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「バックカントリーの楽しさを日本の子供たちにも教えたい。」(インタビュー Part1)

後藤陽一株式会社Pioneerwork 代表取締役
©Mikio Hasui/KLEE INC.

Nicolas Hale-Woods

プロフィール

エクストリームスキーやビッグマウンテンスキー、フリーライドスキーとも呼ばれる、ありのままの自然を滑るスタイルのスキーとスノーボードの世界選手権「Freeride World Tour」を20年前にスイスの山岳リゾートVerbier(ヴェルビエ)で始め、世界3500人が参加し、100大会以上の予選が行われる大会に育てた。現在その運営会社であり、競技連盟の機能も持つFWT Management S.A.(本社・スイス)のCEOを務める。

「バックカントリー」とは、リフトの無い、自然のままの山や、そこを歩いてスキーやスノーボードをすることである。2015年の始めくらいから、「コース外滑走」などとも言われ、遭難事故が頻繁にニュースで取り上げられるようになり、一般の人にもよく知られる言葉になった。

ヨーロッパから日本にスキー文化が入ってきたのはおよそ100年前だと言われている。当然、その頃にはスキー場もリフトも無く、スキーをする人達は空模様や積雪の状態と相談し、安全だと思われる時だけ山に登ってスキーを楽しんだ。バックカントリーとはつまり、スキーの原点でもあるが、整備されたスキー場を滑ることが一般的になってからは、「山岳スキー」として区別されてきた。

当たり前だが、スキー場は山を切り開いて作られた施設であり、綿密に管理されたエリアから一歩外に出ると、そこは厳しい冬山である。バックカントリーを楽しめるのはもともと、トレーニングを積み、リスクを見極められる、スキーヤーの中でも高度な登山のスキルを持った限られた人だけだった。

しかし、バックカントリーを楽しむ人は世界的に急増している。スキー・スノーボード・クライミングの道具が過去10年で劇的に進化し、パウダースノーや不整地を滑るのが上級者だけのものではなくなったこと。インターネット上にスキーブランドのプロモーション動画、GoProの映像が溢れ、ゲレンデの外を滑る、より自然に近いスキー本来の楽しさをバイラルに広めていることが原因だ。

バックカントリーの楽しさは、誰も滑っていないラインを探すこと、自然と一体になる感覚に浸ること。ゲレンデにはないチャレンジングな斜面やパウダースノーと向き合うことだろう。日本では残念ながら、こうした魅力だけが先行して広まってしまい、実力に見合わない場所に行く人が増え、事故がニュースで非常にネガティブに取り上げられる結果となってしまった。

今回のインタビューは、バックカントリースキーとスノーボードの世界選手権「Freeride World Tour」(以下FWT)の創始者であり、CEOを務める、Nicolas Hale-Woods。

20年前にスイスのスキーリゾートVerbierで小さなイベントを始め、FWTを10代から元オリンピック選手まで3500人以上が参戦する地球規模のトーナメントに育て上げた人である。ヨーロッパでは「フリーライド」とも呼ばれるバックカントリー。彼は、その安全な楽しみ方や「アバランチギア」と呼ばれる遭難救助用具の使い方をジュニア選手の育成や動画のコンテンツを通じて世界中に広めている。

2016年1月に視察のために長野県白馬村を訪れた彼に、バックカントリー・フリーライドの楽しさについて、また、過去にはUEFA(欧州サッカー連盟)などでサッカービジネスの中心にいたこともある彼に、「エクストリームスポーツ」とも呼ばれるスポーツの世界から見た、現代のスポーツビジネスについて、話を聞いてみた。

FWT視察ツアー(2016/1/5)  ©Mikio Hasui/KLEE INC.
FWT視察ツアー(2016/1/5) ©Mikio Hasui/KLEE INC.

後藤:日本へようこそ。今年は雪が少なくてすいませんね。

Nicolas:過去70年で一番少ないらしいですね。でもはっきり言ってそれでも山の上は十分な積雪量ですよ。最近はヨーロッパも北米ももっとずっと雪が少ないので、逆にいつもどおり積もったらどれだけ多いのか想像出来ません。

後藤:この4日間、八方尾根スキー場とか、コルチナスキー場のバックカントリーを歩いて、滑ってもらいましたが、どうでしたか?

Nicolas:写真では、唐松岳とか、不帰ノ嶮(かえらずのけん)の斜面を見ていましたが、実際に見たら想像していた以上に素晴らしい山で驚きました。毎年ヨーロッパアルプスや北米の山脈、去年からはアラスカでもFWTの大会を実施しましたが、全くひけをとらない、素晴らしい雪山だと思います。白馬の山はまだ世界的には発掘されていない「宝石」じゃないでしょうか。

白馬  ©Mikio Hasui/KLEE INC.
白馬 ©Mikio Hasui/KLEE INC.

後藤:第1回のFWTは1996年に開催されていますが、当時バックカントリーに入る人はほとんどいなかったのではないかと思います。この大会はどうやって始まったんですか?

Nicolas:「ワールドツアー」になったのは日産がパートナーになった後の2008年大会からで、最初は、スイスのVerbierというスキー場から見えるBec des Rossesという山をスノーボードで滑るのを撮影するイベントでした。

後藤:最初は順位を決める大会ではなく、フィルムイベントだったんですね。

Nicolas:そうです。

後藤:私も昨年Verbierの大会を観に行って、Bec des Rossesを目の前で見ましたし、FWTの動画はもう何度も見ていますが、そもそも何であんなクレイジーな斜面をスノーボードで降りるイベントをやろうと思ったんでしょうか?

Bec des Rossesの斜面とFWTの会場の様子(2015)
Bec des Rossesの斜面とFWTの会場の様子(2015)

Nicolas:理由は、そうですね、私のスキー、スノーボードや、自然と対峙するスポーツに対する情熱でしょうか。祖母が私が3歳のとき初めてスキーを履かせてくれて、10歳のときにスキー場に連れて行ってくれました。彼女は亡くなる半年前までスキーに出かけるくらい、スキーが大好きな人でした。私もそれ以来、毎日毎日スキーをしにゲレンデに通いました。この時祖母が教えてくれたスキーの楽しさが、世界中の人に山を滑る楽しさを広めるという、私の活動の原点だと思います。

17歳のとき、当時まだだれもやっていなかったスノーボードに乗り始めました。80年代にはまだスキーは幅の狭いものしかなかったので、パウダースノーの斜面を速く滑れるスノーボードは全く新しい体験でした。まだ多く商品がなかったこともあって、自分で木を削って板を作り、街で履いているスノーブーツで乗ったりもしていました。スノーボードはそこからものすごいスピードで進化して、広まりましたね。

最初に撮影を始めたのもこの頃で、スノーボードブランドのプロモーション用に写真とか動画を撮っていました。いろんなブランドから依頼が来るようになったので、フィルムプロダクションの会社を立ち上げました。例えば、スノーボードを雪の上のサーフィンに見立てたコンセプトの映像を作ったりしましたね。

ちなみに、私は18歳の時からサーフィンもやっていて、今回白馬に来る直前もスペインでサーフィンをしていたのですが、「スイスサーフィン協会」の立ち上げもやったんですよ。

後藤:スイスには海が無いですよね。(笑)

Nicolas:はい。(笑)でも、スイスサーフィン協会は世界選手権に選手を送り込むまでになりました。

後藤:ジャマイカのボブスレーチームみたいですね。(笑)

Nicolas:そうですね。(笑)陸に囲まれた、海も波も無い国から来たサーファーですからね。

そう、それで「スノーサーフィン」をコンセプトにして、サーフィンとスノーボードが両方入っている映画を撮影したんです。実はこの映画が私が初めてスポンサーシップを獲得したコンテンツでした。スイスのナイフメーカーVICTORINOXに、フィルムに出てくるスノーボードとサーフボードを彼らのコーポレートカラーの「赤」にする事を提案したんです。

1994年、私が26歳の時にリリースされたこのフィルムの中で、真っ赤なスノーボードでVerbierのBec des Rossesを滑る映像を作ったのが、FWTの原点ですね。Bec des Rossesはスキー場のゴンドラ降り場からよく見えるので、この撮影の時に、数百人が立ち止まって真っ赤なスノーボードで降りてくるライダーを見たんです。

後藤:だれもあそこをスノーボードで降りる人がいるとは思わないでしょうからね。(笑)

Nicolas:そう。この時に、Bec des Rossesに世界中から最高のスノーボーダーを集めてイベントをやったら、人が集まるんじゃないか、全く新しいコンセプトのコンテンツが出来るんじゃないか、って思ったんですよ。

ただ私たちにはイベント運営の経験が無かったので、いろいろな人達に協力を仰がないといけませんでした。まずVerbierの自治体に許可をもらって、イベントの主催者になってもらいました。次にレスキューの人達に協力してもらうようお願いに行くと、喜んで協力すると言ってもらえました。1994年当時、バックカントリーに行く人が徐々に増えていたのですが、まだ誰もヘルメットも付けていないし、今や捜索の際に無くてはならない雪崩ビーコンを装着している人も稀でした。Verbierのレスキューチームとしても、スキー場の外の山でスキーを楽しむ人が増えている中、特に子供たちに対して、適切な装備を付けることやバックカントリーの危険について教育する必要性があったのです。私たちの企画で世界からトップライダーが集まることで、子供たちや、これからバックカントリーを始めようと思っている人の良いお手本になる、そう考えてくれました。

スポンサーワークも大変でした。たぶん100社以上は協賛の提案をしに行きました。その中で一つだけ、あるエージェンシーが提案書に目を留めてくれました。そのエージェンシーはちょうどRed Bull Switzerlandの立ち上げを担当していたので、彼らが紹介してくれたRed Bullがメインスポンサーになってくれたのです。Red Bullはまだスイスで商品も売っておらず、協賛金の一部はRed Bullのドリンクでした。私たちが自分でVerbierのクラブとかバーにそれを売って歩いて、その売上を運営予算に回しました。

構想を始めてから2年、私が28歳の1996年に最初のイベントをやりました。実はこの年はものすごい雪不足で、2日前まで大会が出来ない状態でした。2日前に奇跡的に30cm雪が降って何とか実施出来ました。

反響は予想以上でした。Bec des Rossesを世界中から集められたスノーボーダーが滑る映像は夜8時のニュースでスイス中に流れました。予算の半分を映像のプロダクション費用に使ったこともあって、最初から映像のクオリティは高く、このユニークでエキサイティングなコンテンツは当時のスポーツの世界に大きなインパクトを与えたと思います。

この時の大会2日前の雪が降らなかったり、あの週末に雨が降ったり曇って何も見えないような天気だったらたぶん今は別の仕事をしてましたね。なのでこうやって日本に来て、インタビューを受けることもなかったと思います。(笑)でもあの奇跡のおかげで、私たちはこのコンテンツの可能性を知ることが出来た。

後藤:なるほど。最初はスイスでの単独開催だったんですね。

Nicolas:北米での大会が加わって、今のFreeride World Tourになったの2008年ですが、実は1997年から他国での大会も開催して「ワールドツアー」にする構想はありました。ただ、今思うと90年代はゲレンデスキーの全盛期で、フリーライドのコンセプトの大会を開くには時期尚早でしたね。興味を示してくれた企業もありましたが、実施に十分なスポンサーは集まらなかったでしょうね。

(Part2「UEFAを辞めた理由と、スポーツへの情熱をお金に変える方法」に続く)

株式会社Pioneerwork 代表取締役

電通を経て、フリーライドスキー/スノーボードの国際競技連盟Freeride World Tour(FWT)日本支部マネージングディレクター、2019年11月に株式会社Pioneerwork創業。日本が誇るアウトドアスポーツカルチャーとそのフィールドの価値を爆上げすることをミッションにしています。ヤフーニュース個人では山岳スポーツ・アクションスポーツ・エクストリームスポーツをカバーします。

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