朝日新聞が”「スマホやめるか、大学やめるか」と信州大入学式で学長が迫った”と報じた件について
「スマホやめるか、大学やめるか」大学の学長が迫れば当然注目は集まる、が…?
新年度に入り各会社や大学で、その組織のトップによる訓示が行われ、時としてその内容が報じられることになる。その中で、先日話題に登ったのが、ヤフーニュースにも転送される形で掲載された、朝日新聞報による信州大学の学長の訓示。[「スマホやめるか、大学やめるか」 信州大入学式で学長」とのタイトルで4月5日午前9時7分に配信されたものだが、記事タイトルからすでに「スマホやめるか、大学やめるか」との挑発的な文言に加え、実状的にスマートフォンの利用が高校生や大学生では当たり前の昨今となる中で、記事文中にも「迫った」との説明に、各方面で大きな話題を集める形となった。
大学の新入生となれば、その多くは先日まで高校生だった時分。その高校生ではすでに9割超がスマートフォンを有しているのが現状である。先日確定報が発表された内閣府の「平成26年度青少年のインターネット利用環境実態調査結果」でも、格安スマートフォン、機能限定・子供向けスマートフォン、契約切れスマートフォンまで合わせると、高校生の90.7%がスマートフォンを利用しているとの結果が出ている(「小中高校生のパソコンや携帯電話の利用率の変化をグラフ化してみる(2015年)(最新)」)。
このような状況で、新大学生にスマートフォンと大学の二者択一を求めるというのは無理難題に過ぎる。だからこそセンセーショナルな形で読まれ、多くの論議を巻き起こすことになった。
しかし同時に違和感を覚える。学長の語りを意訳した、あるいは編集の結果、今件のような「学長は見当違い、時代錯誤的な事を語っている」論調の記事になったのかもしれない。そこで他報道の動向を調べることにした。
長野日報の記事が掲載時点では一番よく主旨が分かる。学長は例えば「少年よ、大志を抱け」のような、たとえ話として語ったものであるのは明らか。
また、懸念されているようなスマートフォン利用のしすぎで心身に弊害が出ている状況は多数の調査結果で明らかにされている。一例を挙げると、情報通信政策研究所が2014年5月に発表した「高校生のスマートフォン・アプリ利用とネット依存傾向に関する調査」では、高校生のうちスマートフォン利用者の1/4が「自分はインターネット依存症」との自覚を持ち、1割強は「起きている間はずっとスマートフォンにつきっきり」と認識しているとの結果が出ている。スマートフォンそのものが原因なのでは無く、スマートフォンがあまりにも魅力的・有意義なツールであり、それを使うための自制心が伴わない結果、弊害が生じているのが見て取れる(「一心同体、ネット依存、試験に失敗…高校生のスマホ生活、その悪影響の実態を探る」)。
このような広範囲に渡る影響が生じている状況を鑑み、懸念性を訴えかけるのは何もおかしな話では無い。
さらにいえば本当に学長・学校側がその権威を持って使用を禁じる意図を持つのなら、校則レベルで利用を差し止める話になる。しかし同大学で「スマートフォン所有禁止令」なる規則が設定されたという話は聞かない。
学長の訓示をより詳細に
その後さらに調べていくと、朝日新聞の長野総局が今件学長の訓示に関して、その内容をより詳しくツイッター上でツイートしていたことが判明した。
上記はその一部だが、全部で6ツイート分掲載されており、その内容の限りでも最初の朝日新聞の記事にあるような、挑発的なものとは大いに異なるのが分かる。そしてこのツイートは2015年4月4日21時から22時にかけてのもの。なぜその時点でここまで詳細な訓示内容が把握できていたにも関わらず、あのような主旨として読み取れる記事が出来てしまうのか、極めて疑問でならない。
その後、朝日新聞側でも5日の午後4時過ぎに学長の訓示全文が掲載された(「信州大学・山沢清人学長の入学式あいさつ全文 - 朝日新聞デジタル」)。普段はあまり無いことだけに、問題を認識していたことが分かる。
また今件訓示は信州大学自身でも、先ほどその内容の全文が掲載された(「平成27年度入学式学長あいさつ (2015年4月4日」)。該当する部分を一部そのまま引用すると次の通り。
信州大学では、自然に囲まれた緑豊かなキャンパスでの勉学と課外活動、都会の喧騒とは無縁の落ち着いた生活空間、モノやサービスなどが溢れることのない地に足の着いた社会など、知的にものごとを考え、創造的な思考を育てる環境を簡単に手に入れることができます。先輩諸氏は、このようにして、ゆっくりとした時間の流れを作っていたのです。
皆様はどうでしょうか。残念なことですが、昨今、この信州でもモノやサービスが溢れ始めました。その代表例は、携帯電話です。アニメやゲームなどいくらでも無為に時間を潰せる機会が増えています。スマホ依存症は知性、個性、独創性にとって毒以外の何物でもありません。スマホの「見慣れた世界」にいると、脳の取り込み情報は低下し、時間が速く過ぎ去ってしまいます。
「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」 スイッチを切って、本を読みましょう。友達と話をしましょう。そして、自分で考えることを習慣づけましょう。自分の持つ知識を総動員して、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性豊かな信大生を育てます。
確かに学長は「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」と語っている。しかし上記の抽出部分だけでも、それが訓示の主旨ではないことが分かる。全文を読めば、そして上記に挙げたさまざまな調査結果や現状を把握すれば、間違った話ではない、的外れな内容では無いことが分かる。
それをあたかも主旨であるかのような形で強調し、あまつさえ記事タイトルにするあたりは、煽りによる記事への注目度の高まりを意図したものか、それとも「分かりやすく、そして正しい」という報道の本旨を忘れてしまったのか、あるいは単に文章の読解能力に欠けているのか。いずれにせよ好ましい書き方では無い。
さらなる問題提起も
今件は別なる問題提起となった感もある。この朝日新聞の記事のみを読んで、その内容がセンセーショナルだったことから、各方面で「『スマホやめるか、大学やめるか』とはよろしくない」「今の情報化社会ではスマホは必要不可欠だ、その実情を無視した時代錯誤的な強弁だ」的な主旨の論説、さらには信州大学の姿勢を非難する記事が複数か所で確認できる。
しかしそれらの論説は学長の訓示を確認した上で考え直すと、「スマートフォンは今や日常生活では大切、必要不可欠」とその便宜性、情報取得の大切さを主張する一方、そのスマートフォンを用いた情報取得の上では絶対に欠かせない「情報の確からしさの精査」の観点で、大きな錯誤の露呈が生じている、自己矛盾性が体現化されてしまっているのが分かる。
色々と頭の痛い話ではある。自戒の意味も込めて。
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