「大阪都構想住民投票」で浮き彫りになった大阪の「南北格差問題」

5月18日、大阪市を事実上消滅させて大阪都の設置の是非を問う所謂「大阪都構想」の住民投票が投開票され、ごく僅差ながら「都構想反対」が賛成を上回った。これにより大阪都構想は廃案となった。

私は、大阪を含め関西に十年弱暮らし、橋下徹氏が大阪府知事に初めて立候補した時(2008年)には彼に一票を入れた経験のある元大阪府民だが、現在は千葉県に住民票を移して久しいがため、結果廃案となったこの「都構想」については、今でも特段、明確に賛・否を表明しているわけではない。が、私はその賛・否の結果以上に、大阪市の区別投票結果の内訳の方が、気になったのである。

以下の図は、18日の投票結果の「賛・否」を大阪市の区別に色分けしたものだ。

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*図:筆者製作

青が「賛成」、赤が「否定」である。投票総数で観ると、賛・否の差は総数でわずか1万票強足らずで大差ないが、地域別に見てみるとはっきりとその地域差に傾向があることがわかる。一目瞭然のように、大阪市北部は「賛」、大阪市南部は「否」と区分されている点だ。

大阪市北部は「キタ」で知られる繁華街・オフィス街の梅田や大阪駅、北新地、北浜、淀屋橋などを中心とした地帯で、大阪随一のビジネス街・官庁街(市役所・府庁在所)でもある。一方、大阪市南部は「ミナミ」で知られる歓楽街の難波、心斎橋、天王寺、新世界(通称)などを中心とした雑多な商業集積地帯である。一般的に、全国的な報道や映画、ドラマの中のイメージで登場する「大阪」とは、この「ミナミ」を中心とする大阪南部一帯である。

それは例えば『じゃりン子チエ』の舞台である大阪市西成区、『ミナミの帝王』の主な舞台である難波・天王寺一帯(勿論この作品にはキタも登場するが)、そしてかの有名な「道頓堀」「グリコの看板」「くいだおれ人形」「通天閣」は、全てこの「ミナミ」の情景である。

全国的なイメージの中の大阪は、実際には「ミナミ」を中心とする大阪市南部であって、「キタ」を中心とする大阪市北部は余り登場しない。そして、この両者、つまり大阪の北と南は、まるで「南北格差」の様に、街の情景が全く異なっている。このことを理解しなければ、「大阪」という日本第二位の(人口的には横浜に次ぐ第三位の)巨大都市の実相は見えてこない。

・南北で全く違う大阪

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*大阪市南部「ミナミ」の代表的歓楽街、「道頓堀」(出典:足成)

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*大阪市北部「キタ」の代表的オフィス街、「梅田」(出典:超高層ビルとパソコンの歴史)

実際、「キタ」を中心とする大阪市北部を歩くと、「最後の一等地」と呼ばれた「梅田北ヤード(旧梅田貨物駅)」が大胆に再開発され、東京・新宿の超高層ビル群と引けを取らぬ圧巻の現代都市の景観が形成されている。淀川の対岸、西中島方面から梅田を望むと、全面ガラス張りのキラキラと煌く梅田スカイビル(北区大淀)が太陽光に反射して、その壮観たるや圧巻である。本当に大阪は大都会であるなあ、としみじみ実感するのだ。

そこにあるのは正しく「近未来都市」である。景観的に言えば、新宿よりも遥かに「未来」を感じさせる街並みが梅田にはある。更に梅田に隣接する、福島や曽根崎、堂島は完全に東京の大手町や丸の内と変わらない、寧ろ東京を凌駕する程の超近代的オフィス街に変貌している。縦横無尽に張り巡らされる巨大な梅田の地下街と相まって、一瞬、ここが大阪なのか東京なのか、迷うほどだ。

尤も大阪市北部にも「十三(じゅうそう)」や「淡路」「上新庄」等に代表される雑多な下町風情は残されているものの、全般的に大阪市北部は、富裕層向けのタワーマンションが次々と乱立し、またアパレルテナントやカフェ、商業施設やホテルが集積している。この地域は「道頓堀」「くいだおれ」でイメージされる大阪とは全く異なる表情をみせるのだ。

一方、「ミナミ」を中心とする大阪市南部を歩くと、そこは途端に「昭和にタイムスリップした」かに思える風景に出くわす。例えば西成区や大正区、住之江区、浪速区を歩くと、文字が判読できないほど日に焼けた商店の看板、車一台がようやく通れるか通れないかという位の一方通行の路地、猫の額ほどの庭先にこれでもかと並べられている鉢植、「ユビキタス社会」とは無縁の新聞自販機、僅かなスペースの軒先で惣菜を売る個人商店と、今にも電線に接触しそうな位、密集して建てられている木造住宅や2階建ての文化住宅(賃貸長屋)…。同じ日本なのに、同じ空を観ているのに、この街を歩いている時に観る青空は、いつもどことなく曇っていて、しかも低いような気がするのだ。

断っておくが私はこのような「昭和三十年代風」の街並みが大好きで、たまの来阪の折には密かに被写体とする趣味を持っているのだが、それにしても、大阪市の北部と南部の余りの違いに驚かされるのである。

東京にはこのような光景は原則存在していない。東京の東部、つまり江東・台東・足立・江戸川・葛飾など、戦前からの伝統的な「下町」と呼ばれる地域は、確かに世田谷や杉並のような「西部の山手地域」よりは若干庶民的な情緒があるものの、大阪の南北の比ではない。土台、東京とは比べ物にならないほどの「南北格差」が大阪にはあるのだ。

・大阪「南北格差」の歴史

「キタ」を中心とする大阪市北部は、近世江戸時代からビジネスと金融、或いは行政の中心地であった。世界初の商品先物取引が行われたのは大阪北区の堂島の米市場であり、よく知られるようにこの時代、全国の米相場の趨勢を一手に握った。またそれに伴い、諸国から集まってきた米の集積場(蔵)や野菜や魚などを売りさばく大市場が立地したのも、天満(同北区)などこの周辺であった。

一方、「ミナミ」を中心とする大阪市南部は、近世江戸時代には「渡辺村」と言われた皮革職人や家内制手工業の工人らの拠点が集積した一大地域を有し、往時にはその人口は10万を超えたともされる。この一帯は、現在の浪速区・西成区の領域である。

つまり近世期から大阪(当時は”大坂”と表記)は、南北にその職能領域が分離される傾向にあった。これが現在の大阪の都市構造に少なからぬ影響を与えていることは確かである。

近代明治に入ると、大阪は西日本最大の工業都市として君臨し、また1923年の関東大震災で東京が壊滅すると、一時期大阪は総人口320万を数え、日本最大の大都会となった。「大大阪」「煙の都」「東洋のマンチェスター」等と大阪が謳われた絶頂期は、まさに大正・昭和初期(概ね戦時統制時代)の時代だったのである。

またこの「大大阪」の隆盛を支えた旺盛な人口を吸収するため、「阪急」「阪神」「京阪」「近鉄」などの大資本・財閥主体の私鉄沿線開発が進み、大阪の周辺部に衛星都市が発展した。関西が現在「私鉄王国」と言われる所以はここにある。

これにより主に西宮・芦屋・宝塚・伊丹・池田・豊中などの「阪神間」衛星都市が形成された。これらのハイソな郊外都市郡と「大大阪」が一体となって生まれたのが所謂「阪神間モダニズム」であった。

ところがこの「大大阪」の隆盛は、先の大戦を境に一変する。東京が三度の大空襲で灰燼に帰し、全市的な被害を受けたのとは対照的に、大阪の被害にはムラがあった。首都圏は東京を始め川崎も横浜も全滅したが、関西は大阪の半分と京都、奈良とその周辺の衛星都市は概ね無傷であった。これにより戦後の復興は、どうしても東京偏重を余儀なくされた。

大阪発祥の旧財閥系企業は、高度成長時代を通じて次々と本社を東京に移していった。一方、大阪は重厚長大産業と町工場という旧態依然とした産業構造が温存され、転換が遅れた。この事自体が、「大阪府と市の二重行政の悪弊の結果である」と指摘する向きもある。ともあれ大阪市、とくに大阪南部が、旧態依然とした街並みを、良い意味でも悪い意味でも守り続けているのには、このような背景が関与するところ大であろう。

・関西圏全体でも存在する「南北格差」

例えば大阪市内ではないが同市東部に隣接する守口市・門真市の例。ここは、松下電器産業(パナソニック)の本社が現在でも存在するが、大阪府下でも最も「貧困」が進む地域の一つでもある。ここには、高度成長時代に松下の下請けの関連会社の職を求めて、主に西日本の郡部から流入した半日雇い労働者がそのまま住み着き、定着した経緯がある。

それでも90年代までは何とか職を保っていたが、他の製造業がそうであったように松下が国外へその工場を次々移転させると、途端に職が減り困窮する。高度成長時代のシステムを存置し、そしてそれに取り残され、高齢化して郷里に帰ることもできず土着した人々が、いまだに1960年代当時に建造された文化住宅(主に関西地方に特有に見られる、2階建ての木造長屋アパート)に住み続けている一帯が存在している。

当然、生活保護受給率はおどろくほど高く、当該の市(門真・守口・寝屋川)などの財政を圧迫している。こういった市の中にある超過密木造住宅地域は、特に阪神大震災以降、防災の観点から地方自治体主導で積極的な改善策が実施されているものの、全てをカバーしているとは言い難いのが現状だ。

このような事例は、中小企業や町工場の多い大阪市南部や東大阪など、大阪府東部・南部の周辺地域でも顕著に見られる現象である。

一方、大阪市のみならず大阪府や、その通勤圏全体を俯瞰した場合、淀川の北部、所謂「北摂(ほくせつ)」と呼ばれる地域(豊中・吹田・池田・高槻・摂津・茨木)等や、前述した「阪神間モダニズム」を受け継いだ阪神地区(神戸・西宮・芦屋・伊丹・宝塚)等は、こういった問題とはほとんど無縁の高所得地帯を形成しており、関西随一の高級住宅街を形成している。

つまり大阪通勤圏全体で観た場合は、淀川を挟んで北部(北摂・阪神)と、それ以南の南部(大阪市南部・河内・泉州)の明らかなる地域格差が存在しているのだ。

余談だが、ゼロ年代に一世を風靡したアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』はこの中の一つ、兵庫県西宮市(夙川周辺)を舞台にした作品であり、同じ関西を舞台にした『じゃりン子チエ』(大阪市西成区=同市南部)と、直線距離で20キロも離れていないが、街の風情は「まるで異国」と思えるほど、圧倒的に異なる。

大阪市内の「南北格差」のみならず、関西圏全体を俯瞰した場合でも、この「南北格差」は淀川を挟んで明らかに顕著であり、その差は東京の東西の差とは比較にならぬほど大きい。

・大阪市も大阪府も「南北格差」

大阪都構想の話に戻ると、大阪市北部が賛成、大阪市南部が反対という構図は、まさにこの「南北格差」を背景にしているだろう。すなわち、比較的所得水準が高く、都市の再開発も進んでいる「キタ」を中心とした大阪市北部と、高度成長時代の産業構造を転換することができず、成長から置き去りにされた、低所得地域が多い大阪市南部の格差である。

試しに高所得世帯の分布を観ると、明らかに大阪北部と、そして大阪府全体を観た場合でも大阪府北部にその数が偏重していることが分かる。以下の表は、関西圏における高所得世帯が居住する自治体のTOP30を表したものである(”首都圏と近畿圏における高額所得者の居住地分布に関する研究(近畿大学)”論文の掲載データからの引用=2007年度)。

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これをみても一目瞭然のように、大阪市内に限れば、高所得自治体は「キタ」エリアの代表格である大阪市北区(西天満・梅田)が4つもランクインしている。また大阪府下に視点を広げてみても、高所得世帯が住む街には、伝統的な大阪通勤圏の北部、つまり「淀川以北」の北摂・阪神間の、芦屋・西宮・神戸・宝塚の「阪神間モダニズム」地域で独占されていることがわかろう。淀川以南でわずかにこれにランクインしているのは、大阪府東部の八尾市の一町だけである。

いかに大阪市内で「南北格差」が顕著であり、また大阪府下でも「南北格差」が熾烈なのか、伺えるというものだ。

・改革を拒否した低所得地域

大阪都構想は、大阪市を排して大阪都を置き、市と府の二重行政を一挙に解消して合理化を図ろうという大胆な構想であった。その実効性を巡っては百花繚乱の議論状況を呈していたし、冒頭から繰り返すように私は大阪府民ではないので、この「都構想」の実際の予想効果の判定については、ここで敢えて評価する立場にない。

しかし、一般的には、所得の高い地域の層、つまり比較的生活に余裕のある層は、橋下氏の訴えたような改革的な風潮に一抹の心地よさを感じたことであろう。一方、所得の低い地域の層、つまり生活に余裕の無い層は、実際的な「都構想」の実効性はともかく、何事にも「急進的改革」には拒否反応を示すのは、古今東西の歴史が示すとおりである。

1959年にキューバで「キューバ革命」に成功し、親米独裁のバティスタ政権を打倒したチェ・ゲバラは、次なる革命を「輸出」すべく南米ボリビアで革命運動を行ったことは良く知られている。しかしゲバラは、現地の農民が僅かのばかりのカネで政府軍に買収され、その居場所を密告されたため捕らえられ、ボリビアで処刑され没した。

なぜゲバラはキューバでは成功して、ボリビアでは失敗したのだろうか。それは巨視的にはボリビア人民が貧しすぎて改革を拒否したからである。スティーブン・ソダーバーグ監督の映画『チェ・39歳別れの手紙』(2008年)では、その時の模様が克明に再現されている。

貧しさに耐えかね、その日の日銭もままならない、キューバよりも圧倒的に後進的だったボリビアでは、革命や改革の機運は起こらなかった。人民は貧しさの中、遠大で崇高な目標よりも、その日の晩飯を喰らう日銭を重視したのである。貧しすぎると人々は却って保守的になり、革命や改革は起こらない。フランス革命やロシア革命の主導層が、貧困に苦しむ農奴や都市労働者ではなく、中産階級のインテリであった事と似ている。このことは言葉を慎重に選ばなければならないが、まさに「皮肉」という他ない。

大阪都構想の「南北問題」をこの、チェとボリビアの関係に割り当てるのは若干不謹慎だが、私は、この顕著に示された「南北問題」の投票結果の地域差を鑑みて、この故事をまじまじと思い出したのであった。

・大阪のゆくえ

現在、大阪市の「ミナミ」に代表される大阪市南部は、横浜ランドマークタワーを超える日本一の高さを誇る複合ビル「あべのハルカス(300m)」が落成し、新しい求心力を獲得しつつある。それに呼応するように、これらの中心部は主に鉄道の利便性を生かして富裕層向けのタワーマンションが開発されている。このような意味では、「ミナミ」の中心たる浪速区はやや活況を呈している(よってここでは、都構想に「賛」と出ている)。停滞するのは再開発に湧く「ごく一部のミナミ」以外の、広域な南部一帯であろう。

それでもやはり大阪市南部は路地を一歩入ると、そのあまりの格差に愕然とする。例えば「ミナミ」の一角を占める日本有数の電気街であった浪速区の日本橋筋は、ゼロ年代に大阪「キタ」にヨドバシカメラの旗艦店「ヨドバシカメラマルチメディア梅田店」が開店したことにより一挙に電気街としての地位を失い、往時の輝きはない。大阪市南部の中にも、更にムラがある状況だ。

日本橋筋は「西の秋葉原」等と言われてメイド喫茶や同人誌販売店などが細々立地するものの、所詮ローカルの趣味人相手であり、「ヨドバシカメラ梅田」や「本場の秋葉原」には対抗できず、店先には閑古鳥が鳴く。大阪南部の凋落は広域に及んで改善の気配は中々見えない。

ヒト・モノ・カネが大阪市北部と、俯瞰すれば大阪府北部にますます流れこむ時、橋下氏の訴えた「大阪都構想」はある種の起爆剤になり得たとも言えるし、なり得無かったとも言える。肯定的に見れば疲弊する大阪市の南部を二重行政から救えたかもしれないし、否定的に見れば土台、東京と比較にできぬ「南北格差」は、都構想とて解消できぬほど深い根本的問題と捉える事もできよう。繰り返し言うように、私はこれを以って「都構想」の賛否を表明するものではない。

大阪府全体が神奈川県の人口に追いぬかれて全国人口順位三位に転落した大阪の凋落は、市・府を問わず誰の目にも明らかである。そのことを踏まえて、現地・大坂の危機感は相当のものが伝わってくる。今回、「大阪都構想」は否決されるに至ったが、この危機感の共有は、「都構想」への賛成・反対、そのどちらの陣営も共通して持っている感覚なのは否定出来ないだろう。

私は、青年時代・大学生時代の十余年を過ごした関西を「第二の故郷」と思っている。私は大阪と関西を愛している。「都構想」に関わらず、大阪再興の方法は、縷縷あると思う。個人的に「大大阪」の復権を切望するものだ。そして、それは必ず、将来において「なる」と確信するものである。大阪府民の選択を尊重しつつ、大阪の将来展望は今より始まるものだと、肝に銘じるべきでろう。

*冒頭写真出典「CanStock Photo」大阪市梅田(キタ)

*追記 2015.5.18