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FBプロフ「フランス国旗化」に対する強い違和感

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
(写真:アフロ)

FBフランス国旗化キャンペーンに早くも疑問の声

「9.11」以来、最大規模のテロがフランスで起こった。私はずっとCNNをつけているが、ローマ法王は「第三次世界大戦のようだ」と述べ、世界中で追悼集会が開催されている。トルコを訪問中の安倍首相も、トルコ首相とともに黙祷を捧げた。日本時間で11月15日午後3時現在、このテロの犠牲者は129名と報道されている。

この未曾有のテロを受け、米Facebook(FB)は11月13日から”「パリ市民の安全と平和を願うプロフィール写真を設定しよう」キャンペーン”を開始し、日本においては14日夜から同様の試みが開始されている。FBのプロフィール写真にフランス国旗の三色旗を重ねあわせることのできるこの仕様を、日本においても多くのユーザーが実装しつつある。

しかし、このFBでの「フランス国旗」が目立つにつれて、早速このキャンペーンに対する違和感も表明されつつある。ITmediaニュースは「テロの犠牲者はパリだけではない」としてこのキャンペーンに疑問を抱くユーザーの声を紹介し、ライターのふじいりょう氏はヤフーニュース個人の記事で「FBのプロフ写真を安直にトリコロール(仏国旗)化することにより、欧米の主張に組することになる」との警鐘を鳴らしている。

ザッカーバーグの笑顔

たしかに、テロの犠牲者はパリだけではない。フランス軍に空爆されて死んだシリアの人々の立場は?と返されると、確かに納得する。しかし私が感じた違和感はそういうことではない。FBのプロフ画面を仏国旗化したところで死んだ人は帰ってこないのは当然だが、一番象徴的なのは、このキャンペーンを開始したMark Zuckerberg氏の写真だ。

笑顔の写真に仏国旗を重ねるMark Zuckerberg氏
笑顔の写真に仏国旗を重ねるMark Zuckerberg氏

笑顔の顔写真の上に仏国旗を重ねるZuckerberg氏から、「誠実さ」を感じないのは私だけだろうか。文化の違いである、とは私は思わない。世界中で今回のテロの犠牲者を追悼する集会が開催されているが、その中でニヤニヤ笑いながら蝋燭を灯している人間は居ない。ホロコースト記念館や原爆資料館の前で、笑顔で記念写真を撮ることが不謹慎なように、私は「追悼」と真反対にあるのが「笑顔」だと思っている。

よく、ラブアンドピース、とかいってカメラの前でピースサインを取り、ニヤニヤ笑いながら平和を訴える人間がいるが、私はそういうたぐいの人間を一切信用しない。真に戦争を憎み、平和を希求するのならば、そこには「戦争という巨大な暴力や、身勝手な戦争指導者に対する怒り」があるはずで、そこに笑顔などはない。理不尽な悲劇への怒りの感情こそ、平和の出発点だと私は思っている。

「平和」を笑顔の情景で表現しようとする人が居るが、勘違いではないか。平和は怒りからしか生まれないと私は思う。二度と再びこの悲劇を繰り返してはならないという強い意志と怒りが、平和への橋頭堡になるのであって、躁的な笑顔からは何も生まれない。「追悼」「祈り」と銘打っておきながら、満面の笑顔に仏国旗を重ねるZuckerberg氏の姿勢に、私は有り体に言えば「軽さ」を感じた。この人は本当に、犠牲者を悼む気持ちがあるのだろうかと感じた。このFBの「キャンペーン」を実装する日本人のユーザーに対しても、同等程度の違和感を感じる。

「軽い」願いに意味はあるのか

”「パリ市民の安全と平和を願うプロフィール写真を設定しよう」キャンペーン”は、自身のプロフの上に仏国旗を重ねる「期間」を、「1時間」「1日間」「1週間」「有効期限なし」の四段階で選択できるようにしており、私が試した限りでは「有効期限なし」の選択がデフォルトで設定されていた。1時間や、1日限定の「鎮魂」というのも正直、思慮に足りないと思うが、「有効期限無し」を選択した場合、その人は、自分の寿命が続く限り、永遠に自分のプロフ写真の上にフランス国旗を重ね続けるのだろうか。そうはしないだろう。いづれの段階で、将来「元のプロフに戻す」というボタンをクリックするだろう。

そうすればその人物にとって「安全と平和への祈り」は外見上終了するが、今回のテロの犠牲者の家族や恋人や友人にとって、このテロの悲劇と苦痛は、これから一生継続される消すことの出来ぬ傷になるのである。「自分の意志で簡単に」仏国旗を消したりつけたりすることができる第三者と、一生涯、心の傷としてこれからの人生を生きていく遺族らの事を想像すると、私は実に「残酷な選択肢」だな、と思う。

祈りを他者に表明する必要はない

8月15日になると、先の大戦で犠牲になった英霊を顕彰するために、多くの人々が参拝する。一方で、「これみよがしに、この日にだけ」靖国に現れ、あまつさえ旧軍のコスプレを堂々と披露する人間すら少なくはない。彼らに「追悼」の気持があるとは微塵も思わない。それと同時に、8月15日にかこつけて、ここぞとばかり自らの参拝の様子を「自慢気」にFBにアップする人々もいる。その中には、笑顔の写真もある。英霊を顕彰する祈りは、自宅でも、そもそも8月15日以外にもできるはずだ。なぜわざわざコスプレや自分の参拝を第三者に撮影させてアップロードするのだろうか。そこに”不純な”自意識を感じる。

靖国神社への参拝と今回のテロの犠牲者の件を同等に扱っているわけではないが、「死者の魂に対する祈り」という意味では同じだ。遺族にとって永遠に続く悲しみと傷跡への祈りを、いちいちFB上で第三者が「写真のドレスアップ」という形式で表明する意味がわからない。鎮魂や祈りは、これみよがしに他者に表明するものではない、と私は考えている。私は古風な人間なのだろうか?いや、単に「もし自分が犠牲者の遺族だったら」を想像するだけだ。まして笑顔を介在させるという神経がわからない。僭越ながら私だったらZuckerberg氏にまず第一に「笑うな」という。

このような意見を述べると、「自分も追悼と平和への祈りというキャンペーンに共感したために、FBのプロフ写真に仏国旗を重ねた。有効期限はないが、”49日”を目安にしたい」という方が居た。とても土着的だが、真摯で誠実な人だと思う。私は、”「パリ市民の安全と平和を願うプロフィール写真を設定しよう」キャンペーン”に参加するなとも、このキャンペーンに参加している人がダメだと言っているわけでもない。少なくとも、笑顔の顔写真は「追悼」とは真反対にある、と憤慨しているのだ。

未曾有の、国際的なテロとその犠牲者や遺族に対し、わたしたち個人ができることは、極めて限られている。できることは、「祈り」であることには違いない。だが、自分が祈っていることを他者にわざわざ表明する必要はないし、それで今回のテロの犯人に物理的ダメージを与えられることも、当然ない。FBの機能は、ボタンひとつの簡便なものだ。であるがゆえに「重要な何か」が欠落していると、今回のキャンペーンなどを観るたびに感じることがある。それは多分、他者への想像力だ。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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