いを経て、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と政権が移り、多くの武将が活躍しました。NHKの大河ドラマでも、信長、秀吉、家康に加え、上杉謙信、武田信玄、伊達政宗、真田幸村、山内一豊、前田利家、黒田官兵衛、明智光秀、毛利元就などの戦国武将が主役として描かれています。

この時代は、大地も動乱の時代でした。本能寺の変で信長が光秀に倒され、その後、秀吉の時代となりましたが、1584年小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が一戦を交えました。家康が優勢だったものの一旦和睦し、その後、秀吉が大垣城に兵を集結させ家康を攻め落とそうとしたまさしくそのとき、1586年1月18日に天正地震が発生しました。この地震では、大垣城、長浜城、帰雲城、木舟城、長島城などが倒壊し、清州城も液状化で大きな被害を受けました。

その後、文禄の役を経て、1596年には、9月1日慶長伊予地震、9月4日慶長豊後地震、9月5日慶長伏見地震と5日間の間に3つも大地震が起きます。伏見地震では伏見城が倒壊して明との和睦交渉が決裂し、再び、慶長の役が始まります。さらに、1598年秀吉の死、1600年関ヶ原の戦いを経て、1603年に家康が征夷大将軍となって江戸時代を迎えました。その2年後、慶長地震が発生し、東海道沿岸部が大きな津波被害を受けます。

そして、1611年12月2日(旧暦は慶長16年「10月28日」)に慶長三陸地震が発生し、北海道から東北が甚大な津波被害を受けます。1614年11月26日には越後高田の地震が発生し、時期を同じくして大坂冬の陣が起きます。そして1615年に大坂夏の陣があり、豊臣家が滅亡します。このように、戦国時代と大地動乱の時代が重なりました。

ちなみに、慶長地震は南海トラフの地震と考えられていましたが、最近では諸説があります。また、越後高田の地震は、日本各地で被害の報告があり正体が不明の大地震のようです。

伊達政宗が活躍した慶長三陸地震

慶長三陸地震では、北海道から東北まで広範囲に津波被害を受けたようです。ただし、北海道の様子は歴史資料が十分でなくその実態は十分に分かっていませんが、津波堆積物から日本海溝沿いでの巨大地震だった可能性も指摘されています。この地震のときの仙台の殿様は伊達政宗で、地震後、高台に仙台の街を復興したり貞山堀を作ったりしました。2年後の1613年には慶長遣欧使節団として欧州に支倉常長を派遣しました。実はこのサン・フアン・バウティスタ号の出発日も「10月28日」です。さらに、地震後に作られた奥州街道は津波を避けて内陸を通しました。そのおかげもあって、東北の主要都市は内陸に作られ、東日本大震災での被害を軽減したと思われます。また、地震直後も、盛岡や遠野から津波被災地の沿岸部へと「くしの歯作戦」により支援が可能になりました。

百花繚乱の元禄の時代を襲った地震と噴火

様々な日本独自の文化が生まれた元禄の時代にも大地震が起きました。元禄の末期、1702年冬の赤穂浪士の討ち入り事件の翌年1703年12月31日に、元禄関東地震が江戸を襲いました。この地震は大正関東地震よりも規模の大きなものでした。このためか、翌1704年には元号が「元禄」から「宝永」へと改元されました。さらに、3年後の1707年「10月28日」に、有史以来最大の南海トラフ地震の宝永地震が発生しました。フィリピン海プレートとユーラシアプレートとのプレート境界で起きた巨大地震で、マグニチュード(M)は8.6と推定されています。宝永地震の49日後の12月16日には、富士山が噴火しました。864年貞観噴火以来の大規模噴火で、江戸にまで灰が降りました。

ちなみに貞観噴火の5年後には東北地方の太平洋岸を大津波が襲った貞観地震が発生し、さらに878年に関東で、887年に南海トラフで仁和地震が発生しています。878年の相模・武蔵地震の発生日も「10月28日」(ユリウス暦)だったようです。この地震については、相模トラフの地震の可能性も示唆されています。

元禄地震や宝永地震、宝永噴火は綱吉の時代の末期に当たったため、治世も乱れ、元禄文化も潰えていくことになりました。この時代も、大石内蔵助や徳川吉宗、大岡越前など、ドラマなどで取り上げられる話題に事欠かないのですが、これらのドラマで地震が起きることは滅多にありません。

近代国家の形を整えたときに襲った濃尾地震

1891年「10月28日」には、内陸直下の活断層がずれ動いた濃尾地震が発生しました。明治になって二十数年が経ち、1889年大日本帝国憲法が制定され、東海道線も開通して、近代国家としての形を整えたところで発生した地震です。1889年7月28日には明治熊本地震も発生しています。

濃尾地震は、根尾谷断層を中心にした濃尾断層帯がずれ動いた地震です。地震規模はM8.0と推定されており、内陸直下で起きた地震では過去最大クラスの地震で、岐阜・愛知を中心に7000人を超える犠牲者を出しました。西洋から導入した煉瓦造の建物や東海道線の鉄橋などが大きな被害を受け、西洋文化を安易に受け入れることへの警鐘にもなりました。この地震をきっかけに、文部省に震災予防調査会が設置され、その後の地震学や耐震工学の発展の礎となりました。

濃尾地震のあとには、1894年3月22日 根室半島沖地震(M7.9)が起き、日清戦争(1894年7月~1895年3月)が始まります。戦争中には、6月20日 明治東京地震(M7.0)、10月22日 庄内地震(M7.0)、1895年1月18日 霞ヶ浦付近の地震(M7.1)が起きます。日清戦争の翌年には、1896年1月9日 茨城県沖の地震(M7.3)が、6月15日には2万人を超える犠牲者を出した明治三陸地震(M8.2)が起きました。その後も、8月31日陸羽地震(M7.2)や宮城県沖、三陸沖で地震が続発しました。

このように、「10月28日」は、北海道・東北沖の日本海溝での地震(1611年・旧暦)、南海トラフでの地震(1707年)、内陸活断層での地震のそれぞれ最大級の地震(1891年)と関わりのある日です。ひょっとすると相模トラフの地震(878年・ユリウス暦)も加わっているかもしれません。これらの巨大地震の前後には地震が数多く発生しています。改めて、この日をきっかけに地震防災の大切さを思い出したいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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