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161年前に起きた首都直下地震「安政江戸地震」を思い起こし、首都の地震対策強化を

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

161年前の首都直下地震

1855年11月11日(安政2年10月2日)午後10時ごろに、江戸を強い揺れが襲いました。安政江戸地震です。東京湾北部から江東区辺りを震源とするマグニチュード(M)7程度の直下地震と考えられています。今心配されている首都直下地震の一つです。

旧暦の10月は神無月で、全国の神様が出雲大社に集まる月に当たります。大鯰を押さえつける要石で有名な鹿島神宮の祭神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)が出かけて留守にしたために、大鯰が暴れて地震が起きたとも言われました。江戸では鯰絵が描かれたお札や瓦版が流行しました。

激動の時代に起きた安政江戸地震

江戸地震の起きたときは、社会も大地も動乱の時代でした。前年1854年には、7月9日に伊賀上野地震(M7.4)、12月23日に東海地震(M8.4)、翌24日に南海地震(M8.4)、さらに26日に豊予海峡地震(M7.4)が、1855年にも3月18日に飛騨地震(M6.8)、9月13日に陸前地震(M6.7)と続発していました。この時期は、黒船が来航し開国要求が行われた直後で、1854年3月31日に日米和親条約、10月14日に日英和親条約、1855年2月7日に日露和親条約が締結され、我が国は長い鎖国時代を終えたところでした。まさに、激動の時代に首都直下地震が発生したことになります。

下町で甚大な被害

地震での死者は、武士・町人合わせ7000人以上とされており、1万人を超えたとも言われています。中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」がまとめた「1855安政江戸地震報告書」(2004年3月)によると、青山、麻布、四谷、本郷、駒込の辺りの台地部の揺れはゆるく、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川の辺りが大きな揺れだったようです。とくに大手町から丸の内の大名小路で大きな被害を出しました。また、30数箇所で火災が発生し、新吉原では廓全体に延焼して1000人以上が死亡したようです。

江戸城は堀端の雉子橋の多門櫓のみが大きな被害を受けただけで、日枝神社の被害も無かったようです。現在の紀尾井町に位置していた井伊家上屋敷の外まわりでも破損箇所は少なかったようです。

このように武蔵野台地上の被害は軽微なのに対し、かつての大池、平川、ため池、日比谷の入り江だった場所の被害は甚大でした。このことは、大正関東地震(1923年9月1日、M7.9)と共通します。

尊王攘夷派から開国派へ

現在の小石川後楽園にあった水戸藩上屋敷では、屋敷が残らず崩れました。これによって、水戸藩の徳川斉昭を支える両田と言われた藤田東湖と戸田忠太夫が圧死してしまい、水戸の尊王攘夷派も力を失っていきました。そして、開国派の井伊直弼へと力が移っていきます。この背景には、井伊直弼と水戸斉昭の屋敷の地盤条件の違いがあると思われます。

安政江戸地震の後、日米修好通商条約や将軍の継嗣問題に関して徳川斉昭と井伊直弼の対立が深まっていきます。そして、1858年に井伊直弼が大老に就任し、直後に、安政大獄事件で吉田松陰を処刑します。その後、徳川斉昭は失脚し、斉昭を推した島津斉彬も急死します。ですが、その井伊直弼も1860年に桜田門外の変で水戸脱藩浪士に命を奪われることになります。

この間には、1856年には八戸沖地震が発生、9月23日には江戸を大暴風雨が襲いました。この暴風雨に関しては、「近世史略」に死者10万人余りとの記述もあります。さらに、1857年10月12日に芸予地震、1858年4月9日に飛越地震が発生し、コレラも大流行しました。そして、明治へと移っていきます。

中学や高校の日本史の時間に災害の歴史も一緒に教えてもらえれば、私たち日本人の歴史観もずいぶん異なるものになり、災害を未然に防ぐことの大切さを実感できるように感じます。

中央防災会議によれば、首都直下地震の予想被害は、最悪、死者23千人、全壊・焼失61万棟、経済被害95兆円と予想されています。2020年東京オリンピックやパラリンピックを控え、首都直下地震が懸念される中、大きな歴史の転換期に発生した安政江戸地震のことを思い起こし、首都の地震対策を一層進めていきたいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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