日本を滅ぼす『道徳自警団』―芸能人不倫騒動への考察―

「不倫は文化ではない」には同意するものの…(写真:アフロ)

・『道徳自警団』とは何か

芸能人と有名アーティスト間の「不倫騒動」が連日のようにマスメディアに「持て囃され」て久しい。具体的な法を犯したわけでもないのに、あくまで私人である彼女(或いは彼)が、スポンサー降板などの、具体的営利ダメージに代表される激しい社会的バッシングの矢面に立たされている。

その様相はもはや「社会的制裁」を遥かに超えた「集団リンチ」と言って過言ではない。正直ウンザリの感があり、また実に異様で特異な光景でもある。

具体的な法を犯したわけではないが、「道徳的価値観」に照らし合わせて「道徳的でない」と判断される人間を懲らしめたい―。しかし、「道徳的でない」というだけでは当然、司直の手による裁きにそれを委ねることは出来ない。よって自らが率先して攻撃しよう、という試みが生まれる。

このような「道徳的である」or「道徳的でない」を基準として、後者に該当するとみなされる個人や組織を自らの手でバッシングすることによりその「道徳的悪」を、法に頼ること無く自らの力で是正(根絶或いは屈服)しよう(=自力救済)、とする集団を、私は『道徳自警団』と呼ぶ。

『道徳自警団』の価値判断基準は、繰り返すように「合法」か「違法」ではなく、「道徳的か、そうでないか」という曖昧な皮膚感覚に基づいている。

この『道徳自警団』によるバッシング、すなわち自力救済の現象は、この国にインターネット文化が根付くのに比例して拡大の一途をたどっている。『道徳自警団』の主たる担い手は、インターネットユーザーと近年それに「媚びを売る」この国の既成の大手マスメィアに他ならない。

・『道徳自警団』暗躍の代表的事例

『道徳自警団』の暗躍例としては、まず原初に、古くは2006年に起こった所謂『ケツ毛バーガー事件』があげられるだろう。大手電気会社の社員がファイル共有ソフトのウィルスに感染したことにより、交際相手とみられる女性の「あられもない姿」が暴露されることとなり、2チャンネルを中心に「祭り」となり、本人特定にまで至った騒動である。

特定された本人に対しては激しいバッシングがネット上から浴びせられた。交際女性の「あられもない姿」を個人的に内々に撮影することは相互の同意の元にあっては何ら違法性はない。が、「大手電気会社の社員」という撮影者の社会的肩書も影響してか、これは「道徳的でない」と見做されて血祭りにあげられた。

また2008年には、大手菓子メーカーの『おやつカンパニー』がテレビCMとして放送(主に中京圏)した「地元伊勢の国うす焼えびせん」のコマーシャル内容中、夫がおみやげとして買ってきた同名商品を、受け取った妻が夫ではない別の男性と食している姿が「不倫を想起させる」という視聴者からのクレームにより放送中止に追い込まれた事件。このCM中に直接的に不倫を伺わせる描写はないし、さりとて別段刑法に違反しているわけでもないが、それを僅かに匂わす演出に「道徳的でない」との声が高まったからだ。

また2011年には現代芸術家・村上隆氏による作品が展示されていた西武百貨店渋谷店(東京)で、同年1月25日から開催されていた「SHIBU Culture~デパート de サブカル」が、「ごく少数」の客らのクレームによって開催期間終了をみることなく突如中止とされた。

具体的理由は明らかにされていないが、「見る方によっては不快に感じるものもあるかもしれない」との百貨店側の説明にあるように、少年・少女の裸体(に近しい姿)をモチーフにする、などの村上氏の作風が、法に違反しているわけではないが「著しく道徳的でない」と映った上での抗議であったことは、容易に想像できるだろう。

また記憶にあたらしいところでは、2015年3月、大分県の高崎山自然動物園で誕生したニホンザルの♀の名前を公募(選抜総投票)した処、「シャーロット」という名前に決まった。

ところがこの名前は、同時期に英王室で誕生した女児と同じ名前であったことから、全国各地から「英王室に不敬である」の抗議の声が殺到したという。私はこの件に関して、昨年、当該の動物園に直接電話取材したが、その反応は凄まじく、当該動物園と大分県などに併せて延べ1000件近くの抗議の電話やメール、FAX等が殺到したという。

動物園で生まれたニホンザルの♀に、「シャーロット」と命名するのは何ら法律違反ではない。にも拘らず、抗議者の多くは、「合法か」「違法か」を糾弾の理由としたのではない。英王室への尊崇、を基準とした「不敬であるか、否か」という道徳的基準を根拠としたのだ。結果、ニホンザルの♀への「ジャーロット」の命名は、動物園側の「英断」によって撤回されることはなく、「騒動」はすぐさま、まるで忘れ去られたのだった。

このように、具体的な法を犯したわけではないが、「道徳的価値観」に照らし合わせて「道徳的でない」と判断される人間を懲らしめたい―。という欲望を持った『道徳自警団』の暗躍の例は、具体例を挙げればそれで一冊の本ができてしまうほど枚挙にいとまがない。

考えてみれば、例の「五輪エンブレム」問題で揺れたデザイナー・佐野氏の件についてもそうだ。佐野氏は最後まで「五輪エンブレム」の剽窃を認めたわけではないし、そもそも、或る高度にデフォルメされたロゴの剽窃云々は判断の難しい多角的な批評眼を要するが、彼は別案件(サントリーHD株)の商品デザインで剽窃「らしきもの」が確認されたことを傍証として、所謂「ネット世論」から徹底的に追い詰められた。

そしてついに「陥落」した。佐野氏に刑事的な意味での責任は全く無いにも関わらず、「こんなふざけた奴が五輪エンブレムのデザインをするなどとは、到底道徳的でない」というネットユーザーの声に、結果として組織委員会も動かされ、佐野案を「ボツ」にして、五輪エンブレムをゼロから公募にしたという一連の「騒動」の顛末は、周知の通りである。

佐野氏は具体的な法を犯したわけではないものの、日本国内の一部からの「道徳的でない」という『道徳自警団』の自力救済の力によって、失墜の憂き目にあったのである。

もはや主にネット上での攻撃によって、「道徳的でない」と見做されうる私人は、法に頼らずとも、いかようにも集団リンチ可能で、よって屈服させることも可能ある、とする自力救済の理論を有する『道徳自警団』の暗躍は、私達の実社会の中に少なくない影響を持っているといえる。

・『道徳』を基準として善悪を判断することの何がいけないのか

具体的な法を犯したわけではないが、「道徳的価値観」に照らし合わせて「道徳的でない」と判断される人間を懲らしめたい―。という欲望を持つ『道徳自警団』の何がいけないのだろうか。

道徳の基準は時代や社会の変遷によって目まぐるしく移り変わり、恣意性を帯びるからだ。ただし当然、我々の社会では、道徳を基準として法が作られてきた側面も、多分に存在する。

例えばこの国においては、代表的なものに『姦通罪』(1947年廃止)、『不敬罪』(1947年廃止)、『尊属殺人罪』(1995年廃止)などである。これらの法は、成立当時の道徳的背景(例えば―性倫理、明治国家の天皇制護持、儒教的概念など)に基づいて立法されたものであることは明らかである。

つまり道徳的基準=法であった時代が、過去確かに存在したのは事実だ。が、現在において、このような封建的な観念に基づく法は、そのほとんどが時代の趨勢に合わせて無効化されている以上、我々は、あくまで「現在の法」に従って善悪の判断を形成するべきであり、それは決して曖昧な道徳的基準であってはならないのである。

道徳的基準で物事の善悪を評価する社会は、前近代の中世社会に等しい。法でなく道徳で人を裁くという世界観は、「キリスト教的道徳観に背く」として火炙りや溺死させられた数多くの「邪教徒」として処刑された無辜の中世の人々を思い起こさせるばかりか、「ドイツ国民は等しくアーリア人的であるべきだ」というナチス・ドイツ当時の「道徳的価値観」を基準として、そこから排斥されたドイツ国内やその占領地域での、同性愛者や障がい者などがナチスによっていかなる運命をたどったか、という悲劇的な末路とあまりにも重なるのである。

そしてナチスは、その身勝手な「アーリア人的道徳的価値観」をあらゆる「科学的理屈(それはトンデモであったのだが)」で正当化し、往々にして近代法の中に組み入れ、法的に「迫害と掠奪」を正当していった事実も、忘れてはならないのだ。

・日本が中世に退行して良いのか

「不倫は文化である(文化の源泉だ)」的なニュアンスの発言をとある著名俳優が放ったことはあまりにも有名である。私は、妻(或いは夫)のある人間が異性と「不倫」するのを、決して「道徳的」であるとは思わない。できれば、双方のため(或いはその周辺のため)にも、芸能人と著名アーティストの不倫沙汰は、極力無い方が越したことは無い、とは思う。

しかしそれは、あくまで「私人間の摩擦」であって、社会的制裁を受けるべき性質とは全く異なっている。その理由とはただ一点、彼女(或いは彼)らが、法を犯したわけではないからだ。法を犯していない以上、それは民事的な係争であり、当事者間での問題である。

1998年、ビル・クリントンとホワイトハウス実習生モニカ・ルインスキーとの「緊密な交際(不倫)疑惑」は、ビル・クリントンが合衆国大統領という「公人」だったから発生したスキャンダルであって、私人の範疇では論外である。

私人間の係争をさも「道徳的でない」と見做して、メディアや社会が総バッシングする態度は、到底近代国家の姿ではない。それは法ではなく「道徳」が優先する中世の世界のようで、空恐ろしささえ感じる。

恣意的でルールの不明瞭な中世の「道徳社会」に於いては、「あるものは無罪に」「あるものは死刑に」という極端な裁量がまかり通る。裁判官は常に「道徳的価値観」の優劣で、あるいは「大衆の風向き」で量刑を判断する。法でどう定めていようと、「道徳的ではない」の大合唱の前で、司法判断が覆される。そして裁判官が判決を下さないのなら、在野の民衆が自力救済して「犯人」をギロチン台に載せる。『マッド・マックス 怒りのデスロード』の世界も真っ青な、狂気の終末世界の到来である。

道徳に忠実であれば無罪、それに反すれば極刑という社会は、近代国家の根幹を揺るがすどころが、ルール不明の中世カオス社会に突入する。その時々の「道徳的基準」を忖度して人々が行動する社会は、好意的に言えば多分に「情緒的」だが、裏を返せば「異常」だ。それは近代国家の枠組み自体が溶解する大問題に直結する。

・『道徳自警団』の未来とその展望

具体的な法を犯したわけではないが、「道徳的価値観」に照らし合わせて「道徳的でない」人間を悪とみなして総バッシングし、あまつさえそれを煽る報道姿勢は厳に慎まれるべきである。

そして最も重要な事は、現代において、「道徳的価値観」を声高に叫ぶ『道徳自警団』の構成員の中(主にそこには日本の保守派、とみなされる人々が多く含まれている)には、実のところ全く「道徳的でない」私生活を送っているという二律背反が存在するという点だ。

つまり、他者を「道徳的でない」として『道徳自警団』の手による血祭りの刑にあげながら、自らが最もその「道徳的世界」とは逸脱した生活を送っているのが、『道徳自警団』の真の姿の一部分であるのだ。

『道徳自警団』がことさら「道徳的である」ことの至高を追い求めるのは、自らをして「道徳的でない」私生活を送っていることの隠せざる「やましさ」が露見することへの心の防御反応の一種と捉えることも出来る。

この部分は更に追加の精査を以って将来の記事発表としたいが、この国を中世に退行させる『道徳自警団』の存在は、百害あって一理なしである、というのは、共通した結論であるに違いない。

『道徳自警団』は確実に日本を滅ぼす一里塚になっている。法が支配する近代国家の大原則の中で、道徳で価値観を判断し、あまつさえそれを自力救済しようとする民衆やメディアは、「蛮族」の誹りを受けても致し方ないのではないか。