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地震計の無かった時代の地震は、どうやって大きさや震源を調べる?

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
清洲城の遺跡発掘調査で見つかった液状化跡のはぎ取り地盤

地震の大きさや震源はどうやって決める?

現在、地震の震源やマグニチュードは、地震観測に基づいて決められています。地震波には、最初にガタガタと感じるP波(縦波)とその後ユサユサと感じるS波(横波)があります。P波が到達してからS波が到達するまでの時間を初期微動継続時間と言います。地盤の中を伝わるP波とS波の速度が分かれば、初期微動継続時間から、震源からの距離を求めることができます。3点の地震観測点があれば、3つの震源距離の交点から震源の位置(震央と震源深さ)を決めることができます。震源の位置が分かれば、震源からの距離と揺れの強さの関係を用いて地震の規模マグニチュードMを決めることができます。

日本で近代的な地震観測が始まったのは1885年ですから、これ以降の地震については、科学的に震源、地震規模、地震発生時刻が決められています。ちなみに近代観測が始まって以降、犠牲者が出た最初の地震は1889年7月28日に発生した明治熊本地震(M6.3)です。その後、1891年濃尾地震(M8.0)、1894年明治東京地震(M7.0)、1894年庄内地震(M7.0)、1896年明治三陸地震(M8.5)、1896年陸羽地震(M7.2)などの被害地震が発生しました。

文字から見つける昔の地震

地震計の無かった時代の地震は、いろいろな方法で調べられています。文字が残っている時代に関しては古文書に基づいて調べられることが一般的です。ただし、残されている古文書には、時代的偏りや地域的偏りがありますので、全ての時代・地域について満遍なく調べられるわけではありません。このため、都のあった近畿の地震や、正史が作られた六国史の時代の地震が相対的に多く、東北や北海道の地震、戦乱の時代の地震は相対的に少なくなっているようです。また、地域ごとの被害については、古文書に加え石碑などにも貴重な情報が残されています。

現代まで伝わる最古の正史「日本書紀」は、養老4年(720年)に完成しました。その後作られた5つの正史と併せて六国史と言います。六国史は、日本書紀(神代から持統天皇、~697年)、続日本紀(文武天皇から桓武天皇、697年~791年)、日本後紀(桓武天皇から淳和天皇、792年~833年)、続日本後紀(仁明天皇の代、833年~850年)、日本文徳天皇実録(文徳天皇、850年~858年、日本三代実録(清和天皇から光孝天皇、858年~887年)の6つの史書のことを示しています。

なお、古文書に残されているのは、多くの場合、特定の場所の被害ですから、数多くの古文書を調べ、被害分布の広がりや被害の大きさに関する情報を集積しないと、震源の位置や地震規模を推定することができません。

「日本書紀」に現れる最初の地震

「日本書紀」(全三十巻)の巻第十三に、「允恭天皇五年秋七月丙子朔己丑 地震(ないふる)」という記述があります。西暦(グレゴリオ暦)416年8月23日に相当します。これが、我が国の書物に残されている最初の地震のようです。単に、地震、と記されているだけですから、どこでどんな被害があったのかなどは不明です。

また、巻第二十二には、「推古天皇七年夏四月乙未朔辛酉。地動。舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。」と具体的な被害を示す最初の地震が登場します。これは、西暦(グレゴリオ暦)599年5月28日に起きた地震で、推古地震と呼ばれています。

さらに、巻第二九に、「天武天皇七年十二月是月 筑紫国大地動之。地裂広二丈。長三千余丈。百姓舍屋。毎村多仆壌。是時百姓一家有岡上。当于地動夕。以岡崩処遷。然家既全、而無破壌。家人不知岡崩家避。但会明後。知以大驚焉。」と、具体的な被災地名や被害の様子が記された地震が示されています。西暦679年に起きた筑紫地震で、最近の活断層調査などから水縄断層が活動した地震と解釈されています。

「日本書紀」に現れる最初の南海トラフ地震

「日本書紀」の巻第二十九に、「天武天皇十三年冬十月 壬辰。逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。是夕。有鳴声。如鼓聞于東方。有人曰。伊豆嶋西北二面。自然増益三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也。」と記されています。西暦(グレゴリオ暦)684年11月29日に発生した白鳳地震です。諸国で多くの建物の損壊や土砂災害がある様子が記述されており、河湧は液状化を連想させます。伊予の温泉(道後温泉)が枯れたり、土佐の田畑が海に没するなどの記述があるため、南海トラフで起きた南海地震だと考えられています。

「日本三代実録」に見る三陸の地震

「日本三代実録」は六国史の最後の正史で、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代の30年間(858年~887年)を扱っています。元号で言うと、貞観時代(859~877年)、元慶時代(877~885年)、仁和時代(885~889年)などを含んでいます。この時代は、特に天変地異が多かったようで、地震・火山災害に関する記述が多数あります。例えば、貞観5年(863年)越中・越後地震、貞観6年(864年)富士山噴火・阿蘇山噴火、貞観9年(867年)鶴見岳噴火・阿蘇山噴火、貞観10年(868年)播磨・山城地震、貞観11年(869年)三陸地震・肥後国地震、貞観13年(871年)鳥海山噴火、貞観16年(874年)開聞岳噴火、元慶二年(878年)相模・武蔵地震、仁和元年(885年)開聞岳噴火、仁和2年(886年)安房国地震、仁和3年(887年)仁和地震(南海トラフ地震)などの記述があります。

三陸地震については、「貞観十一年五月廿六日癸未。陸奥国地大震動。流光如昼隠映。頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆圧死。或地裂埋殆。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其数。海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海数十百里。浩々不弁其涯埃。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」と記されており、西暦(グレゴリオ暦)869年7月13日に、大津波と強い揺れが襲った様子が克明に記されており、2011年東日本大震災の様子を彷彿とさせます。

地盤に残る地震の跡を見つける

古文書から分かるのは過去1500年程度の地震に限られます。また、資料の数も十分ではないので、古文書だけでは全ての地震をカバーすることはできません。このため、遺跡発掘で見つかる液状化跡や、活断層のトレンチ調査で見つかる断層ずれ、ボーリングデータに残る津波堆積物、地殻変動によって河川や海岸にできた段丘などの年代推定から、過去の地震が推定されています。

地震考古学とも呼ばれる遺跡発掘時の液状化跡の調査では、液状化で噴砂が生じたときの上面の地層の年代を調べることで液状化が発生した地震の時代を推定します。広域で液状化跡を調べることによって、古文書では空白となっていた東海地震の存在が推定されたりもしています。

活断層のトレンチ調査では、地震によって生じた断層のずれを直接的に調べ、ずれを生じている地層とずれていない地層の年代を推定することで、地震が発生した概ねの時代を推定します。古文書の記述と符合すれば、具体的な震源断層を特定することにもつながります。また、過去の地震活動の履歴を知ることで、活断層の活動度を把握することもできます。

ボーリングデータに含まれる堆積物から大規模な津波によって運ばれた堆積物(海底から巻き上げられた砕屑物や生物遺骸)を特定し、ボーリングデータの津波堆積物の存在を面的に把握することで過去の海溝型地震などの発生時期や地震規模を推定することも行われています。

歴史地震データの集積

我が国では、1891年に発生した濃尾地震を契機として設立された震災予防調査会によって、歴史地震の調査が精力的に行われてきました。この成果は1904年に「大日本地震史料」としてとりまとめられています。その後も、武者金吉氏らによる「増訂大日本地震史料」や、宇佐美龍夫氏らによる「新収 日本地震史料」や「日本被害地震総覧」などが作成されてきました。我が国は、歴史地震について世界で最も豊富な記録が残されていると思われますが、そのデータは限られており、新しい調査結果と共に、歴史地震が増えてきています。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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