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「教育勅語礼賛」の気持ち悪さ

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
疑惑の渦中にある森友学園が運営する塚本幼稚園(大阪市)(写真:ロイター/アフロ)

・「昔はよかった」という妄想

森友学園を巡る一連の騒動でにわかに注目されだした「教育勅語」。同学園が運営する大阪市内の塚本幼稚園では、「先人から伝承された日本人としての礼節を尊び、それに裏打ちされた愛国心と誇りを育て…」としたうえで、その教育内容に「毎朝の朝礼において、教育勅語の朗唱、国歌“君が代”を斉唱します」と明確に謳っている。

くしくも3月8日、稲田朋美防衛大臣は参議院予算委員会で、

教育勅語の精神である親孝行など、核の部分は取り戻すべきだと考えており、道義国家を目指すべきだという考えに変わりはない。(中略)教育勅語の精神である親孝行や、友だちを大切にすることなど、核の部分は今も大切なものとして維持しており、そこは取り戻すべきだと考えている

出典:NHK NEWS WEB、強調引用者

などと、教育勅語礼賛を隠さない。森友疑獄とも呼べる一連の疑惑と、同学園の教育内容への是非は別問題としてとらえるべきであるが、同学園や稲田大臣が筆頭のように教育勅語への礼賛は、この国の保守・右派界隈にまるで「常識」というぐらい普遍的に見受けられる現象である。

いわく「教育勅語の復活により現代社会の道徳堕落の乱れを正す」云々。保守系の集会や講演会に行けば、二言目には「あるべき道徳社会の模範」として必ず教育勅語の存在が引き合いに出されるのだ。

この保守・右派界隈に頻出する「教育勅語礼賛」へ、私が感ずる強烈な気持ち悪さというか、違和感とは、次の二点である。

1)教育勅語が存在した時代には、現代社会よりも高い道徳観が存在していたという思い込み

=つまり前述稲田大臣の発言部分の「そこ(道徳観)は取り戻す」という言葉に象徴されるように、教育勅語が存在した時代には高い道徳観が存在したが、現在は失われてしまっており、よって教育勅語を筆頭とした道徳観は「取り戻すべき存在」として認識されているということである。

2)教育勅語を礼賛したり、復活したりすることを勧奨し、高い道徳観を至高のものと説く人物に限って、道徳的に退廃した私生活を送っているということ

=教育勅語が示す精神、例えば父母への孝行、兄弟は仲良くし、夫婦は互いに調和しあい協力し合って、慎みの精神を持ち、尊法精神の涵養すべしなど(これ自体は至極真っ当な道徳観だ)を至高のものであり、現代はそれが失われていると嘆き、よって教育勅語の復活が重要だと説く人間ほど、夫婦愛も尊法精神もない、ということである。

・現代日本は道徳的に退廃している、という妄想

まず、1)の観点から見ていきたい。果たして教育勅語の存在した時代は、教育勅語の内容が示す通り、道徳的に高い時代だったのだろうか?

この国の保守・右派界隈は、教育勅語が存在した戦前日本を、教育勅語の内容が示すままに、なにか高い道徳的価値観を保った美的な社会であると思い込んでいる節がある。それは現在、保守派・右派とされる文化人らの著作を少し紐解くだけで明瞭としてくる。例えばその筆頭は、保守言論界の重鎮と目される櫻井よしこ氏の著書には、次のように教育勅語とそれが存在した時代を手放しで肯定している。

(教育勅語が)「朕惟フニ」で始まるために今では”悪しき帝国主義”の元凶のようにされ、否定されがちだが、そこに書かれているのは兄弟愛、夫婦、友人との人間関係の基本から、人を愛すること、国の法律を守ることまでを「十二の徳目」として列挙した真っ当な内容だ。現代の日本人が忘れてしまっているこの素晴らしい心得はかつての日本人にとっては当然の価値観だった。だからこそ、明治政府はこうした事柄を国民教育の基礎と位置づけ、日本国の姿を伝統のまま守ろうとしたのだ。

出典:『気高く、強く、美しくあれ 日本の繁栄は憲法改正から始まる』PHP文庫、括弧内・強調引用者

強調部分で顕著なように、どうも櫻井氏は教育勅語に書かれている内容そのものを「戦前日本の真の姿」と思っているようである。そして教育勅語が失われ、新たに戦後出来た教育基本法を、

教育勅語と明治憲法は、対の形で日本国の土台を形成していた。そして現行憲法において教育勅語の役割を果たすのは、教育基本法のはずだ。しかし、教育基本法は、かつて教育勅語が国民に道理や道徳を教え導いたような役割を果たしてきただろうか。明らかに否である。

出典:前掲書

と痛烈に批判したうえで、「宗教心も道徳心も消え去ったかのような現在の日本で、宗教心の育成、小さな存在としての人間を超えた大摂理への畏敬の念を養うことがどれ程大切かは、今更言うまでもない」(2016年5月)と自身の週刊誌上のコラムにて嘆き、現行の教育基本法の時代=現代の道徳観の低下を憂い、教育勅語の時代を「取り戻すべき至高の道徳の時代」であるかのように定義している。この世界観は、冒頭に登場した稲田防衛大臣の考え方と類似しているといってよい。

・教育勅語の時代は現代よりも不道徳?

しかしながら、教育勅語の時代は、教育勅語に書かれているのと真逆の、不道徳の時代であった。詳細は名著『戦前の少年犯罪』(管賀江留郎著 築地書館)の中に縷々描かれているが、櫻井氏が言う「現代の日本人が忘れてしまっているこの素晴らしい心得はかつての日本人にとっては当然の価値観だった」はずの時代に、読むもおぞましい不道徳な蛮行が行われていた。しかも教育勅語を激しく訓話されていたはずの青少年の手によって。以下、同書より重要事件を3つ引用する。

1)1934年3月15日 20歳の真面目な長男が何人殺せるか試すために一家皆殺し

奈良県北葛飾郡の農家で深夜二時、長男が就寝中の家族五人の頭を斧で殴り、母親、二男、長女、三男を殺害、父親を重体とした。すぐに隣家に押し入り、就寝中の長女の頭を斧で殴り、逃げようとするところを肩と足を切って重傷を負わせ母親にも切りつけたが斧を奪われ逃走、百メートル離れた線路で列車に飛び込み自殺した。

出典:前掲書、年齢表示は引用者が省略した

2)1945年4月17日 17歳が一家五人を惨殺

長野県下伊那郡の農家で、三男が父親、母親、四男、二女、三女を殺害、三キロ離れた山林で猟銃自殺した。前日に近所の家から米を盗んで両親に叱られており、就寝中の両親の顔や頭をまずカナヅチで殴り、カナヅチの柄が折れると斧でめった打ちにしたもの。

出典:前掲書、同

これのどこが「現代の日本人が忘れてしまっているこの素晴らしい心得はかつての日本人にとっては当然の価値観」の時代だというのだろうか?親孝行どころか、親を含めて一家惨殺。現代なら数週間も全国ニュースで取り上げられてもおかしくはない大事件である。ちなみにかの有名な津山三十人殺し(津山事件)はこれとは別に1938年に起こっている。

3)1933年7月9日 女学校3年生らの桃色遊戯グループ「小鳥組」

東京市四谷区で夜十時過ぎ、裁縫女学校三年生と無線電話学校一年のカップルが、簡易旅館に入るところを警官に見つかり逮捕された。この女学校の三年生七、八人は四月に「小鳥組」を結成、「現代女性はすべからく異性と交際して、時代に遅れぬ良妻賢母を心がけねばならぬ」という誓いの下、放課後に新宿の喫茶店などで異性を紹介しあい、またお互いに相手を交換までしていた。

出典:前掲書、同

教育勅語で道徳を叩き込まれていたはずの当時の青少年が、「良妻賢母」を大義としてスワッピング・サークル然とした「桃色遊戯」を楽しんでいた事実を、いかように解釈すればいいのだろうか。塚本幼稚園(森友学園)、稲田大臣、そして櫻井氏を筆頭とする保守派・右派の多くが「教育勅語のおかげで戦前は高い道徳の時代であった」と無根拠に思い込んでいるが、それは後世に創造された妄想に過ぎない。そして教育勅語の時代は「道徳的に善」で、戦後の現代が道徳的に腐敗堕落しているというのも、少年犯罪をはじめ、刑法認知犯全体が減少している明確なデータを鑑みても、無根拠な妄想なのである。

教育勅語は明治国家による教育の規範として1890年に発布されたが、教育勅語の内容をそのまま時代の反映とするのは無知の極みであろう。自明のことは表明されないのだ。つまり、当たり前の常識はわざわざ言葉にされないのである。親不孝、兄弟不和、不倫・浮気、不道徳と怠慢と不正が蔓延していたからこそ、教育勅語による上からの教導が必要であった。

これは、よく教科書に登場する「慶安の触書(現在は再考証され、教科書記述から削除される方向にある)」の文面を観て、「近世江戸の農民は規則でがんじがらめにされていた」と、すわ貧農史観に直結させる考え方に似ている。自明のことは言葉にされない。それが守られないからこそ、わざわざ文面で訓話する必要があるのである。このような教育勅語礼賛の背景にある「あの時代は良かった」考こそ、無根拠で疑問視すべき歴史観なのではないだろうか。

・他人に道徳を強制する者こそ最も不道徳

もうひとつ「教育勅語礼賛」への強烈な違和感の二点目、「教育勅語を礼賛したり、復活したりすることを勧奨し、高い道徳観を至高のものと説く人物に限って、道徳的に退廃した私生活を送っているということ」については、端的に以下の事例を挙げるのが適当であろう。

元航空幕僚長でホテルグループ・アパが主催した懸賞論文「真の近現代史観」の第一回大賞に輝いた論文を巡る騒動=いわゆる「田母神論文」で一躍時の人となり、保守界隈の寵児となって2014年には東京都知事選挙に立候補するにまで至る田母神俊雄氏は、2010年3月、自身の公式ブログにて次のように記述している。

1)教育勅語と修身の教科書を復活せよ

戦前の日本人の自立心や道徳観の高さを支えていたのは、教育勅語と修身の教科書である。(中略)教育勅語というと、その言葉を聴いただけで拒否反応を示す人たちがいると思う。しかし、教育勅語に書いてあることは、今現在でも世界中に当てはまる極普通のことだけである。

親孝行をしましょう、兄弟仲よくしましょう、夫婦仲良くしましょう、人格を磨きましょう、国家に緊急事態が起きたときは、みんなで力を合わせて公のために頑張りましょう、とかいうものである。修身の教科書は、教育勅語を具体例を挙げて解説しているものである。(中略)これら二つが戦前のわが国の道徳教育を支えていたのである。現在の教育を正常化するためにはこれら二つを復活すればよいのではないかと思う。

出典:田母神俊雄公式ブログ・教育勅語と修身の教科書を復活せよ、強調引用者

この世界観は前述櫻井氏と大差ないように思えるものだ。しかし罪深いのは、このように一方で教育勅語の特高い道徳観を至高のものとしてその復活を他者に強要する一方で、自身の私生活は不道徳に満ちた二枚舌であった、ということである。田母神の私生活については、2014年12月5日に産経新聞が次のように報じている。

田母神氏は、30年以上連れ添った妻と2人の子供がいるが、5年ほど前に出会った50歳前後の女性と恋仲になり、一時は自分の秘書にした。2年前に田母神氏は妻と離婚して女性と結婚しようとしたが、妻は拒否して離婚訴訟に発展した。

出典:田母神氏、フライデー「不倫」報道に正面反撃! FBで「交際中の女性守らねばならぬ」と吐露 激励「いいね!」殺到、強調引用者

民事の「泥沼」離婚裁判なので、原告・被告の双方どちらが正義ということはない。双方に理があり主張があるのであろう。よってこれについての論評はしないが、仮に事実がこの記事のとおりであったとして、「30年間連れ添った妻と2人の子供」をおざなりにして50歳前後の女性と不倫するのは、教育勅語の謳う「夫婦の協和・協調」と著しく矛盾するのではないか。少なくとも声高に教育勅語を引き合いに出して道徳の崇高さを謳う人の言としては不適切のように思える。

田母神は前述2014年に出馬した東京都知事選挙に関連した公職選挙法違反の疑いで2016年4月14日に東京地検特捜部に逮捕、その後起訴され、現在裁判中。つい2017年3月10日には、検察側が2年を求刑したというニュースが流れたばかりである(判決5月22日)。こちらは歴とした刑事事件の被告人として「悪」が裁かれることに相成ったわけだが、これも、教育勅語が謳う「尊法精神」から著しく逸脱してはいまいか?

教育勅語の道徳観を礼賛することは自由だ。そこに書かれていることは、大変に常識的なことばかりであると私も思う。しかし教育勅語の存在した時代を一方的に「道徳的に高い時代」と位置付けたり、或いはそこから援用して現代を「道徳的に退廃している」と糾弾し、教育勅語の時代を「取り戻すこと」に躍起な人々の中の少なくない部分には、田母神のように片方で道徳を唱え、片方で平然と不道徳(とみなされるような民事裁判や刑事犯罪)を冒す二枚舌の人物が存在することを忘れるべきではないのではないか。

むろん、戦後の日本とて、すでに前述した『戦前の少年犯罪』の例のように、青少年による猟奇事件・性愛事案は数多く存在する。ということは、戦前も戦後も等しく道徳は廃れていたのであり、「戦前が善で戦後が悪」という一方的な時代の「色分け」は不適用である、ということも存分にできよう。土台、時代に「善悪」の塗り分けなど無意味であり、教育勅語が存在した時代も現在と同じように人々は不道徳で、悪徳が栄えていたのである。そんな当たり前のことを教育勅語の存在を盾に認めないのはアンフェアだ。

実は、例示こそしないものの、過去の時代(戦前日本)を過度に礼賛し、教育勅語に代表される教育の理想をとうとうと説く保守派・右派とされる人々の中には、この手の人物が少なくない。

道徳を声高に叫ぶ一方実は隠し子が居たり、妻や夫がありながら「保守界隈」の中で出会った相手と平然と不倫をくりかえし、表向きは「凛とした日本男子・大和撫子」などと厚顔無恥に喧伝する人々を私は何十人と知っている。

私は彼ら彼女らの不道徳を糾弾しているのではない。誰しも不道徳を楽しんでいる側面はある。繰り返すように、それは戦前・戦後の別なくである。であるならば、他者に道徳を強制するべきではない、ということだ。少なくとも、自分が不道徳な人間なのに、他人に対してだけ道徳を強制するのは筋違いだ。己の不道徳を自覚するなら、他者の不道徳にも寛容でなければならない。

教育勅語が発布されて120年以上が経つが、いまだ教育勅語の理想というのは、良い意味でも悪い意味でもこの国の中で実現していない。しかしそれは、おそらく古今を問わず人間の自然な姿なのだろう。

改*2017/3/10*19:50

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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