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私の記憶の中の強く優しいアーノルド・パーマー

舩越園子ゴルフジャーナリスト/武蔵丘短期大学・客員教授
若者たちにバトンタッチするかのように87歳で逝去したアーノルド・パーマー(写真:ロイター/アフロ)

ゴルフ界の“キング”、アーノルド・パーマー逝去の報が飛び込んだのは、米ツアーの今季最終戦、ツアー選手権最終日の大詰めでローリー・マキロイがウイニングパットを沈めようとしていた、ちょうどそのころだった。

そのタイミングは、まるでパーマーが若者たちの大切な最終戦の優勝争いを「邪魔しちゃいけないな」と考え、天国へ逝くのを少しだけ待っていたかのようだった。いやいや、かつての王者が若き王者に「これからのゴルフ界を頼むよ」とバトンタッチをしたかのようでもあった。

パーマーがアマチュアとして米ツアーにデビューしたのは1949年。その年から米国でゴルフのテレビ中継が定期的に始まった。初優勝は1955年のカナディアンオープン。その年からマスターズの中継が開始された。

そんなふうに時代の潮流と合致したことがパーマー人気増大につながったと言われている。メジャー7勝、通算62勝の実力とリカバリーに長けた攻撃的なゴルフが人々を魅了したことは言うまでもない。

だが、パーマーをキングならしめた最大の理由は、彼の人間的な魅力だ。最強選手として君臨しながらも観衆と気さくに言葉を交わした。女性ファンにはセクシーにウインクも送った。強さと親しみやすさの融合が「アーニーズ・アーミー」と呼ばれた巨大なファン軍団を生み出した。

シニアの世界へ移行してからも10勝を挙げ、晩年は若い選手たちを励まし、盛り上げる一方で、小児病院の充実などの社会貢献にも尽力した。

9月25日(米国時間)、患っていた心臓が悪化し、87歳で死去。USGA(全米ゴルフ協会)が出した追悼声明は「ゴルフヒストリーのみならず、私たちみんなのパーソナルゴルフメモリーに記される人」と綴られていた。

今年3月のパーマー。すでに体調を崩していたが、ブレザー姿は素敵(写真/舩越園子)
今年3月のパーマー。すでに体調を崩していたが、ブレザー姿は素敵(写真/舩越園子)

【私のパーソナルメモリーの中のパーマー】

USGAの声明にあったように、私のパーソナルメモリーの中にもパーマーはいる。ゴルフヒストリーにおける記録は他にお任せするとして、私の記憶の中のパーマーを少しだけ綴ってみようと思う。

私が渡米して米ゴルフ界を取材し始めたのは1993年。それゆえ、パーマーの全盛期の姿を見ることはできず、私が直に接したパーマーは60歳代後半からのパーマーだ。

初めて声をかけたのは96年。パーマーのお膝元であるフロリダ州ベイヒルで開催される米ツアーのアーノルド・パーマー招待(当時はベイヒル招待)の練習日だった。「写真を撮らせてください」と声をかけたら、俳優みたいにポーズを取り、カメラ目線でニッコリ。その様子がなんともカッコ良かった。

大雨で冠水したコースを整備するため、率先して長靴姿でジャブジャブと水たまりに入っていった姿が今でも忘れられない。

乗用カートは自分でハンドルを握り、コース内外を走り回って大会ホスト役を精力的にこなしていた。最初のころ、メディアセンターの場所がわからず、車で裏道に迷い込んで立ち往生していたら、たまたま通りかかったパーマーが「どうしたんだ?」と声をかけてくれ、カートで先導してくれたことがあった。

早朝から愛犬を連れて散歩するのがパーマーの日課だった。道で出くわせば、必ず笑顔で「グッドモーニング!」。こちらも「グッドモーニング」と返すまでじっと見つめ続け、最後にニコリと笑顔を返すと、パーマーもうれしそうに笑顔を再度返してくれた。

勝敗が決着すると、勝者の肩をポンポンと叩いて「よくやった」と讃え、敗者の肩を包むように抱いて「私もよく負けたもんさ」と励ます。パーマーは、どちらにも平等に優しかった。

【正義の味方だったり、色男だったり】

あれは2009年。80歳の誕生日を迎えたパーマーに選手たちから寄せられた数々のパーソナルメモリー。その中には「サインをするときは、もらった人が後から見直したとき、誰のサインだかわかるようにサインしなさいというパーマーの教えをずっと守っています」というメッセージがあった。

2014年には、自らが主宰するフロリダの小児病院のプロモーションビデオに自ら登場。そのビデオは、重い傷病のためクリスマスにも入院したままで自宅へ戻れない子供たちを想い、パーマーがサンタクロースに電話をかけ、「キミを待っている子供たちがたくさんいるんだ。必ずここへ来てくれよ」と頼むという設定。だが、それは、ビデオに留まらず、現実そのものだったと言っていい。

昨年大会のある日の早朝。薄暗い中、私が駐車場からメディアセンターを目指して歩いていたら、パジャマ姿で犬の散歩をしていたパーマーに出くわした。パジャマ姿は見られたくないかもしれない。そう思って、見て見ぬふりで通り過ぎようとしたら、パーマーはやっぱり「グッドモーニング」。私も「グッドモーニング!」と笑顔で返した。

86歳で迎えた今年3月のアーノルド・パーマー招待は、すでにパーマーが体調を崩していたため恒例の会見は中止。散歩姿も見られなかった。

デイの妻エリーが横に座ると、笑顔で抱き寄せ、周囲を和ませた(写真/舩越園子)
デイの妻エリーが横に座ると、笑顔で抱き寄せ、周囲を和ませた(写真/舩越園子)

だが、表彰式には赤いネクタイ姿でカートに乗って登場。優勝したジェイソン・デイがカメラマンたちのフラッシュを浴びていたとき、カートに乗ったパーマーの隣にデイの愛妻エリーが座ると、パーマーは急に往年の色男を思わせる顔になり、エリーの肩を抱き寄せる仕草。米国人カメラマンが「お似合いですね」と声をかけると、デイも苦笑し、周囲はみな穏やかな笑顔になった。

マスターズの名誉スターターを辞退し、「永遠に務められたらいいけど、体が言うことを聞いてくれないんだ」と淋しそうに言ったパーマー。けれど、デイは「パーマーがゴルフ界にもたらしてくれたものは、僕らの時代にも次の時代にも永遠に生き続ける」と言った。

そう、パーマーがゴルフ界にもたらしてくれたものは多大だ、だが、パーマーがそれぞれのゴルファー、それぞれの人々にもたらしてくれたものも多大だ。

私が知るパーマーの姿。私がもらったパーマーの優しさ、温かさ、笑顔。こうしてそれを伝えることで、この中のほんの一部でも一言でもいいから、誰かの胸の中に残ってくれたら、パーマーの魂は日本でも広く未来まで生き続けてくれる。

そうなってほしい一心で、今、「私のパーソナルメモリーの中のパーマー」をここに綴った。

ゴルフジャーナリスト/武蔵丘短期大学・客員教授

東京都出身。早稲田大学政経学部卒業。百貨店、広告代理店勤務を経て1989年に独立。1993年渡米後、25年間、在米ゴルフジャーナリストとして米ツアー選手と直に接しながら米国ゴルフの魅力を発信。選手のヒューマンな一面を独特の表現で綴る“舩越節”には根強いファンが多い。2019年からは日本が拠点。ゴルフジャーナリストとして多数の連載を持ち、執筆を続ける一方で、テレビ、ラジオ、講演、武蔵丘短期大学客員教授など活動範囲を広げている。ラジオ番組「舩越園子のゴルフコラム」四国放送、栃木放送、新潟放送、ラジオ福島、熊本放送でネット中。GTPA(日本ゴルフトーナメント振興協会)理事。著書訳書多数。

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