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84年前のひな祭りの日に襲った大津波、東日本大震災から6年を前に思い出しておきたい

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:アフロ)

昭和三陸地震津波

1933年3月3日午前2時30分48秒に、三陸沖でマグニチュードM8.1の昭和三陸地震が発生し、東北地方太平洋岸を大津波が襲いました。この地震は、アウターライズ地震と呼ばれる地震で、海のプレートである太平洋プレートの浅部が東西に引っ張られて生じた正断層型の地震です。

1896年6月15日に発生した明治三陸地震によって、海側に移動した北アメリカプレートが陸側に移動した太平洋プレートに乗り上げた結果、日本海溝の太平洋側の太平洋プレート浅部に引っ張り力が生じ、その結果起きた地震のようです。海溝の外側のアウターライズ(海溝外縁隆起帯)で起きるアウターライズ地震は、陸地からは離れた場所で発生するので、揺れは比較的小さいのですが、浅い位置での地震のため、大きな津波が生じます。

2011年3月11日東北地方太平洋沖地震の後も、アウターライズ地震が発生しており、今後の大規模地震の発生も心配されています。

昭和三陸地震の被害

アウターライズ地震だった昭和三陸地震では、震源と三陸海岸との距離が200km程度ありましたので、揺れによる家屋被害は大きくなかったようです。一方で、浅い位置で発生した地震だったため、海水面の隆起が大きく、岩手県での最大遡上高さが海抜28.7mにもなりました。深夜の地震であったことが災いし、死者1500余人、行方不明者1500余人、合わせて3000人を超える犠牲者を出しました。犠牲者の9割を岩手県が占めており、中でも大きな被害を出した田老村(現宮古市)では、人口の3割、1000人弱の犠牲者を出しました。また、重茂姉吉地区(宮古市)では、人命と家屋の約半数を失いました。

地震後の防潮堤建設や集団移転

田老地区では、1611年慶長三陸地震、1896年明治三陸地震でも壊滅的な被害を出しています。昭和三陸地震を契機に、翌年から大規模な防潮堤の建設が始まりました。この堤防は、1960年チリ地震津波からは住民を守りましたが、残念ながら、2001年東北地方太平洋沖地震では、防潮堤が損壊して200人近い犠牲者を出しました。この人数は、人口の5%弱に当たり、人口の8割程度の犠牲者を出した明治三陸地震や、昭和三陸地震と比べ、犠牲者数は大きく減っています。これは、「津波てんでんこ」で知られる津波防災意識の高さに加え、防潮堤による津波の抑制効果があったためと思われます。

重茂半島・姉吉地区では、地震後、河口部にあった集落を高台に集団移転しました。また、海抜60mの場所には、「高き住居は児孫の和楽 想え惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな 明治廿九年にも 昭和八年にも 津浪は此処まで来て 部落は全滅し 生存者僅かに 前に二人 後に四人のみ 幾歳経るとも要心おせ」と記した大津波記念碑石碑が建立されました。この結果、東北地方太平洋沖地震では、浜辺の施設は流失しましたが、住居への被害はなく、全員が無事でした。

宮城県では、地震後、「海嘯罹災地建築取締規則」が公布され、津波被害の恐れの高い地域に住宅を建てることを原則禁止する条例が定められました。岩手県では、条例は作られませんでしたが、田老などでの防潮堤の整備や、重茂姉吉などでの高台移転が行われています。東日本大震災後の対応と比較してみると良いと思います。

地震前後の社会情勢

昭和三陸地震の十年前に発生した1923年関東地震以降、我が国は多くの地震を経験する中、大正デモクラシーの民主的な時代から、軍国主義の時代へと大きく移り変わっていきました。そんな最中に発生したのが昭和三陸地震津波です。

関東大震災でのデマの反省もあって、1925年3月にラジオ放送が始まりました。昭和三陸地震では、地震発生後4時間後にラジオを通して津波被害が報じられました。新聞中心だった災害報道は、ラジオの登場によって、情報伝達のスピードが格段に速くなりました。同じ年、4月には治安維持法が、5月には普通選挙法が公布され、その直後の5月23日に北但馬地震が発生します。さらに、11月には東京帝国大学に地震研究所が開設されます。

1926年には、5月24日には十勝岳が大噴火しました。年末12月25日には大正天皇が崩御し、昭和に改元されました。翌1927年3月7日に北丹後地震が発生し、直後の3月14日に「東京渡辺銀行が破綻」との首相の失言で、昭和金融恐慌が始まりました。これには、関東大震災後に発行された震災手形の不良債権化が関係しました。さらに、3月24日には南京事件も発生しました。まさに、激動の時代が始まったとも言えます。

1929年には、10月24日にアメリカでの株が大暴落して世界恐慌が始まります。その影響は日本にも及び、1930年には昭和恐慌に陥りました。丁度その時期、9月5に浅間山が噴火し、11月26日 には北伊豆地震が発生しました。そして、翌1931年9月18日に満州事変(柳条湖事件)が起き、1932年5月15日に犬養毅首相が暗殺され戦前の政党政治が終わりました。同じ時期、西欧では、1933年1月30日にヒトラーがドイツの首相になります。まさに、大きく時代が変わるときに起きたのが昭和三陸地震(3月3日)です。

地震の直後に、我が国は国際連盟を脱退することになり、国際社会から孤立してしまいます。翌1934年9月21日には、我が国最大級の台風・室戸台風が上陸します。その直後、11月に、夏目漱石の弟子であり物理学者でもあった寺田寅彦は、時代を憂えて「天災と国防」と題した文章を経済往来に残しています。そこには、「いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。」と書かれています。

その後は、1936年の2.26事件、1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争、さらに、1940年9月の日独伊三国同盟締結を経て、1941年12月8日の真珠湾攻撃へとつながっていきます。この時代の地震や台風の被災者たちは、戦争へと導かれる時代の中、どのように生きていったのか、改めて考える必要がありそうです。

昭和三陸地震の時代はずいぶん昔のように感じますが、実は、私の父は昭和金融恐慌の直前に生まれ、義父は昭和三陸地震の直後に生まれています。このことを思うと、自分の子供たちの時代にも同様のことが起きても不思議ではありません。今から、できる限りの地震対策をしておきたいと感じます。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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