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ドゥテルテ比大統領は本当に「暴言大統領」なのか?~フィリピン苦難の歴史的背景~

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
訪日後、会見するドゥテルテ比大統領(写真:ロイター/アフロ)

・ドゥテルテは本当に「暴言大統領」「フィリピンのトランプ」なのか?

「暴言大統領」「フィリピンのトランプ」などとさんざ揶揄されてきた比大統領ドゥテルテが3日間の訪日日程を終えて、フィリピン帰国の途に着いた。この間、日本のみならず世界中のマスメディアがドゥテルテの一挙手一投足に注目した。近年、フィリピン大統領がこれほどの存在感を示し、耳目を集めた例を筆者は知らない。

「(米大統領オバマに対し)お前は地獄へ行け。地獄に落ちるんだ」「私の在任中にアメリカと縁を切るかもしれない」「アメリカよ、もしお前らがフィリピンに武器を売らないのなら俺はロシアに行く」「俺は主権国家の大統領だ。もうフィリピンは植民地じゃないんだ。フィリピン国民以外は俺の主人ではない」などの露骨な「反米」発言や、性犯罪被害者に対する物言いを含め、その「暴言」「奇言」ともとれる数々の発言で、日本メディアは冒頭のように、ドゥテルテを「暴言大統領」「フィリピンのトランプ」などと呼んできた。

しかし、ドゥテルテの発言は、その表現方法はともかく、本当に「暴言」や「比のトランプ」などと揶揄されるに適当なのだろうか。ドゥテルテは90%ともいわれる圧倒的な国内支持率を誇り、先日訪日した際にも、在日フィリピン人から熱狂的な歓待を受けた。つまりドゥテルテの発言はトランプのような思いつき、圧倒的民意を背景にしない「暴言」とは言い切れないのである。

このドゥテルテ現象ともいうべき背後には、アジアで最も艱難辛苦の歴史を歩んだフィリピンの苦難に満ちた歴史的背景を無視して語ることはできない。

・333年間スペインの植民地に(中世~近世)

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フィリピンの歴史は西欧による植民地の歴史と完全に同一である。世界一周航海を果たしたスペインの冒険家、マゼランが1521年、現在観光地として著名なセブ島に上陸、同地でキリスト教の布教を始めたことから、フィリピンの「スペイン化」は開始されるのだ。国土をイスラーム教徒に占領され、ようやくイベリア半島を回復したスペインは、隣国ポルトガルの植民地獲得競争からはやや出遅れた。その結果、ポルトガル未進出とされたアジアに目を向けたスペインは、セブ島を拠点にフィリピンの本格的植民地化を推進する。

セブ島をフィリピン植民地化の拠点としたスペインは、実に1565年~1898年までの333年間フィリピンを植民地化し、フィリピンはスペインにおけるアジア侵略の拠点として植民地としての辛酸を舐めるのである。この間、スペインはフィリピンを中継貿易の拠点として大いに利用した。当時、メキシコをも植民地としていたスペインは、マニラ~アカプルコ(メキシコ)経由の貿易航路を開拓し、その差益でスペイン人はぼろ儲けした。当たり前のことだが、この大航海時代の貿易による巨万の利益は、すべてスペイン人に吸収され、現地人には還元されていない。

そんな中、19世紀末になって唐突にスペインによるフィリピン支配は終了する。1898年の米西戦争によりスペインが一方的にアメリカに対し敗北を喫したからである。スペインの植民地支配は、隣国ポルトガルがそうであったように、植民地からの富の収奪を本国などでの瀟洒な生活に変換するだけ(収奪型)で、植民地からの利潤を余剰資本として蓄積し、それを投資にまわすという、資本主義時代の帝国主義からは全く遅れていた。

その結果、世界中に植民地を持ったスペインは、プロテスタント教国であるオランダ、ついでイングランド(英)に次々に破れていき、19世紀にはいると完全に斜陽の帝国に成り果てていた。その斜陽のスペインに決定的トドメを刺したのが、南北戦争後の新興国アメリカであり、これによってスペインは、モロッコ・西サハラ・赤道ギニアを除き、かろうじて海外に保有していたプエルトリコ、グアム、キューバ、そしてフィリピンが軒並みアメリカの支配権に移った。

米西戦争による完膚なきまでのスペインの敗北は、スペインの衰微を不可逆なものとし、これが1930年代におけるスペイン内戦の巨視的な遠因となっていく。ともかく、アメリカの到来によってフィリピンは3世紀に及ぶ苦難の植民地支配から開放された、か…に思えた。

・今度はアメリカの植民地(近代、20世紀)

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米西戦争の結果、フィリピンはアメリカの支配するところとなった。実はフィリピンにおける独立の気運は、米西戦争直前の段階で高まっており、米西戦争が始まると在フィリピンの独立運動家は、ひそかにアメリカに協力するなどし、その見返りとしてフィリピン独立を夢想したのである。

しかし、その儚い望みはすぐにアメリカによってふじられる格好となった。アメリカはスペインからフィリピンを「戦利品」として獲得するとすぐに軍政を敷いた。その後、民政に移行するものの、アメリカによるフィリピンの政・財・官にわたる支配は爾来半世紀以上にわたって続くのである。もっとも、アメリカによるフィリピン統治はスペイン統治よりは存分温和であった。

学校・教会の建設をはじめ、制限選挙の実施、法の支配の貫徹など、アメリカによるフィリピン統治はアジアにおける模範的植民地経営と言わさしめたのである。マニラはアメリカによって建設された西欧風の近代建築物が林立し、所得水準も飛躍的に向上した。この時期のマニラには、日本人労働者が出稼ぎにやってくるほどの繁栄ぶりだったという。

しかしながらこのようなアメリカの統治下でも燃え上がる独立の気運は衰えることなく、ついに1934年には、エマニュエル・ケソンらの度重なる訪米や議会関係者へのロビーイングなどの尽力により、アメリカは「1946年のフィリピン独立」を約束。1935年には正式にアメリカの自治領となり、フィリピン独立準備政府(首班・ケソン)が発足して、約10年後の独立に備えるという、全フィリピン人民の念願がようやく結実されるかに見えた。しかし…

・日米戦争の犠牲者として(戦中)

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フィリピン独立を約5年後に控えた1941年12月8日、日本軍がハワイ真珠湾を奇襲し、同じころマレー半島の英領コタバルに奇襲上陸した(南方作戦)。いわゆる日米戦争の開始であった。大本営は、アジアにおける米軍の拠点であったフィリピン攻略を、本間雅晴中将率いる第14軍に担当させ、マニラを含む全ルソン島の迅速占領を目指した。またフィリピン南部のミンダナオ島は戦前から日本人入植者が定住していた関係上、坂口支隊らが救援に向かうなどした。

天然の要害であったコレヒドール要塞の抵抗は予想外であったものの、南方作戦のひとつの要である日本軍のフィリピン占領はおおむね、成功裏に終わった。しかし、日本軍のフィリピン統治は失敗であった。軍票を乱発したことにより、フィリピン経済は悪性インフレとなり、さらに戦局が悪化することにより反日感情が激増。オーストラリアに逃れたマッカーサーと緊密に連絡をとった抗日ゲリラが各地で跋扈し、日本軍は焼け石に水の討伐作戦を繰り返した。

この泥沼の展開が、さらにフィリピン人の反日感情を高ぶらせたのである。最終的に在フィリピン日本軍はレイテの戦い以降、米軍の逆上陸と侵攻により陸海で壊滅。マニラをはじめ多くの主要都市が地上戦で灰燼に帰した。フィリピンの戦後は、日米の巨大な二頭の巨像がフィリピンの大地で勝手に暴れまわったことによって、多数の無辜の民間人犠牲者の亡骸を残し、焦土からの出発を余儀なくされるのである。

ちなみに日本政府は、「大東亜共栄圏」の理想の元、1943年10月に親日派のホセ・ラウレルを首班としてフィリピンを独立させるが、すでに1934年の段階で、アメリカにより1946年の独立を約束されていたフィリピン人にとっては新鮮なものではなく、また戦局悪化により独立の感慨は低いものであった。なにより、ラウレル政府は全く日本の傀儡であり、「大東亜共栄圏」の美名のもと、フィリピン独立は書類上だけのものであった。

・アメリカの経済植民地として(戦後)

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日本の敗戦後、フィリピンに舞い戻ってきたアメリカは、戦前からの「約束」どおり、フィリピンを1946年に独立させた。しかし、これは手放しで与えた自由では決してなかった。アメリカは、戦前から残るフィリピンの利権を決して手放そうとせず、独立と同時にフィリピンと悪名高い「ベル通商法」を締結する。この「ベル通商法」は、アメリカ資本や企業だけに最恵待遇をあたえ、フィリピン全土における自由な資源開発等を許可するもので、実質的な経済植民地とされたのである。

また軍事的にもフィリピンは戦後、アメリカの実質的保護国であり続けた。1947年に締結された「米比軍事援助条約」は、フィリピン国内の22箇所に上る軍事施設の99年間の提供、という実質的な恒久軍事基地条約であった。圧倒的に国力に劣るフィリピンは、アメリカとの力の差の関係上、このような不平等に甘んじるより他なかったのである。

ちなみにフィリピン利権に最もこだわったのは、ダグラス・マッカーサーである。マッカーサーの父、アーサー・マッカーサーはフィリピンアメリカ統治時代の最後の民政長官であり、ケソンを含めフィリピンの親米勢力と太いつながりを持った。その子、ダグラス・マッカーサーが、日本軍によりフィリピンから駆逐され、オーストラリアに逃れてなお、「アイ・シャル・リターン」を宣言したのは、すなわち親子二代で形成してきたマッカーサー家のフィリピン利権の回復こそが、真の目的に違いなかったのである。

・挑戦するフィリピンを見習うべし(現在)

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フィリピンの戦後は、アメリカとの癒着である。1965年~1986年の実に約30年間、フィリピンは親米独裁のフェルナンド・マルコス政権が支配した。これはスペインから代わってキューバをその影響力に置いたアメリカによる、バティスタの親米独裁政権を彷彿とさせる(キューバ革命で転覆)。1986年、反マルコス派を中心に人民革命が起こり、反マルコスの象徴であったベニグノ・アキノが大統領に就任し(ピープル・パワー革命)、マルコスは最終的にハワイに亡命する顛末となり、独裁政権は終わる。

そして1991年、冷戦終結によりアメリカ軍のアジア展開が見直され、米軍が全面撤退した。しかしそれ以後、中国の経済発展と南シナ海への海洋進出が露骨になると、フィリピンは再び米軍再駐留を許可する方針へと変化しつつある。

ことほど左様に、フィリピンはマゼランの時代から数えると、実に500年近く、西欧列強の植民地支配の犠牲者であった。アジアで最も、植民地の辛酸を舐めた国家であったといえる。そんなフィリピンの苦難の歴史を鑑みれば、直近の支配者であるアメリカに対するドゥテルテの呪詛は、単なる「暴言」とか「フィリピンのトランプ」などと片付けられる類のものではなく、フィリピンの歴史的苦難を背景にしたものとしなければならない。

とはいえ、フィリピン人の対米感情は表面上必ずしも悪くなく、最近の同国世論調査では、「アメリカを大いに信用する」と回答した同国民が70%以上にのぼっている。しかし韓国国民が表向き日本に対して嫌いの印象を多く持つが、一方で「最も見習うべき国」に日本をあげることが恒例となっている事実を考えると、この種の世論調査がフィリピン人の深層心理までくみ上げているとは考えにくい。

欧米列強により、500年近く植民地の辛酸を舐めてきたフィリピン人の心象の奥底にある、最も的確なアメリカへの反発がドゥテルテから粗野ではあるが素直な表現として代弁されたと見るべきではないか。そのことこそ、彼の圧倒的に高い支持率が裏付けているのである。

フィリピンは人口1億人弱の大人口国にもかかわらず、その名目GDPは日本の15分の1程度で、国民所得も中進国の域にすら達しておらず、同じASEAN諸国のタイやマレーシアに対し、大きく水を開けられている。軍事力もシーレーン防衛の要で、中国の海洋進出に対抗するはずの海軍力は極めて脆弱に過ぎない。

しかしとみに思うのは、このような日本に比して圧倒的な小国が、アメリカの顔色を仔細伺うことなく、堂々と持論を展開してはばからない姿勢は、正直に「羨ましい」とさえ思う。フィリピンよりもはるかに巨大な経済大国、軍事強国であるにもかかわらず、アメリカに依存し、アメリカの顔色を伺うことで戦後の70年間以上を過ごしてきた日本が、苦難の歴史を背景としたドゥテルテの言を、「暴言大統領」「比のトランプ」などと揶揄するに足る資格があるのだろうか。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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